| １６ その荒れ果てた部屋は、明らかに悪意が込められていた。 いつも敷きっぱなしだった布団は、シーツがビリビリに破かれ、おまけに布団には小便がぶっかけられ、その中央には半分に千切られた黄色いウンコが、中途半端に転がっていた。 ビリビリに破かれたカーテンや絨毯の所々には焦げ後があり、それは恐らくこの家を放火しようとしたに違いなかった。 そんな荒れ果てた部屋の真ん中に、例の如く１枚のメモ用紙がポツンと置いてあった。 『先生へ。 ざまあみろ。 死ね。 カリカリ目糞』 最後のカリカリ目糞の意味はわからなかったが、しかしその書き置きからは、今まで蓄積された恨みがムンムンと伝わって来た。 （あいつらは２人で駆け落ちしたというのか……） 強烈な絶望に打ちひしがれながら、真野は急いでタンポポの実家に電話を掛けた。 スリーコールでタンポポのお母さんが電話に出た。 「あのぅ、幸せの家の真野ですが……」 真野がそう言うと、タンポポのお母さんは何もなかったかのように「いつも娘がお世話になっております」と、いつもの口調でそう答えた。 恐らくタンポポは、逃亡した事をまだ母親には伝えていないのだろう。 真野は、今ここでタンポポが逃亡した事を母親に知られてはマズいと思い、「あれ？ 東田君の家と間違えました、すみません」と、とぼけて言うと、そのままプッと電話を切った。 真野はもう一度タンポポの部屋を詳しく捜索してみようと、階段を駆け下りた。 よりにもよってどーしてタンポポはあんなキチガイを選んだんだよ！ と、叫びながら、玄関の柱をおもいきり蹴飛ばし、あまりの痛さに「うぎゃ！」と叫びながら廊下をのたうち回ると、それで頭が冷やされたのか、ふと真野の頭に（どうせすぐに帰って来るだろう）という、冷静な考えが浮かんだ。 真野はジンジンと痛む爪先を押えながら、廊下に寝転んだままジッと静かに考えた。 片や女子高生、片や精神異常者。 一文無しのこの２人がいったいどこまで逃げられると言うのだ…… どうせそのうち、腹が減ったら「先生、ごめんなさい……」と泣きながら帰って来るに決まってる。 あの２人に野宿をしたりゴミ箱を漁るような、そんなホームレスの真似事が出来るはずがないじゃないか…… 真野はゆっくりと起き上がりながら、フーッと大きな溜息を付いた。 そして、もし２人が帰って来ても、東田だけは絶対に家に入れてやるもんかと、子供のように意地悪く笑った。 しかし……タンポポが帰って来るまでの間、セックスの処理はどうしたものか……と、そんなバカな事を考えながらドカドカと台所へと行き、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出した。 そしてペキン！ っとビルーの栓を抜くと、それをそのままゴクゴクとラッパ飲みしながら（まぁ、取りあえずは、タンポポが帰って来るまでの間は風俗でもハシゴしながら性欲を発散しておきますか……俺様はこー見えても金持ちなんだしねぇ……）と、天神様からふんだくった８００万が隠してある引き出しを開けた瞬間、真野はおもいきりビールを「ブッ！」と吹き出した。 棚の奥に隠しておいた８００万は見事に消えていた。 引き出しの中には、半分に千切られた黄色いウンコの片割れがポトンと置いてあるだけだった。 （嘘だろ？……） その東田君のモノと思われるウンコの片割れを指先でツンツンと突きながら、真野は呆然とした。 金を盗られたというショックと、その金がある以上、タンポポはここには帰って来ないというショックが入り乱れ、真野の脳味噌は途方もない絶望感に包まれた。 真野はそのウンコの片割れを強く摘んだ。 ウンコはいとも簡単にクニュッと潰れ、その潰れた部分から強烈な臭気を発した。 （全てが終わった……） 真野は指に付いたウンコの破片を壁に擦り付けると、その指をソッと嗅ぎながら、一言「臭いな……」と呟き、そして微笑んだ。 指のウンコを嗅いでいると、次々に可笑しさが込み上げて来た。 なにがそんなに可笑しいのか自分でもわからないままゲラゲラと笑いまくり、笑ったまま裏口へ行くと、そこにポツンと置いてあるポリタンクを手にした。 それは、二年前、この『幸せの家』で生活していた箕輪という頭の狂った青年が、世界革命戦争が始まった時に備え、大量の火炎瓶を作っておかなければと蓄えていたガソリンだった。 （あの赤軍キチガイの箕輪のガソリンが……まさかこんな形で役に立つとはな……） そう微笑む真野も、箕輪同様、精神に異常を来たしていた。 因みに、その箕輪という青年は、現在、国立の精神病院にて、来るべき世界革命戦争に向けての思考訓練を続けている。 ポリタンクの蓋をカポカポと開けながら廊下を進む真野はチャイコフスキーのピアノ協奏曲を口ずさんでいた。 が、しかし、気が付くとその曲は『サッポロ一番みそラーメン』のＣＭソングに変わっていた。 タンポポの部屋の襖をガサッと乱暴に開けた。 ポリタンクをタンポポの布団に傾けると、トプトプトプという音を立てながらガソリンが溢れ出した。 タンポポの匂いが残る布団にたっぷりのガソリンを染み込ませた。 （いじめられっ娘に逆襲されるいじめっ子ってのは……強烈に辛いなもんだなぁ……） タンポポの香りが残るものは全て焼き払うつもりでいた。 カーテンとクッションにガソリンを掛け、タンポポがいつも使っていた卓袱台にもガソリンを垂らした。 ガソリンが卓袱台の上に広がり、それが畳の上にポタポタと垂れ始めると、この卓袱台で勉強していた時のタンポポの細い後ろ姿が鮮明に甦ってきた。 おもわず顔をクシャクシャにして泣き出した真野が、「タンポポ……」と呻きながら崩れ落ちようとしたその時、ふと玄関で小さな物音がした。 崩れかけていた真野は、喉をヒクッと鳴らし泣き声を止めた。 ギロッと目玉をひん剥き、蝋人形のようにピタリと止まったまま息を殺して耳を澄ました。 再び玄関から物音が聞こえてきた。それは、明らかに誰かが玄関に入ってきた音だった。 「神様……」 おもわずそう呟いた真野の目の前が一瞬にして明るくなった。 （タンポポが、帰って来てくれんだ！） 畳の上にポリタンクが倒れた。 ひっくり返ったポリタンクの口から、タポタポタポと音を立てながらガソリンが畳に広がった。 「タンポポ！」と後を振り向くと、部屋の前の廊下にタンポポがポツンっと立っていた。 「先生……ごめんなさい……」 唇を尖らせながらそう項垂れるタンポポを見て、何故か真野は右手を、グーチョキパー、グーチョキパー、と繰り返していた。 落ちつけ落ちつけ落ちつけ。 そう繰り返す真野は、今すぐタンポポをこの腕に抱きしめたいのを必死に堪えながら冷静に言葉を選んだ。 「ど、どうして東田なんかと……」 真野の声は、強烈な嬉しさと猛烈な怒りで震えていた。 「あ、あいつは人生ゲームしかできないキチガイじゃないか！ ゲームで人生はできても、リアルの人生はあいつには無理だ！」 真野がそう叫ぶと、タンポポは再び「ごめんなさい……」と言いながらその場にゆっくりとしゃがみ、小さな嗚咽と共にシクシクと泣き出した。 しゃがんだミニスカートの隙間から股間が見えた。 何故かタンポポは下着を履いていないようだった。 そんなミニスカートの隙間を真野がドキドキしながら見下ろしていると、タンポポの股がジリジリと開き始め、最後には野球のキャッチャーがしゃがんでいる程に、その股は大きく開らかれた。 ジメッと湿っぽい股間に、ゴワッとした剛毛がアグレッシブに天を向き、その奥にはメラメラと濡れた淫媚なワレメが貪よりと口を開いていた。 「タンポポ……」 真野はそう呟きながら、滝のような涙を一気に頬に流した。 部屋に充満するガソリンの臭いに咽せながら、真野はフラフラとタンポポの前に崩れ落ちた。 「先生……会いたかった……」 タンポポが貪よりと笑った。 そう笑うタンポポの前歯はバキバキに叩き割られていた。 ボロボロの前歯を剥き出したその顔は、秋田のナマハゲのようだった。 「先生、好き！」 放心状態の真野にタンポポはガバッ！ と抱きついた。 不意にタンポポの頭からカツラがズルリと滑り落ち、縫い目がズブズブに浮かび上がった痛々しい傷が真野の目に飛び込んで来た。 よく見ると、その女は、真野に灰皿で頭を叩き割られた挙げ句、くしゃくしゃにヤキを入れられ入院していた春日さんだった。 「先生、私、ピンサロでもソープでも何でもします！ 先生の為なら何でもしますから、だから許して下さい！」 春日さんはそう叫びながら、まるで飼い主にじゃれる大型犬のように真野の頬に伝う涙をベロベロと舐め始めた。 そんな春日さんの口から洩れて来る息は、二週間冷蔵庫の中で放置されているアジの刺身のような生臭ささだった。 そんな春日さんから顔をソッと背けた真野は、春日さんの目を真正面からジッと見つめた。 そしてそんな春日さんの鼻に、ソッと人差し指を近づけた。 春日さんは、何の疑いも無く突き出された真野の指先をクンクンっと嗅いだ。 「うっ！」 そう唸った春日さんは、そのまま後ろに仰け反り、ドスンっと尻餅を付いた。 「臭いか？」 「……は、はい……」 「何のニオイだ」 「……ウンコ……」 「そうだウンコだ。これは東田のガキが俺に送りつけて来た挑戦状だ」 「……挑戦……状？」 真野はゆっくりと立ち上がると、尻餅を付いたままの春日さんにコクンと頷き、「そうだ。いじめられっ子の反撃ってヤツさ。これはきっと糞喰らえって意味だな」と、鼻で笑った。 「だから、今から東田を探す。そして、あいつが俺から奪ったモノを全て取り返す」 春日さんは無言でゴクリと唾を飲んだ。 「おまえ、俺の為に何でもすると言ったが……東田を殺す事が出来るか？」 春日さんは一瞬戸惑いながらも、しかしすぐに目をギラリと輝かせて「ぶち殺してやります」と力強く立ち上がった。 そんな春日さんを見て、真野は再び不敵に微笑んだ。 タンポポを探し出し、そしてこいつが東田を殺す。 こいつは確実に懲役だ、東田と春日という邪魔者は消えてなくなるのだ。 そうなれば、その時はやっと俺とタンポポは二人きりになれる。二人仲良く東京タワーの見えるマンションで暮らす事ができるのだ。 真野はそんな春日さんのブヨブヨに太った肩をそっと抱きながら、「いいシャブがあるぞ。今夜はおまえの退院祝いだ」と豪快に笑った。 坊主頭にムカデのような傷跡を残酷にギラリと輝かせる春日さんは、なぜか「ギャオウ！」と、まるでベトナム戦争が終結した直後のアメリカ兵のように、拳を掲げて雄叫びをあげた。 その直後、それまでイジメられっ子だった春日さんは、イジメっ子へと生まれ変わったのだった。 そんな春日さんという頼もしい相棒を手に入れた真野は、指のウンコ臭をクンクンと嗅ぎながら春日さんの坊主頭を優しく撫でた。 先生、先生、とうわ言のように呟きながら、春日さんは真野のズボンのチャックを下ろし、ダラリと垂れた真野のペニスを唇の中にペロリと吸い込んだ。 そんな瞬間を見下ろしながら、まるでアロアナが餌の金魚を飲み込むみたいだと真野は笑った。 笑いながらポケットの中から煙草を取り出した真野は、毛深い股の中でちゅぱちゅぱと音を立てる春日さんを見下ろしながら呟いた。 「いじめられっ子ってのは、いじめっ子にいじめられる為にこの世に生を受けたんだ。つまり、いじめられっ子ってのは、いじめっ子の餌って事さ。神様がアロアナに金魚という餌を与えたように、いじめっ子にもいじめられっ子という餌を与えてくれたんだよ。だからいじめられっ子が反撃しちゃいけないよ。金魚がどれだけもがいてもアロアナに勝てるわけがないんだからさ……」 口内からペニスをヌポッと抜いた春日さんが、そう得意気に呟く真野をソッと見上げた。 「じゃあ、私がいじめっ子になれば、私はもういじめられなくて済むんですか」 春日さんは目を爛々と輝かせながら真野に聞いた。 「いや、そうとも限らない……」 そう呟きながら、真野は煙草の箱の中から煙草を取り出した。 「いじめっ子になったらなったで、また別のいじめっ子が現れるだけさ。この世の中には自分よりもレベルの高いいじめっ子がいっぱいいるから、上を見てたらキリがないんだ。だから、実はみんな、いじめられっ子なんだ。みんな気付いていないだけで、この世の中はいじめられっ子ばかりなんだ。この世はアロアナの水槽だよ。俺たち人間はそこににポトンっと投げ込まれた金魚だ。俺たち人間は神様といういじめっ子にいじめられる、いじめられっ子なんだよ……」 そう呟きながら銜えた煙草の先で百円ライターをシュッと擦った。 その瞬間、ドン！ っと激しい重低音が響き、凄まじい地響きが轟いた。 真野も春日さんも、そして『幸せの家』も、全てが吹っ飛んだ。 それは、いじめっ子の真野が、神様にいじめられた瞬間だった。 （いじめられっ娘・完） |
| 2012.9.29掲載 |
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