（１）

　初めて覗いた「２ショットチャット」と言われるサイト。それは、ちょっとした好奇心からのことでした。しかし、よもやそれが、私の生活を脅かすほどの色情地獄の始まりになろうとは、その時の私にはまったく想像などできませんでした…

　私の名前は「小田桐遥（オダギリハルカ）」、３０歳になる専業主婦です。結婚して５年になりますが、子供は居ません。
　夫とは職場で知り合いました。俗に言う社内恋愛というやつです。
　今でも夫は凄く優しくしてくれますし、普通の家庭よりはかなり裕福な暮らしをしていると思います。ですから、今の生活に不満を持つなんてことは殆んどありません。
　強いて言うならば…夫は仕事が忙しくて、家に居る時間が殆んど無いと言う事でしょうか。出張なども頻繁にありますし…
　あと、夜の営みも最近では殆んどありません。でも、これについては、私も夫も性に関しては元々淡白な方でしたから、新婚当時からそう頻繁に身体を求め合うと言う事もありませんでした。
　ですから、最近でも夜の営みが無いからと言って、その事で別に疑問を感じるような事も、欲求不満になるような事もありませんでした。

　自分で言うのも何ですが…私は小さい頃からお嬢様育ちの箱入り娘だったと思います。
　家がとりわけ裕福と言う訳ではありませんでしたが、一人娘だと言う事もあり、両親には非常に大切に育てられたと思います。
　そのような両親の思いもあり、特に異性との交際に関してはかなり厳しく躾られたと思います。高校も女子高でしたし、大学も女子大に行くように勧められました。
　でも私はそれに反抗する事もありませんでした。と言うよりも、別に反抗しようと言う気持ちも芽生える事がなかったのです。
　幼少の頃からの両親の教えが功を奏したのでしょう、私は女子高を勧められる事にも、女子大を勧められる事にも、全く疑問など感じず、それが普通の事だと思っていたのですから。

　そんな私でしたから、男の人との交際など全くあるはずもありませんでしたし、この人とお付き合いがしてみたいと思う、異性に対しての憧れみたいな気持ちが芽生える事もありませんでした。
　それでも、大学に行き友達も出来てくると、他の大学の男の人たちとのコンパに誘われることも少なからずあるようになりました。そしてその頃からでしょうか、自分は他の女性よりも異性を引き付ける魅力があるのかも知れない…と気付き始めたのは。

　コンパなどに行くと、決まって男の人たちは私をチヤホヤしてくれました。「かわいいね〜こんな可愛い子初めて見たよ」「こんなに可愛いんだから、男の一人や二人はいるんでしょ？」などなど、いつも男の人たちは私の容姿を誉めてくれるのです。
　同性の友達もそうでした。「遥ってすんごく可愛いのに、気取ってるところが無くて好きだな〜」「こんなに可愛くて、真面目な子をお嫁さんにできる男って、凄く幸せだと思うよ」そう言って、私の事を誉めてくれることもありました。

　コンパで知り合った男の人から「お付き合いして下さい…」と告白されることも度々ありました。それでもやはり、物心付いた時から異性との交流が殆んど無かった私でありましたので、男の人とお付き合いをすると言う事が余りよく理解できていなかったのでしょう。全てお断りをしていたのです。
　別に選り好みをするとか、そう言った訳ではありませんでした。ただ単に、私の精神年齢が同年代の人たちより低かっただけだと思います。異性に対しての好奇心よりも、戸惑いの方が遥に大きかったのです。

　そんな私でも、就職をして職場で毎日男の人と顔を合わせるようになれば、少しづつ男性の事も理解できるようになり、自分とは違う異性として意識するようになってきたのです。

　私が就職したのは、大手の都市銀行でした。そこは本店と言う事もあり、かなり多くの社員が働いていました。女性社員もたくさん居ました。
　それでもやはり飲み会などがあれば、他の女性社員よりも私に言い寄ってくる男の人は多かったと思います。大学の時同様、交際を申し込まれる事も多々ありました。
　しかし、私も少しづつ男性との接し方が判ってきたとは言え、まだまだ恋愛感情を抱くまでには、精神的に発育はしていなかったのです。やはり、全ての交際の申し出を断り続けていました。

　そんなある日の事です。あれは新入社員の歓迎会か何かの帰りだったと思います。たまたま帰りの電車が一緒になった男の人でした。私より五つ年上の先輩です。
　その日は電車を降りたところで急に雨が降り出し、傘を持っていない私は駅の出口でどうしようか迷っていました。
　するとその先輩がスッと傘を差し出し、照れ臭そうにニッコリと微笑みながら「これ、使って…僕は走って帰るから…」と、私の手に傘を持たせてくれたのです。
　私は一瞬ドキリとしました。先輩の照れ臭そうな微笑と、少しだけ触れた掌の温かさ…それが何とも言えず心地よかったのを今でも覚えています。
　私は何か言おうとしたのですが、すぐには言葉が出てきませんでした。その代わりに、胸の鼓動だけはドキドキと早くなっていきます。
　先輩はポリポリと後頭を掻きながら、尚も照れ臭そうな微笑を浮かべたまま「じゃ…きをつけて帰りなよ…」そう言って、鞄を傘の代わりにして走って行ってしまいました。私は「あっ…」と声を漏らしましたが、先輩は振り返ることなく、雨の中に消えて行ったのです。

　それが私と主人との出会いでした。そしてその日を境に、私の中に初めて恋心と言うものが芽生えたのだと思います。
　彼とは今まで殆んど会話も交わした事もありませんでしたし、異性として意識した事なども全くありませんでした。しかし次の日からは、知らず知らずのうちに彼の事を眼で追うようになっていたのです。
　元々私に興味を抱いていたらしい彼と、唯一彼だけに異性としての魅力を感じ始めていた私でしたので。二人の関係が親密になっていくのにはさほどの時間を要しませんでした。

　二人で一緒に帰ることも多くなり、食事に誘われたり誘ったり、そのうち彼のアパートで夕飯を作ってあげたりするようになりました。
　初めて親密に会話を交わす異性との時間に最初のうちは戸惑いもありましたが、彼の優しい言葉といつも気を使ってくれている態度に、私は徐々に心を開いていったのです。

　その後のことは、普通に良くあるパターンだったと思います。二年程のお付き合いの後に彼からプロポーズをされ、私たちは結婚しました。

　あれから５年――最初に申しましたように、私たちの生活にはこれと言って不満も無く、郊外の住宅地にマイホームも建てて、何不自由ない毎日を過ごしています。自分で言うのも恥ずかしいのですが、ご近所の人たちからは清楚な美人妻と噂されているらしいです。うふふッ…

　そんなある日のことです。私は大学時代の友人とのお食事会に誘われました。出席者は十名くらいでした。
　３０歳にもなれば皆殆んどの人が家庭を持ち、家事と育児に追われる毎日だと言っていました。食事をしながらアルコールも入り、徐々に会話も盛り上がってくると。家庭や旦那の不満を喋り出す人もいました。
　私は特に仲の良かった友人四人と席についていました。そしてその中の一人『田代明美』が「出会い系サイトって知ってる？」などと言った会話を始めたのです。

　彼女は女から見ても羨むほどの美貌の持ち主でした。それでも３０歳になった今も独身を通していました。決して男運が悪いとかそう言うのではありません。言い寄ってくる男性も数え切れないくらいいました。しかし彼女は男性との付き合いよりも、仕事のほうに情熱を持っていたみたいです。
　今は女社長として数件のブティックを経営する、いわゆるキャリアウーマンと言ったところでした。そんな彼女が「出会い系サイト」などと話を切り出したのです。

　それがインターネットのウェブサイトであろうことは、すぐに理解できました。なぜならば私もパソコンを購入し、友達とメールの遣り取りをしたり、ウェブショッピングを楽しんだりできるくらいの知識は持っていたからです。それでも「出会い系サイト」と言う言葉は、私は初めて耳にする言葉でした。

　明美はそのサイトでの体験談を、冗談を交えながらさも愉しそうに喋っていました。「出会い系って言っても、実際に会うわけではないから」「サイトの中の『２ショットチャット』にかなり嵌まっちゃった」「年下の男の子を言葉で誘惑するのが愉しいのよ」「欲求不満の解消にはもってこいだわ」と、ニコニコとした表情でさも愉しげに喋りまくるのです。

「遥も一度やってみなよ？」
　不意に明美が私を見ていいました。
「遥って、かなりのお嬢様育ちだから、世の中の事に凄い疎いとこあるじゃない？それに…男の人も、旦那さんしか知らないんでしょ？」
　明美は私をからかうように言いながら、フフフッ…と微笑み掛けてきます。
「色んな人と会話を交わすのも、大切な事だと思うよ？自分の世界観も広がるし…別に直接会うって訳じゃないんだから、そんなに緊張する事もないわよ？」
　彼女はそう言いながらポーチの中から小さな紙切れを取り出し、私に差し出しました。
「これ、私がよく利用してるサイトのアドレスだから。一度アクセスしてみて？…遥も、少しは俗世の事を勉強しなくちゃ…じゃなきゃ、旦那さんに飽きられちゃうぞ？」
　明美の言葉に、私は恥ずかしいやら何やらで、戸惑いの表情を浮かべていたのだと思います。
　彼女はもう一度フフフッ…と私に微笑み掛けると「大丈夫だから…別に浮気をする訳じゃないんだし、お互い見ず知らずの人どうしが、パソコンの中だけで会話を交わすだけ…気に入らなければすぐに退室すればいいだけなんだから」と、言葉を続けます。
　私は、そんなものなのかな？と思いながら「うん、判った…気が向いたら覗いてみるね…」と返事をしました。
　明美は私の返事にニッコリと微笑み返し「気が向いたら、じゃなくて…絶対に覗いてみてね？きっと遥のためにもなると思うし」とそこまで言うと「あっ…」と何かを思い出したように私の顔を覗き込みました。
「そうそう、これだけは気をつけてよ？…絶対に本名や電話番号、住所、メールアドレスなどは書き込まないこと。相手が聞いてきても、それだけは絶対にやっちゃダメ。…判った？」
　今までの冗談めいた表情ではなく、真剣そのものと言った表情で明美が言いました。
「そうね…じゃ、名前はこれを使うといいわ…」
　彼女はそう言いながら、私に差し出した小さな紙切れに『美咲』と言う名前を書き込みました。
「これ、私がいつも使ってる名前だから…って、私だけじゃないと思うけど…今一番使われてる名前なんだって。だから、これを使う事をお奨めするわ」
　彼女は優しい笑顔でそう言うと、そっと私の掌を包み込むようにして紙切れを渡しました。
「あ、うん…判った…じゃ、もし利用するような事があれば、使わせて貰うわね…」
　私は多少戸惑いながらも、明美へとニッコリと笑顔を返しそう答えました。
　

　友人とのお食事会から数日経った昼間――掃除や洗濯などの家事も終わらせた私は、リビングのソファーに腰掛け、見るとはなしにテレビの画面に視線を向けていました。テーブルの上にはティーカップが置かれています。先日のお食事会の時に親友の明美から貰った紅茶を楽しんでいたのです。
　ふと気がつけば画面の中ではよく喋る司会者が、一般視聴者からの悩みの相談を受けているところでした。相談の内容はと言えば「夫の浮気」と言うような感じのものでした。
（へ〜、浮気かぁ…うちの主人は、きっと大丈夫よね…）
　などと他愛も無い事を考えていると、不意に先日のお食事会の時の明美の話を思い出したのです。
（そう言えば、明美がやけにしつこく勧めてくれてたわね…確か、「出会い系」だっけ？…「２ショットチャット」とかって言ってたわね…）
　私は飲みかけの紅茶を一気に飲み干すとソファーから立ち上がり、先日彼女に貰った小さな紙切れを探してみました。
（そうね、一度くらいは覗いておいたほうがいいかしら…後で明美からも色々聞かれるだろうし…）
　私は、取り合えず付き合いのつもりで、友人に勧められたサイトを見てみる事にしたのです。

（つづく）t