8月23日 水曜日 夏休みに入って一週間、賢ずっと暗いまま。何かあったのか、と僕が話しかけると、必ず作り笑いをして胡麻化して、直ぐに逃げられてしまう。そのせいもあって、最近は極端に会話も少なくなってきた。朝も、昼も、夜も。 （賢…） 本当に、心配でしょうがない。何があったのか、本当に僕にはわからない。 結局、僕も賢も制服に着替えて無言のまま朝食を採る。 賢は部活、僕は図書館で勉強、夏休みに入っても、授業がないという事以外、僕と賢の生活パターンは変わらない。 （でも、静かだな…） いつもなら、賢と会話している朝の時間。 僕は寂しさを紛らわすために気なしにテレビをつけた。すると、ちょうど朝のニュースのが流れていた。ニュースキャスターが機械的に世の中の出来事を読み上げていく。 「では、次のニュースです。7年前、元妻と、元妻の交際相手の男性と、実の息子を絞殺した川崎顕示容疑者47歳の死刑判決から3年が経ち、今朝、ついに法務大臣が顕示容疑者の死刑を正式に宣言しました。詳しい日時や場所は一切非公式ですが、顕示容疑者の死刑は近々行われる予定です。これで我が国において死刑が執行されるのは戦後から数えて―」 そこでテレビの電源が切れた。 賢が震える手でテレビのリモコンを握っていた。 「賢、大丈夫だよ」 僕はそう言って、賢の手を握った。 「…」 でも、賢は応えない。 「大丈夫。僕が、傍にいるから」 そう言って賢を抱きしめる。 賢はまるで怯えきった子犬のように体をぶるぶると震えさせていた。 （賢…） ただでさえ、賢の様子が変なのに、最悪のタイミングだと、僕は危うさを感じた。 僕と賢の関係は既に学校中の知るところとなっていた。理由は簡単だ。おしゃべりな晴香が親切にも屋上での出来事をクラス中に広めてくれた事と、男装をしている女子として賢が最初から有名人だったことで、みんなの関心を呼んで広まったのだ。 でも、今朝だけはその事に感謝している。剣道部の女友達からひやかされたりして賢の気が少しでも紛れてくれそうだったからだ。 「じゃあ、またお昼にね」 僕はいつもよりも小さく見える女の子の背にそう告げる。 「うん…」 でも、帰ってきた声はとても小さく、弱々しい。 （やっぱり、今日は休ませればよかったかな…） 部活を休むように賢にいったけど、賢は拒んだ。今日は団体戦メンバーを選抜する大事な日らしい。でも、僕にとって賢の状態の方が遙かに大事だった。 お昼の12時30分。剣道部の練習が終わる時間だ。 「急ごう」 僕はリュックに用具を放り込んで駆け足で道場へ向かう。 「賢」 でも、そこで待っていたのは最悪の事態だ。 「ふざけるなよ！なんだそれは！」 聞き覚えのある声が道場の中から響いてきた。 「吉備の声だ…」 「別に…ふざけてない…」 今度は賢の声。 「賢！」 僕は剣道場へと飛び込んだ。 「あ、優一」 晴香が動揺した面持ちで駆け寄ってくる。 「大変なの！また！」 「また、吉備か…」 晴香の後では人だかりができている。その中心には、吉備と賢がいるんだろう。 「今度は何があったの、晴香？」 「その…今日の団体戦の選抜試合で賢が全敗したのよ。それで、吉備の奴が」 「本当にあいつは…」 流石の僕の頭にも血が昇ってくるのを感じた。 （何も知らないくせに） 今朝、賢が辛いものを見た事も。最近、賢が苦しんでいる事も。何も知らないくせに。 「へ、天才様は呑気でいいよな。いつでもレギュラーの座なんて楽勝か？」 吉備が賢に悪態をついてくる。 「いい加減にしろ！吉備！」 一輝が二人の間を割って止めようとしていた。 「邪魔すんなよ、宮之下！お前だって見ただろ。こいつの試合をよ！」 「ああ、見たさ！それがどうした！」 「どうしたもこうしたもあるか！この間、レギュラー騒動であれだけ部を掻きまわした本人が、あんな剣道しやがって！こいつのせいで、大会に出られなかった先輩が何人もいたってのによ」 「本当に…あいつ…」 僕の隣で、あの晴香が本気で怒っている。 「賢がどんなに努力してきたか、何も見てないくせに」 「まったくだよ」 僕も、もうすぐ我慢の限界が来そうだった。 「今日は、賢をそっとしておいてあげたかったのに…」 言動からして、晴香も今朝のニュースを見たんだろう。一輝もたぶん。 「おい川崎！なんとか言ってみろよ！って、おい、愛しの彼が来てるじゃんか」 「え！」 賢が驚いたように僕の方を向いてきた。 「優一…」 「へ、愛する王子様の登場だぜ」 吉備はその細長い目に本当に意地悪な光を宿して僕を見てきた。 「おい、彼氏さんよ。なんとか言ってくんないかな〜。こいつ、剣道やる気ないんだってよ！」 「吉備！」 今まで黙っていた賢が、急に怒鳴った。 「優一は関係ない！余計な人まで巻き込まないで！」 吉備は気に入らなさそうに賢を睨んだが、賢はびくともしない。 「へ、そうかよ。でも、彼氏をいつも練習の送り迎えさせてんだろ？貴重な勉強時間をそいでまでお前に協力してるのに、それで無関係かよ？」 「く」 賢の顔が苦痛にゆがむ。 「それこそ君には関係ないよ」 そう言って僕は吉備を睨みつける。僕も今のは聞き捨てならなかった。 「だいたい、僕が医学部に受かる、受からないは吉備には関係ないことだ。いちいち口を出さないでくれ」 「俺は親切で言ってやってるつもりなんだぜ。だってお前、この学校の勉強特待、ぎりぎりで受かったんだろ？医学部に行く奴なんて、ここの勉強特待を楽勝でパスする奴らの中でもせいぜい一人か二人なのに。特待生の中でもどんけつ入学のお前が、どんなに努力してもたかが知れてるんだ。今からがんばってもせいぜい―」 途端、バシン！と凄まじい音を立てて吉備が背後に積まれた防具の山に背中から突っ込んだ。 賢が吉備を本気で殴ったのだ。 道場が完全に静まりかえる。 「私のことを悪く言うのはいい…。でも…」 その時の賢の目を見て、僕は背筋が凍りついた。殺意に満ちたその目を。 「でも、優一の事を悪く言うのは許さない！」 そして、尻もちをついている吉備の胸倉を掴むと 「今度、優一の悪口を言ってみなよ！殺してやる！」 凄まじい怒りと憎悪に満ちた賢の目。今の賢なら、やりかねない。僕はそう思った。だから、賢を吉備から引き離そうとした時だ。 「へ、やっぱり、俺とは血統が違うな」 パンパンに膨らんだ頬をさすりながら、吉備は邪悪に笑った。 「すごい殺気だ！そんな凄まじい殺気は、生半可な家で育った奴には到底無理だよな！！」 （やめろ…） 僕は今のことから吉備が何を言おうとしているのかわかった。 （なんで、それを君が！！） 「流石、人殺しの娘だな！やっぱり、殺人鬼の娘は格が違うぜ」 「は！」 賢の顔から血の気が引いていく。 そして、僕の頭の中で、何かが音を立てて切れた。 その後の事を、僕はよく覚えていない。 「やめて！！」 遠くから、賢の叫び声が聞こえる。 「やめろ！！優一！！」 「駄目！！優一！！」 一輝と晴香のも聞こえた。 それと、なぜかしらないけが、体が動かしづらい。まるで、たくさんの縄に縛られてるみたいだ。 （でも、僕は何をしてるんだ） 縛られている、と感じているということは、僕はなんらかの行動をしているということだ。でも、いまいち、僕が何をしているのかよくわからない。 「お願い！！優一！！やめて！！」 それでも、賢の叫び声だけがずっと僕に聞こえてくる。その声は、もう泣声に近い。 「もういいから！！私のことはもういいから！！お願い！！もうやめて！！」 （やめてって、賢。そんな事を言われても僕は何をしてるのかよくわからないよ） まるで酔っ払っているみたいだった。頭がぼーっとして何も考えられない。 それからしばらくしてようやく、目の前が見えるようになってきた。 目の前には、血まみれの吉備がいた。唇が切れて血が流れ、頬は目には思いっきり殴られた痕跡がある。 そして、僕を縛っていたと思っていた縄は、一輝、晴香、そして賢の腕だった。僕を押さえようと必死に僕の体に巻きついていた。 でも、まだ僕の拳は止まらない。 僕は意識がはっきりすればするほど、吉備が憎くなってきたんだ。そう、僕は吉備を殴っていた。産れて初めて本気で人を殺そうと思って、殴っているんだ。 「やめろ！！優一！！」 一輝が背中から引き離そうと、僕の脇から両腕を通して引き寄せようとする。でも、逆に一輝の方が僕に引きずられる形になっている。 「止めなさい！！優一！！」 晴香も背中から僕の腰にしがみついて引っ張るけど、一輝と一緒に引きずられている。 「止めて！！優一！！お願い！！！」 賢は前から僕に抱きついて必死に僕を食い止めようとしている。でも、僕に押し返されるだけだ。 それからも、僕は何発も吉備を殴った。既に意識が朦朧としている吉備を何発も何発も、ただひたすら。 （だって、僕はこいつを殺したいから） そう、殺したい。こんな奴、死んだ方がいい。僕は本気でそう思っている。 そこへ、道場が騒がしいことに気がついた剣道部の顧問が慌てて入ってきた。 「これは…」 ぼこぼこにされている吉備を見て、流石の担任も顔から血の気が引いた。 「止めろ！！川崎！！」 剣道部の顧問も加わって、ようやく僕は吉備から引き剥がされた。 そして剣道部の顧問は、信じられないといった顔で僕を見る。それもそうだろう。相手は現役の剣道部員。僕は帰宅部で勉強ばかりのもやしのような人間だ。 僕は、血だらけの自分の拳を見て （僕も…最低の人間だな…） と思った。医者を目指す人間が、人を殺そうと思う事など、許していいはずがない。 「優一！！」 僕の耳に、ようやく賢の声が届く。 「賢…」 「やだよ！！もういやだ！！どうして…どうして私の大切な人が…。うぅ…。いやだ！！いやだ！！」 泣きじゃくりながら賢は僕にしがみ付いてくる。 「いやだ…いやだ…うぅ…」 「これは、私の手には負えん…」 顧問はすぐさま道場に据え付けられている構内用の内線電話で職員室に連絡をとった。 その後、吉備は病院へ、僕は職員室へ行くことになったのだが。 「やだ…やだ…」 子供のように泣きじゃくる賢が、僕から抱きついて離れようとしなかったのだ。結局、晴香が何度も声をかけてようやく僕から引き離して、賢を保健室へと連れて行った。 「まあ、状況は生徒達から訊いた。確かに、吉備は言ってはいけないことを言った。そもそも、彼の行動が全ての事の発端だ。しかし…流石に…やりすぎだ…」 校長室の自分の椅子に深刻そうな面持ちで座る校長と、その脇で控える剣道部の顧問。二人の顔には困惑の色で満ち始めていた。職員室内でも、僕のことをひそひそと話す先生達の声が聞こえてきた。 「はい、わかっています」 でも、僕は心の中でどうとでもなれ、と思った。 賢に、あんな酷いことを言ったんだ。あれぐらい、当然だと。 「病院から連絡があった。吉備君の怪我は大たことはないそうだ。流石、剣道部員といったところか」 「面の皮が厚い、の間違いでは？」 僕は平然と嫌味を目の前の二人にぶつける。だって、それが事実だとしか思えない。 「ん…」 校長も顧問も、一言も反論しない。 「まあ、それはともか、吉備君のご両親と、君のご両親に連絡をいれたよ。吉備君のご両親は君を告訴すると言ってきたが、君のご両親が、それなら吉備君を名誉棄損で告訴すると言い返したよ。結局、今回は痛み分けということで双方の親の決着はついた。だが、学校側はそれで、はい、わかりました、というわけにはいかない。理事長と相談した結果、二人に罰則を与える」 「はい、覚悟は出来ています」 しかし、僕と吉備に与えられた罰はあまりにも軽いものだった。 |
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| 2011.4.20掲載 |
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