7月28 金曜日 部活終了後の居残り練習。昨日と賢の様子は変わらなかった。どこか、違う。今までの賢と明らかに違う。 ヒュン！！ヒュン！！ 賢は必死に竹刀を振り続けている。苦痛に満ちた顔から、今までと違うことを賢が一番理解しているみたいだ。 （賢……） 結局、昨日の夜も賢はどこか疲れ果てたように直ぐに眠りについてしまった。そして、今朝もいつのまにか部屋にいなくて、朝練が始まる前の道場でずっと素振りをしていた。 でも、練習では散々だったようだ。 目が、今にも泣き出しそうだ。 「賢…」 僕は思わず声をかける。 「なに？」 賢は暗い顔を見せまいと必死に笑顔を繕って僕に向き直ってくる。 「その…休憩しないか？」 僕はそう言ってタオルと水筒を手に持った。 「うん」 賢は小さく頷くと、僕の横に腰を下ろした。 「はい」 僕は水筒のお茶をコップに注ぐと賢に渡す。 「ありがとう」 いつもなら、御礼なんて言わない。 「ほら」 僕は汗ばんだ賢の頭をタオルで拭き始める。 「ありがとう」 いつもの照れ笑いがない。 （賢…） 剣道がうまくいかなくて、苦しんでいる。そう、僕は思った。でも、あの晴香の顔。本当に剣道がうまくいかないという理由で、賢はこれほど落ち込んでいるのだろうか。あの晴香の顔が、そうではない、と言っているように見えてしょうがなかった。 Another View 川崎 賢 頭がどうかしそうで私は冷水のシャワーを頭から浴びている。 「どうして…おかしいよ……」 そう、おかしい。私の中で、何かが変わってしまった。今まで、剣道に打ち込めさせていた《それ》が、私の中で大きく揺らいでいる。でも、《それ》の正体がわからない。つい最近まで身近にあったのに、急に揺らぎ始めてしまった《それ》。 「わからないよ……なんなの…これ……」 胸が空洞になっていく感覚がする。大切な物が消える気がする。それがわからない。いや、わかりたくないだけなのかもしれない。でも、どちらにしても私は《それ》が何なのかわからなかった。 Another View end 7月29日 土曜日 僕は剣道部の練習が終わる時間を見計らって、道場にやってきた。賢の居残り練習に付き合うためだ。 少し到着が遅れたせいか、既に道場に残るのは賢だけ。 賢は練習に集中しているせいか、僕が道場に入ってきたのに気づいていないみたいで一切の視線を向けてこない。 バシン！！バシン！！ 今日の練習は素振りではなかった。等身大の木の人形に竹刀を打ち込んでいる。 バシン！！バシン！！ でも、その動作がどこかぎこちない。今までのように、相手を一刀両断するような気迫を感じない。 なんだか、賢の竹刀が木の人形に弾き返されているようにも見える。 そして、それは紛れもない事実となって目の前に現れた。 バシ！！ 「あ…」 竹刀が弾かれて宙を舞い、かたん、という虚しい音を立てて床に落ちた。 賢は、崩れるように床に座り込む。そして 「うぅ……どうして……」 泣き始めてしまった。 「賢！！」 僕は賢に駆け寄る。 「賢、大丈夫？大丈夫？」 大丈夫なはずがないとわかっていても声をかけてしまう。 「どうしてなの…優一…。どうして…私……私…」 小刻みに震える瞳、真赤に腫れあがった瞼と、リンゴのように朱色の差した白い頬。それを見た途端、僕は自分を抑えきれずに賢を抱きしめた。 「賢……」 「優一……」 「帰ろう、賢……」 これ以上練習を続けても、賢が辛いだけだ。賢はしばらくした後に小さく頷いた。 それから僕は賢が落ち着くまでしばらく抱きしめ続けた後、賢と一緒に帰宅した。 「賢、ご飯だよ」 僕は夕食を机に並べると、居間で眠っていた賢を起こした。 「うん……」 賢は静かに頷くと黙って体を起こして席に着く。 「いただきます」 「はい、どうぞ」 僕も席に着いて食事を始める。 つい最近まで、食事時は賢がよく話していた。ラブレターがまた入ってて鬱陶しい、とか、晴香がいつもちゃかしてくる、とか、そんな平凡な話に満ちていた食卓も、今となっては沈黙だけが支配している。 僕は何か話さないと、と思って口を開きかけるが止めた。何を言うべきかわからないんだ。 「………」 結局、僕らは口を利くことなくその日を終えてしまった。 7月30日 日曜日 わぁーー！！ 市の武道館に声援が木霊する。 今日は県内の高校が一堂に会して剣道の練習試合を開催していた。夏の大会を意識しているせいか、練習試合であってもどの学校も真剣そのもの。応援にも抜かりがない。 「がんばれ！！！」 僕も久々に声を張り上げて光琳学園を応援する。 光琳学園の三年生選抜チームの試合が終わった時だ。 「優一！！」 晴香が観客席にやってきていた。 「どうしたの、晴香？」 どこか晴香は慌てていた。 「賢がどこにもいないの」 「え…そんな……」 今朝は一緒に武道館へ来たから、いないはずがない。 「どうしちゃったんだろう…あと三十分で試合なのに……」 「確か、相手は王能寺だよね？」 「うん」 晴香は深刻そうに頷く。 王能寺学園は県内でも光琳と並ぶ実力を持つ強豪校だ。そんな相手と、今の賢が戦えば結果は目に見えている。 「僕、探してくる」 僕は勢いよく立ちあがった。 「あ、でも、優一」 「いいんだよ。だから待ってて！」 僕は駆けた。 （まずは武道館の中だ） 武道館は剣道場と柔道場、弓道場の三つがある。僕はそれら全ての道場を見て回ったが賢はいない。 （じゃあ、外か…） 武道館の外に飛び出して辺りを見回す。すると、武道館の傍にある公園に目がいった。小さな公園だ。 （なんだか、あの公園に似てるな…） そう、かつて一輝と晴香に出会ったあの小さな公園。そして、僕と賢が初めて会ったのもあの小さな公園だった。 僕は何かに引き寄せられるようにその公園をのぞいてみる。すると 「賢！！」 ブランコに座っている賢を見つけた。 「あ、優一……」 「賢！探したよ。もうすぐ試合が始まるよ？」 「ごめんね……。心配かけて……」 そう言って賢は顔を伏せた。 「でも、無理だよ…。私……もう…剣道出来ない……。もう……辛くなっちゃたったんだ……。剣道をすることが……」 「賢……」 「ごめんね…我が儘で…。散々…練習につきあわせておいて…こんなこと…」 賢の頬に雫が滴る。 「そうか」 僕は小さく深呼吸すると賢の隣のブランコに腰かけた。 「ねえ、覚えてる、賢？昔、僕と一緒に剣道してたころのこと」 「……」 賢は応えない。 それでも僕は続ける。そうしなければ、見えない気がしたから。賢の気持ちが。 「その頃は、賢、剣道好きだって言ってたよね？」 「だって……」 「ん？」 「だって……私が勝つと、みんな喜んでくれたから……。お父さんも…お母さんも……、道場の先生も……友達も……優一も……」 「そうだね。賢のお父さんとお母さん、賢が勝つと本当にうれしそうだったね」 「でも…知ってるでしょ…優一…。その後、私達がどうなったか…。家族が…どうなったか…」 「うん…」 賢の家はとても裕福な家庭だった。父親が大企業の重役だったからだ。夫婦の仲も睦まじく、賢が産れて四年後には弟の信哉君も産れた。裕福で、仲が睦まじく、子宝にも恵まれた。だれもが羨むような家庭。 賢が剣道の試合の日には必ず賢のお父さんは会社を休み、お母さんはお弁当を作ってきた。そして夫婦で応援して賢が勝つといつも大喜びだった。でも、その頃から賢の家庭には影が差しこみ始めていた。 それが明るみになったのは賢が小学五年生の時の事だ。父親の不倫が発覚したんだ。しかし、母親はこれといって追求しなかった。なぜなら、その頃、母にも恋人が出来ていたからだ。 元々、仕事で家を空けてばかりの父親だったから、会話もなく、一緒に食事をすることもなかった。だから夫婦の関係も次第に冷え込んで、互いが不倫に走ってしまった。 それから直ぐに、夫婦の関係に追い込みをかける事が起こってしまった。 父親の不倫相手が、妊娠したのだ。そして、賢の母親もほぼ同時期に不倫相手の男の子を妊娠してしまった。 その事が、賢の家族の運命を決定してしまった。 夫婦は当然離婚した。でも、子供をどちらが引き取るかで大いに揉めた。どちらとも、離婚した先に新しい家庭がある。だから、古い家庭の子供が邪魔になったのだ。 そして、どちらが子供を引き取るかで裁判まで起こった。 その期間中、賢と弟の信哉君は一時的に母親の下に身を寄せた。でも、そこでの生活は酷いものだった。賢と信哉君は邪魔者扱いされ、ときどき示談をしにやってくる父親にも冷たい目で見られ続けた。 そんな賢に残されたのは剣道だけで、事情を知っていた道場長が賢を月謝抜きで練習に参加させてくれていた。 でも、父親と母親の示談が次第にもつれて口論が起こるようになると賢の母親は、賢に悪魔の一言を囁いた。 『あの人を、殺してくれないかしら？賢ちゃん、けっこう強いから大丈夫じゃない？』 剣道で父親を殺せ、母親が賢にそう言った。それが本気であれ冗談であれ、その一言が幼い賢をどれほど傷つけたか。 ―そんな…やだよ…だって…パパは……― 『ええ、そうよ。貴方の父よ。だからなに？もうあの人は邪魔なの。私がずっと影で支え続けてあげたおかげで大企業の重役にまでなれたのに、他に女をつくって……。だから、私も作ってやったのよ。新しい家庭を。だから、貴方達姉弟を引き取りたくないの。だって、半分はあの男の血を引いているのだもの』 ―え……。どういうこと……。ママ…何いってるのか…わからないよ……。どうして…そんな酷いこと…― 『いい加減にしてちょうだい！貴方達は邪魔なの。私の新しい家庭の障害物なのよ！だから、あの人を殺して、どこかえ消えてよ！まったく、なんて臆病なのかしら。こんな事なら、あんたを《男》に産めばよかったわ。そうすれば、少しはましな事が出来たかもしれないのに』 ―どうして…。じゃあ…賢が《男》だったら…ママは私と信哉を…捨てないでくれたの……。だったら、賢、男になるから！だから…信哉だけは…― 『あ〜もう、うるさいわね！もう遅いのよ！なにもかもね！』 剣道で父を殺せ。男がよかった。この母親の一言が、賢の心に深すぎる傷をつけた。 裁判が母親の優勢に傾いてくると、示談での口論はさらに熾烈を極めた。 そして、ついに最悪の事件が起こった。賢が僕の家の養子になる切掛けとなった事件が。 |
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| 2011.3.5掲載 |
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