第一話


　月曜日の朝が気だるいのは、僕だけのことじゃないらしい。
　早朝から満員電車に揺られて朦朧としていると、ふと体に添い寄る女性の肉体に心が浮かれてしまうのも、・・・僕だけじゃないらしい。
　最近は女性の顔を見ないように眼鏡すら着けずに電車に乗るようになった。
　それでも心は浮かれ、かといって痴漢するほどの勇気も阿呆さも持ち合わせていない僕は、疲れた体で職場に着いた頃には、そんな微かな欲求すら忘れている。

　朝から積みに積もった仕事を順繰りにこなしていく。
　処理する以上に仕事が流れ込み、必死でこなすも溜まる一方だ。
　そして、土曜出勤が早々と決まり、精神的にも疲れた頃に、大仕事が突然舞い込む。

　くだらないと蔑むほどに、それに縋るしか取り得のない僕は、救いようもなく惨めだけれど、それでも仕事さえしていれば人並みの収入を得られるのだから、感謝するべきなのだろうか。
　友人は早々と勤労感謝の日の出勤を決め、過労斡旋の日とカレンダーに書き込んだ。
　派遣は休日を謳歌しているのだろうなぁと羨ましく見える。
　実際は学校に通ったり掛け持ちしたりで、返って忙しいようだけど、誰かを羨まないではやっていられない気持ちだ。

　経営者は正直尊敬できない面々だった。
　まぁ、「人を育てるついでに物を作る。」松下が、いつのまにか「作ろう、作ろう、物を作ろう。」と宣伝しはじめ、ついでに労働詐欺まで働くくらいだ。
　松下幸之助は本当に死んでしまったようだ。
　並みの経営者を頭に据える僕の会社で経営者を尊敬できないのもやむをえない。

　松下幸之助を微かながらも尊敬していた人間にとって、今の日本は醜い以外の何者でもない。
　でも、それでも仕方がないので、僕は休日も働く。

　帰りの混み合った電車を乗り継ぐ段になると、朝とは違い女性と肉薄するでもなく、せいぜいが肘が当たると言った程度には隙間がある。
　それを正直物足りないと感じながら、何も考えずに他人のヘッドホンの音を聞き流す。
　水商売風の女性が遅い出勤で化粧直しをする姿が可愛らしいと感じると、中年の女性が車内で化粧する女性に嫌悪感を剥き出しにした醜い表情を見せ、僕はまた現実に引き戻される。

　電車を降りて人波に乗り、改札から吐き出されると、冷たい風がひゅっと頬を掠める。
　あぁ、もう１１月も半ばなんだなと、めったに機会のない季節を感じる。
　そろそろ、電車と会社が蒸し暑くなる頃だ。コートとアイスノンを準備しないと・・・。

　夏物のスーツを冷たい風が通過して、だるい気分をスっと爽快にしてくれる。
　そして区営の駐輪場へと狭い路地を最短経路で突っ切る。
　いつものことだけれどどうしてこんなに心が弾むのだろう。
　なにもない。なにもしない。ただ側を通るだけ。

「お兄さん、マッサージどう？」
　身売りの中国女性が声をかけてくる。
　威勢の良い青年・・・と言っても同年代か、も、これでもかと丁寧に感じの良い挨拶をしてくる。
「キャバクラ。たまには甘いお酒と可愛い女性で休んでいってよ。ね。６０００円、どう？」
　安いなぁなどと正直な感想を心の底で呟きながら、瞳を伏せて通り過ぎる。

　そのまま、駐輪場で自分の自転車の鍵を外し、何事もなかったのように冷たいマンションへと帰る。
　自宅について、風呂に入り、ＰＣの電源を入れてメールをチェックする。
　大学時代の友人の結婚相手紹介飲みが来月中旬頃。
　みんなが出席できる日に設定しようと、先月末から話し合ってやっと日取りが決まった。

　友人の幸せは嬉しい。
　ただ、こういう企画があるたびに、大切な友人との酒すら、思うように集まれない現実に、辟易してしまうのは僕だけだろうか。
　ただ、そんな嫌な現実の底に這いつくばっていても、なんとか集まろうって言う意識が高まることは凄く嬉しかったりする。


　死んだように生きながら、生きている振りをしていると、仕事も自動的に手がこなしていく。
　週末になって、明日は土曜日、出勤だったっけ。
　職場を出て駅へ向かう途中、ライバル企業の看板がギラギラと眩しくて、それに負けない程派手な飲み屋の赤提灯が暖かくて、心の底から酒が飲みたいと感じた。

　高架下の汚い店は、飯は美味いが電車が頭の上を通り過ぎる振動と、やかましい騒ぎ声で溢れていて、それでも店内は客でごったかえしていた。

　酒が飲みたいと思っただけの僕は、日本酒の熱燗と牛スジ煮込みに御飯と味噌汁を注文する。
　お通しも含めて、〆て１２００円。懐に優しい。
　金の使い道はないけれど、死んだように働いた報酬を無駄に使うことほど、自分にとって悲しいことはない。だから、変な女とは付き合えない。
　仕事が嫌いなのに、金への価値感だけが低い女は、正直吐き気がする。

　腹を満たすだけの行為としてはやや高いけれど、酒と絶品の牛スジを考えれば悪くない。
　つまらない人生だなとは思うけれど、背伸びをして良い物を食う必要もないだろう。
　酒の芳香が鼻を抜けて全身に広がる。
　喉を熱く舐め堕ちる感覚が堪らなく心地良い。
　ぴりぴりと舌先に残る違和感も、二口目で全て吹き飛んでしまう。

　酒は恐らく安物だろう。だが、良い味だと僕は思っている。
　だから、ここの主人はセンスが良いと僕は断定する。
　なにせ、これだけ美味い牛スジ煮込みを作るのだ。酒のセンスが悪いはずがない。

　ふと、仕事のことも忘れて心地良くしていると、若い男が中年男性と若い女性を引き合わせているような雰囲気の会話が耳に入った。

　売春か・・と、面白そうだなと耳を澄ますと、どうもそうではない。
「こちらが赤坂さんで、こちらが日比谷さんです。えっと、お互い職場が近いので、付き合うのは容易だと思いますが、別れたいとかありましたら、私までご連絡下さい。」

　おや？付き合うのと別れるのが、同じ窓口？
　しばらくは３人で歓談している様を眺める。
　女は頬を染めて恥ずかしそうにし、中年男は少し嬉しそうに緊張していた。
　若い男は二人に丁寧に会釈をして出て行く。

　なんとなく読めてきた。素人の男女を性交渉目的でマッチングさせて金を取る商売か・・・。
　珍しいと思った。そんなもので商売が成り立つのか。
　でも、僕も出会い系サイトを何度も覗き、羨ましいと思いつつも二の足を踏んでいる。
　なら、女を買う金をさっきの男に払って、自分好みの女を紹介してもらうのもありかもしれない。

　酒が尽きて、なにやら面白い現場を眺めたおかげで、すっかり疲れを忘れてしまった。
　金曜の夜に酒を飲んだので、時間も遅くなり、電車も早朝ラッシュに負けじと込み合っていた。
　小さな女性の尻の割れ目が太股に密着して僕を朦朧とさせる。
　こういう時、女性は気付いているのだろうか？
　ふと自分の尻に意識をやるも、後ろの男と押し競饅頭をしているだけで、これほど、性的な蜜合ではないのでわからない。

　降車駅に着くと少し勿体無いと感じながらも、女性の尻の割れ目から太股を離し、人波に溺れるように改札へと向かった。
　ひゅっと冷たい風がスーツの中の余分な熱を奪って心地良い。
　こんな時間でも、身売りの中国女性が「マッサージ」と囁く光景はあまりかわらない。
　いつもの若い男が夜半でも元気良く駆け寄り辞儀をする。
「今日もお疲れ様です。キャバクラ。癒し系のカワイコちゃん。１時間５０００円。今日こそ。ね。どうっすか。」
　たまたま降りてきた女性がその様を見てクスリと笑い、青年はちょっと恥ずかしそうで照れ笑いをしながら、頭をボリボリと掻いた。

　下らない。キャバクラなんて下らない。とは思っていたが、まぁ、たまには良いかなんて気持ちにこの青年とそこのキャバ嬢がしてくれたので、立ち止まって財布を除いた。

　青年は少し驚いて凝視してくる。
「１万５千しかないや・・・。そこの彼女のドリンクと指名料合わせて、これで済む？」
「は、はぃっ。もちろんです。全混み２時間でいかがですか。」
「じゃぁ、それで。」

　転職して以来始めてのキャバクラだった。
　随分と安いなと半ば期待もせず、入店すると、接客の応対は悪くなかった。
　髪を染め女遊び人風の風貌を隠しもしない青年は律儀にお辞儀をし、ホテルマン並に正しく席へと僕を案内する。
　まぁ、一般企業では見た目で入社拒否だろうけれど、中身は正社員レベル以上なのかもしれない。
　昼の仕事とは違う夜の世界の厳しさが彼を磨いたのだとしたら、随分と皮肉な話だ。

　内装は薄暗い室内をたぶんクリーム色の質素な壁紙で覆い男が座る柔らかくて居心地の良いソファーは壁に向かう。
　そして、向かいには壁を背にして細身の綺麗な女性がすまし顔に酒を注ぎながら、僕の様子を伺いつつ、同じソファの隣に浮かぶかのように肉薄の少女が僕に体を寄せて甘えた感触を染み込ませて来る。

　凄いと関心してしまった。
　本来なら正面の女性の美しさに酔うか、隣の少女の儚さに夢中になるかするだろうに、あまりに完璧すぎて関心してしまった。
　座る向きがおかしいのも女性の美しさを引き立たせるために壁を背にするため、ソファが柔らかすぎるのも、隣の少女の軽さを実感させるため。

　酔うに酔えずに感心すると、後方からなにか聞き覚えのある声が聞こえた。
　正面の美女の粘着質な瞳から、力ずくで瞳を反らし、右手を抱きしめた肉薄の少女をまるで無視するかのように後ろを振り返ると、陳腐な表現ではあるけれど、見覚えのある顔がいた。

　どこにいたっけ？
　ついさっき見た気がする。

　じっと青年の顔を眺めて、表情を瞳に焼き付けると、僕は素直に正面の美女に向き直り、眉間に皺を寄せて思い出そうとした。

　美女と少女が困惑気味に僕の気を引こうとさまざまな行為をする。
　正面の美女が氷をウィスキーグラスに入れながら僕の趣味を尋ね、隣の少女が、・・・この少女はいくつなのだろうか？風営法違反ではないのか？わからないが、その少女が胸の谷間と言うべきか盆地と言うべきか、窪地だと言いすぎで申し訳ないところに、僕の腕を押し付けて覗き込んでくる。

　それでも後方から聞こえてくる声に気を取られてしまって、我慢できずに聞いてしまった。後ろの青年はもしかしてネットのマッチングの人？と・・・。
　二人の女性は驚きつつも肯定して、彼について僕に逆質問をかけてくる。
　偶然であることを正直に二人に話すと、僕も興味があるのであろうことがにじみ出ていたようだ。
　青年を紹介してもらえた。