第７話 仮面

　木曜日。
　妻の二回目が終わって、いくらかホッとしています。
　優子さんが次々と指示する、芸術とは無関係な淫らなポーズに、妻は恥ずかしそうな目をしながらも、粛然として従っていしました。
『なんで、そんな恥ずかしいポーズができるんだ』
　この時も、秘唇からこぼれんばかりに濡れていたのです。
『私が見ているからだろうか。優子さんに何かを言われたからなのか、それは、遠藤氏のことなのか』
　一度そう思うと、妻が何を考えているのか、聞くに聞けなくなってしまったのです。
　今日も妻は、優子さん達とお茶を飲んでいるようです。清美さんは、週末に迎える夫のために、そのまま帰ってしまっています。
　遠藤氏は、最初の時以上に、妻の、いえ「山崎さん」のすばらしさをほめたたえます。
「いやあ、優子を抱いていいから、山崎さんを抱かしてくれないかなあ。ああ、一度でいいんだけど」
　私の訝しげな目を感じたのでしょうか。
「もちろん、いざとなって、山崎さんがイヤと言ったらそこでやめるけど。でも、夫婦の関係が最高に高まるんですよ。先生も、どうですか」
　どこまでが本気なのか、遠藤氏の目に光が宿っています。
　私には、はあ、と曖昧に頷くしか答える方法がありません。　
「絶対にイヤなんて言わせませんよ。自分から入れてって言わせてみせる。あの奥さんなら絶対に受け入れてくれますよ。ああ、新しい愛のカタチ、早くお見せしたいなあ」
　いったい何が「新しい愛」なのかは、ちっとも分かりません。
　ただ一つ分かることは、妻に対する遠藤氏の思いは、深くなる一方だということです。
　遠藤氏の言葉も気になりますが、もう一つ気になることがありました。
　キッチンのカレンダーにメモしてあった、エステと美容院の予約。
　普段は、めったにキッチンになど入らないのですが、偶然見てしまったのです。
　妻が、いつ美容院に行っていたのか、思い出すことができません。もちろん、普段からエステに通っていたのかどうか、そんなことも知りませんでした。
　美容院もエステに行くのも、普段通りのことで、あるいは、別に深い意味は無く、私が知らなかっただけのことかもしれません。
　しかし、妻が初めてモデルをやったあの晩にかかってきた、優子さんからの電話が私の動揺を大きくしていました。
「センセ、今度の日曜のご予定はいかがでしょうか」
　一言も遠藤氏の話をしませんでしたが、この間の件であることくらいは想像できます。
　電話のことを妻に聞けないままでした。
　妻は、私に何も言いません。
　いえ、出かける予定だというとは、昨日、私に相談がありました。
　しかし、その日は仲良くなった教室の人たちとお茶を飲みに行くという話でした。
　果たしてそれが、遠藤氏の家に行くことなのか、そして遠藤氏のモデルをやることなのかどうかは分かりません。
　どういう強がりなのか自分でも分からぬままに、思わず妻にウソをついていました。
「今週は制作が遅れ気味なんだ。月曜までちょっと、籠もるよ」
　籠もるというのは、アトリエに入って、集中して制作をするということです。
　さすがに若い時のような集中力は続きませんが、それでも一晩や二晩、眠くもなりませんし、食事も喉を通りません。
　大量のコーヒーさえあればいい。三度の食事とは無縁な世界に没入するのです。冷蔵庫にあるものを囓ることもありますが、たいていは一口で、放り出してしまいます。
　ですから、アトリエに籠もるとなれば一晩くらい妻が外出してもかまいません。ひょっとして、どこかに泊まってきても、私には分かるはずもないのです。
　もちろん、妻は、そんなことはとっくに承知しています。
「ほどほどにしてくださいね。あんまりムリしすぎないで」
　妻の態度はいつになく優しいものでした。
　しかし、遠藤氏のモデルをやるなどとは、あくまでも口にしません。
　果たして、女同士の外出の前日に、美容院に、ましてやエステなんて行くのでしょうか？それとも偶然？　今さら本当のことを聞き出せるはずもありませんでした。
　キッチンに向かう普段通りのシンプルなパンツスタイルの後ろ姿を見送りながら、私の脳裏には、妻の裸身に這う遠藤氏の手が鮮明に見えていました。
　止めようとしても、止めようとしても、あふれ出てくるイメージ。
　妻は本当に遠藤氏の言うとおり、自ら望んで抱かれてしまうのでしょうか。
　いえ、そんなはずはありません。妻は、私だけのものです。
　妻が知っているただ一人の男性は私だけ。
　セックスどころか、男と付き合った事もない妻が、私以外のオトコとのセックスなど考えるはずも、まして自ら望んだりするはずがないのです。
　まあ、妻と交わるときに、他のオトコに見られ、触られ、無理矢理犯されるところを想像させてはきましたが、それと実際にするのとは大違いのはずでした。
　私が無理矢理想像させるからこそ感じるだけ。他のオトコと本当のセックスすることなど承知するはずがありません。
　まして、浮気するなんてはずは…
　いくども想像しては否定する。否定しては、想像してしまう。そんな繰り返しにいらだちながらも、どうしようもなく昂ぶってしまう自分がいます。
　不思議なことに、その昂ぶった気持ちが、私に妻を抱かせようとしませんでした。
　ベッドに入るタイミングを、わざとずらしてみたり、挙げ句の果ては、あまり飲めない酒をわざと飲んで見せたり。　
　自分でも、なぜ妻とのセックスをためらうのか分かりませんでした。そのくせ、妻のカラダが欲しくてしょうがないのです。
　エステに行った妻の留守に、一人悶々とアトリエに籠もるしかありませんでした。
　その時、どうしたことでしょうか。ふと、緑川さんの謎が気になり出しました。
　今まで気にならなかったのが不思議なほど、自分を語らない人です。そのくせ、あの時、そう、自分がヌードになると言い出したときの笑顔は不思議に輝いていました。
　考えれば考えるほど、緑川さんのことが気になってきます。
　入会申込書に年齢欄はありません。だから想像するしかありませんが、おそらく妻とそう変わらず、三十二、三といったくらいでしょう。
　今まで、プライベートなおしゃべりをしたことは全くと言っていいほどなく、私が水を向けても、さりげなく話題をそらしてしまうのが常でした。
　そして、何よりも、一番の謎が絵の腕前なのです。
　普通、絵の力は、画面を構成する力と実際に描く力がほぼ比例するものなのです。
　緑川さんの絵には、パースの狂いもなければ、構成の基本を外したこともありません。おそらく、かなりの訓練を積んでいるはずです。
　それなのに、完成する絵は、まあ、ちょっと絵がうまい中学生といったレベルです。
　そのアンバランスさは、「美大生がわざと下手に描いている」ようにも感じさせます。
　かといって、なぜ、安くもない月謝を払って、わざわざ下手に描いて見せるのか、理由がわかりません。

　たぶん「交代ヌード」が始まったり、清美さんとの関係が無ければ、とっくに気になっていたはずのことでした。それが、ここに至って、ようやく気になってきたのです。
　申込書に書かれた住所を地図で確かめました。
「え、駅の真ん前？」
　線路の向こうは、すぐ目の前なのにアトリエと町名が違うのです。そのせいで気がつきませんでした。書かれた住所が本当なら、緑川さんは、踏切を挟んだ向こう側。
　駅前の本屋さんがあるあたりに住んでいることになります。
　もちろん、近所だからいけないというわけではありませんが、そんなことを緑川さんがほのめかしたことはありません。
　アトリエを出れば、踏切のすぐ向こうに見えるのが青いテントが本屋。店の名前は「田野倉書店」です。ものの一分もかからない距離です。
　最近、本はネットで買いますし、ふらりと本屋を覗くなら専門書のそろっている所まで足を伸ばします。
　ですから、アトリエを構えてから近所を歩いたのは初めてと言っていいほどでした。
『偽の住所？何のために？』
　そんな後ろ暗いことをやっているつもりでもありませんから、もし嘘を書かれているなら不本意でした。
『確かめるか』
　はたして、緑川さんの住所がウソなのかどうか。
　恐る恐る足を踏み入れた私は、レジにいた人妻と目が合って、呼吸が止まります。
「とうとう、バレちゃいましたね」
　居心地悪そうに、肩をすくめて笑った緑川さんが、そこにいたのです。
　教室にいたさっきまでとは打って変わって、薄化粧のうえに緩やかなスカート姿。
　本屋さんによくある、エプロンこそ着けていますが、長い髪をふわりと、肩まで流して微笑む顔には、ドキリとする色気があります。
「あの、ひょっとして見に来ました？」
　他愛のないイタズラを見つけられた小学生のように、はにかんでみせる白い顔に、私は呆然とするしかありません。
　とっさに答えられずにいると、緑川さんが奥の方へ振り返ります。
　店には誰も見あたりません。
「あなたぁ、ちょっと出かけても良いかしら」
「ああ、どこ？」
　店の奥から穏やかな声だけが、返ってきます。
「絵の先生の所」
「おお、行ってこい、頑張ってな」
　いくぶん、うれしそうなトーンに変わった気のする返事が聞こえると、スッとレジから出てきてエプロンを外します。　
「先生がお知りになりたいこと、お話ししますわ。今、お邪魔しても大丈夫かしら」
「えぇ、まあ、散らかってますけど」
「あら、今日は清美さんはいらっしゃらないのね」
「う、え、え、あ」
「大丈夫、奥様に言いつけたりしませんわ」
　ニコリと、人妻らしい柔らかな笑顔で笑いかけてきます。
「こんなところで話せる話題じゃありませんわ。まずはご一緒しましょ」
　楽しげに微笑んだ人妻は、長い髪を風に揺らして先に歩き始めます。もちろん私のアトリエに向かってです。
　風に乗った人妻の甘い匂い、不覚にも、ズキンとときめいた私は、慌てて追いかけるしかありませんでした。

　はたして、人妻のもの柔らかな接近を許したのがいけなかったのか。はたまた、たった数日のセックスレスがいけなかったのか。
　いえいえ、元々、意志薄弱な上に誘惑に弱い私がいけないのです。
　アトリエの柔らかな光の中に座る私の目の前に信じがたい光景がありました。
　ついさっきまで書店のレジにいた、ごく普通のいえ、むしろ、大人しく真面目そうに思えた人妻が、ベージュの下着姿で跪き、絶妙の技でフェラをしています。
　妻とは違う匂い。違うやり方。
　上から見下ろすハーフカップのブラからは、微乳の妻とは比べものにならないふくよかな白い胸がこぼれそうです。
　ず、ジュボ、ず、ず、ジュボ。
　巧みな音を立てながら、吸い、舐め、呑み込んで、唇が柔らかくしごきたてながら、舌先はカリをくすぐります。柔らかな指は妖しげにあちこちを這い回ってきました。
　時折、私を呑み込んだまま見上げる目は、ねっとりと潤んでいました。
「み、緑川さん、上手すぎて…」
　唇が巧みに締め付けながら上下して、舌全体が生き物のように絡みつくのです。一瞬の休みもなく巧妙に責め立ててられれば、私が降参するのにいくらもかかりません。
「わ、もう、だめ、です」
「あら、良いのよ、一度出して。それとも、私じゃ、二度目は可能にならないかしら」
　ぬめった私のモノに巧みに指先が絡みます。
「可能って、あの、またフェラで」
「もう、先生、大人のオトコとオンナが、こうなって、私、満足させてもらえないのかしら？」
　じゅぶっと猥褻な音を立てて飲み込まれ、先端がヌルッとした喉の奥にまで飲み込まれてしまいます。
「だけど、あ、わ、わ、緑川さん、ダメだ、それ」
　舌がねっとりと絡みついたまま、一気に、唇でしごくスピードを上げてこられては、私の軟弱な、我慢をしようという努力など、ひとたまりもありませんでした。
「あ、あ、緑川さん、でる！｝　
　そんな警告も必要なかったのかもしれません。
　おもわず、広げた両脚を突っ張らせたまま、股間に吸い付く緑川さんの頭に手を載せて、甘美な放出をしていました。
　ストレートの髪が、手の中でやさしい感触でした。
　数日分の精液を一気にドクドクと噴出させても、余裕のある様子で飲み込んでしまいます。
　コクリと飲み込みながら、見上げる表情には、なんともいえず色気が漂っていました。
　まるで、ナカに射精されたのを受け止めているように、飲み込むことで快感を感じているのかとさえ思えます。
　チュプっと吸い付くようにしながら、最後の精液を吸い出して、力を失った私のモノは解放されました。その吸い尽くす微妙な力加減すら心地よいモノだったのです。
　ぐんにゃりした私のモノに、わずかな風があたり。ひんやり感じます。
「はあ〜」
　どっと力が抜けて、ソファに背中を預けたまま動けなくなってしまいました。

　緑川さんは、別に派手でもなんでもない、普通の人妻です。教室に来る時など、人妻と言うよりむしろ、学生さんのように清楚で、真面目そうな雰囲気でした。
　清楚な唇からペロリと唇に付いた残滓を舐め取る姿はひどく淫蕩な表情に見えました。
「緑川さん、あの」
「もう、おわかりだと思いますけど、私の本当の名前は、田野倉と言います。田野倉敦子。敦子って呼んでください」
「えっと、あの、じゃあ、あ、敦子、さん、えっと、何で」
「あら、今さら遠慮なさるなんてヘンだわ。でも、そうね、今、私が一方的にしちゃったもの。やっぱり、くっつかないとオトコとオンナはダメですよね」
　みど、いえ田野倉さ…　あ、いえ、敦子さんは、いきなり、手を後ろに回すとピシッという微かな音がして、ブラが緩みます。
「清美さんに比べられたらかなわないけど」　
　照れたような笑顔を浮かべながら、小さな下着を扱き降ろせば、そこには、見事な人妻のヌードがありました。
　そのまま、私の横にもたれかかってくると、甘い香りごと、思わず抱きしめてしまいます。その私の耳元に甘いキスと囁きが入ります。
「先生も脱いでくれなくちゃ」
　シャツの脱がし方までがひどくやわらかい手つきでした。おまけに、私に半ばまたがるように、片脚を載せてくるのです。
　片手で、柔らかい胸を揉み始めたときには、控えめなヘアが、私の腿をこすっていました。
「敦子さん…」
「何？先生。ふふ、何をなさってもいいのよ」
「だって、さっき、旦那さんでしょ奥にいた人」
「そうよ」　
　ニコリと笑いながら、私の手をそっと持ち上げます。
「だから、がんばれって言ってくれたでしょ。頑張っちゃうから、私」
「だって、あ」
　私の指先をちゃぷっと飲み込み、なめ回すのです。
「ふふ、懐かしいわ。絵の具の匂いがする」
　絵の具の匂いが指先に染みついているようでした。
「え？懐かしいって、やっぱり、経験者なんだ」
「私立だけど、一応は」　　
「僕が教えているのも私立ですよ」
「あん、先生、すこしは、触ってくださらないと」
　にっこり笑った笑顔に引きずられるようにして、思わず敦子さんの秘唇に、さっき舐められた指を伸ばしていました。
「あう、あん、やっぱり、指先が器用よね。あん、こういうの、あう、上手」
　褒められるのは嫌な気はしませんが、秘唇はすでにたっぷりと濡れそぼっていました。
　見たことがあるとはいっても、敦子さんの秘唇を味わったわけではありません。
　濡れた秘唇の感触は、私のモノを再び、可能にしたのです。　
「あら、すごい、もう。うれしいわ、先生」
　しなやかな動きで、私にまたがります。濡れても窮屈なままの秘唇が、獲物を飲み込むように、私をあっさりと飲み込んでいきます。　

　あたたかに濡れた美肉に包み込まれると、私の怒張は早くも完全に屹立していました。
「ふふ、元気。先生、知りたいこと。全部話すわ。でも、一度、ちゃんとしてからね」
「でも、敦子さん…」
「あふぅ、あう、先生、どう？あんまりこのスタイル得意じゃないけど」
　ソファに足をつけて私に跨り腰をグラインドさせるように動かされると、密着している美肉の中を、再び硬くなった私のモノがかき回すようになります。
「あう、あう、あう、あぁ、先生、いいわ」
「しかし…」
「もう、先生ったら。あん、じゃ、もし、私を満足させてくれなかったら、ウソを教えちゃおうかしら」
「そんな、敦子さん。頼むよ」
「じゃあ、しっかり。先生。お願い。あう、ぜ〜んぶ、あう、喋りたくなるように、しっかりね」

　セックスのことなど少しも感じさせなかった敦子さんが、ねっとりした腰の動きで、商売女のような淫猥に、私の上で動いていました。
「さ、先生。お願い」
　こうなれば、とにかく、感じさせるしかありませんでした。考えてみれば、これほど、普段の貞淑そうな外面と落差のある人妻とのセックスは、オトコの理想でした。
『こうなったら、とことんやってやる』
「あぁ、先生、あう、いい。それ。あん」
　両手が自由なところを生かして、クリトリスと乳首とを緩急をつけて弄り始めると、とたんに、敦子さんの表情が蕩けます。
「ああ、いい。すっごい、上手」
　おそらく、子どもを育てたことがあるのか、ちょっと大きめの乳首に吸い付きながら、さらに、乳首とクリトリスへの指を強めます。
「あう、あう、あぁああ」
　トーンの高い淫声に励まされるように、思わず、腰の動きだけで何度も敦子さんを突き上げていました。
「あう、先生、す、すごい、ああん、逝っちゃいそうよ、あう」
　相変わらずぐらいどうする動きは止まっていません。ですから、私の怒張は、突き上げる度に敦子さんのナカで違う部分をこすり上げることになります。
　その刺激が強かったせいでしょうか。五分もしないうちに私の膝の上で背中を仰け反らしたのです。
「あう、い、いっちゃいそう。先生、先生は、まだ頑張ってくれる？」
　大きく頷く私に舌を絡めながら、敦子さんは、私にしがみつくようにして最初のオーガズムを迎えたのです。
「すてき、先生。次は、どうしましょうか」
　耳たぶに柔らかな唇の感触をうけながら、敦子さんが囁きます。
　つながったまま、敦子さんをソファに掴まるように立たせて後ろから攻めるカタチに持って行きます。さっき、出したばかりですから、まだまだ、保てそうでした。
　尻孔までも視野に入れる、オンナの全てを征服するような姿勢で動き始めます。
　早くもいやらしい声を吹きこぼす、感じやすい敦子さんです。
　敦子さんが語ってくれた真実に愕然とするまで、それほどかかりませんでした。

　
　遠藤氏のマンションには驚かされます。
　豪華なことは予想していましたから、玄関のタイル一つとっても、高級なことには、感心はしても驚きはしません。
　二人だけの暮らしには広すぎるのも、大きすぎるソファの置いてあるリビングも、まあ、趣味の問題です。
　驚きの元はリビングの隣の部屋でした。
「なんですか、これ？」
　二十畳近くはあろう部屋の一面に巨大な鏡がはめ込まれています。
　壁には所々、手すりがあるせいで、部屋と言うよりバレエ教室のレッスン場といった感じです。しかし、床は、なぜか、ふかふかしたシートが敷いてあります。
「どうです、これなら、汗をかいても、水をこぼしても掃除できますし、ほら、寝ころんでも痛くない」
　温厚な紳士然とした遠藤氏が、ゴルフスラックスにポロシャツの姿で、コロリと転がってみせるのです。
　まるで子どもが自慢の秘密基地を見せるような、イタズラな表情でした。
「ここって、いったい何に使うんですか」
「まあ、趣味が昂じまして。何しろ子どももいないし、趣味に使うくらいしか能がないんですよ」
「というと、まさか、バレエでもないだろうし」
　見回すと、天井に使い道が不明のフックが所々に埋め込まれているのが目に付きます。
　そして、何より照明が明るすぎました。
　普段、自然光に近い照明を心がけている身としては、まるでコンビニに飛び込んだような明かりには違和感を覚えます。
「社交ダンス？いやあ、違うなあ。見当も付きませんよ」
　正直言って金持ちのやることは分からないし分かりたくないとも思ってしまいました。
「ハハハ、まあ、いずれおわかりになりますよ。では、ちょっと狭いんですけど、どうぞ、こちらへ」
　イタズラな顔のまま、一度廊下に出て隣の部屋に案内されます。先に入った遠藤氏が明かりをつけた所に入ると六畳ほどの部屋でした。
　そちらは、ごく普通のフローリングでしたが、一面がガラスなのです。
　そちらを指さして、遠藤氏はニコニコしています。
「これは…　さっきの鏡の裏側ですよね」
「そうです。そして、鏡は…　こうなります」
　カチッと明かりが消えた瞬間、ガラスが透明になったのです。
　向こうでは、いつの間に現れたのか、優子さんが、ニコニコしながら、小首をかしげて見せます。時折、口をパクパクするのは声を出しているのでしょうか。
「これって、あの、その」
「そうです。センセイの所におつけしたヤツのミラー・バージョンでして。向こうが明るいと、この中は見えない。だから、ほら、ウチのヤツが困った顔してるでしょ」
　優子さんは、私が中から見ると思って、ニコニコしてくれているのでしょうが、確かに、いつまで続けていいのか分からなければ困ってしまうことでしょう。
「これ、まあ、見破れなくもないですが、ま、こっちが暗ければ、まず、ばれませんよ」
　自信たっぷりの顔ですが、私は、自宅にこんな設備を作る遠藤氏の、いささか常軌を逸した行動に困惑しきりです。
『まるで、この部屋は隣を覗くための…　覗く？のぞ…！！』
「遠藤さん　まさか…」
　深い目をした遠藤氏の静かな迫力が、私に最後まで言わせませんでした。
「先生、約束です。本日は、最後までごゆっくりお楽しみください。きっと、先生の人生が変わります。決して後悔させません」
　肩を抱くように、そう説かれると、私は気力を失って、小さなソファに崩れるように腰掛けてしまいました。
「音は、ほら、このヘッドフォンを。防音には気を遣いましたからね」
　手渡された、見るからに高性能なヘッドフォンから、優子さんの「聞こえますかあ」という声が聞こえてきました。
　ヘッドフォンを外して呆然とする私に、遠藤氏は満足そうな笑みを見せます。
「こちらにいくらか用意いたしました。お好きなものを召し上がってください。何なら、優子も後で来ますから、どうぞ」
「遠藤さん！」
「ははは、明かりはつけなくても十分明るいはずです。おっと、間もなくですね。あ、くれぐれもお酒はほどほどに、後であっちが役に立たなくなると困りますからね」
　言葉も出ないままの私がポツンと部屋に残されました。
　そばのテーブルには、オードブル。ミニバーまでもが壁際にしつらえてあります。
　確かに、この設備は、今回のようなことにピッタリかもしれません。しかし、いくら金持ちの道楽とはいえ、このためにだけしつらえるにしてはやり過ぎです。
　アラブの石油王とは違うのです。
　では、他にも？
　緑川さん、いえ「田野倉さん」の言葉が蘇ります。
「先生、私たちと仲間になれそうだから」
　私たち　確かに、そう言ったのです。私たち、ということは田野倉さん以外にも誰かがいるのでしょうか。
　とまどいの中で、うろたえていると、玄関のチャイムがなるのが聞こえました。なるほど防音がしっかりして、人の気配はわかっても、話し声までは聞き取れません。
『来たのか？紀美が？まさか。そんなはずは、しかし…』
　永遠とも思える時間でしたが、ひょっとしてごく短かったのかもしれません。先ほど、念のためにお預かりしますと、私の携帯を遠藤氏が持って行ってしまいました。
　こちらの部屋にも、そして否応なく目の前に見える「部屋」にも時計は一切無かったのです。
　時の感覚をなくしたまま、ただ、これから起こることが不安で、わずかに震えていました。でも、最後まで妻を信じたいのです。まさか、妻がこんな所に来るはずがない。
　その時、向こうのドアが開きました。
　優子さんが、真新しいイーゼルをセットして、置いた一枚の水彩。
「あれは」
　思わず、声が出ていました。
　妻の裸身が描かれていました。まさしく、あの時の妻のポーズそのものです。
『いったい誰が』
　謎です。
　まだ、完成にはほど遠い状態でしたが、これは、すくなくとも優子さんに描けるレベルではありません。
　優子さんとは言わず、素人画家にこれほどのものが描けるのかどうか。
　思わず、ヘッドフォンを被ると、遠藤氏の、柔和で落ち着いた声が響きました。
「ははは、こちらでお見せしますよ。お恥ずかしいできですが」
「えぇ、どちらなんですかあ」
『紀美！』
　にこやかに入ってきた妻はベージュの落ち着いたスーツ姿。ミセスの訪問スタイルと言ったところでしょうか。
　半分予想はできましたが、続けて入ってきたのは田野倉さんでした。ダークチェリーの薄いセーターに、黒のスーツです。
「え！これをご主人がお書きになったのですか？」
　手を口に当てたまま、妻が立ちつくしました。
　見られたこともない自分のヌードが描かれていたら、驚くに決まっています。
　その上、その絵は、あきらかに妻の技量よりも上でした。
「いやあ、妻のデッサンを元にイメージを浮かべてみたのですが、もう、お恥ずかしい次第で」
「やだ、これ。とってもお上手ですけど…　なんで」
　おそらく、自分よりも技量が上だと言うことが妻にも分かったのでしょう。おまけに、そこに描かれているのが、自分のヌードなのですから、気味悪く思うのは当然です。
「すみません、妻の下手なデッサンだけでは、これが限界なのです」
「いえ、あの、これ、そうじゃなくて、だって、とってもお上手だけど、なんで…」
「お願いします。妻の身体は何十枚も描いてきました。しかし、妻が描いたあなた方のお姿が頭から離れなくなってしまっているんです」
　遠藤氏は、全身に誠意をあふれさせる様子で、深々と頭を下げています。
「お願いだ。私も、もう、この年だし。こういっては何だけれど、あっちも役に立たない。まあ、オトコとして終わってしまっている。だが、美しいものを描きたいという芸術心は、失いたくないんだ」
　突然、その痩せた身体をがばっと地面にたたきつけるようにしゃがみ込んで土下座をしてしまいました。
　その姿は、企業が社会問題を起こす度にテレビなどで流される「社長のお詫び」など、比べるべくもないほどの真摯さが込められています。
「これ、この通り。お願いします」
「ちょ、ちょっと、遠藤さんたら」
　相手は、自分よりもはるかに年上の、これだけの社会的地位の人間です。しかも、知的で物静かな雰囲気を持った人物が、泥臭い土下座で頭を床にこすりつけているのです。
　妻は狼狽しています。
　どうしましょうという顔でチラッと、田野倉さん、いえ、妻にとっては「緑川さん」に目を向けます。
　かがみ込んで頭を床にこすりつけたままの遠藤氏に、やさしく手を添えたのは緑川さんでした。
「わかりました。遠藤さん、お願いです。頭を上げてください」
「え？じゃあ、引き受けてくださるのですか」
「はい。それだけ熱心にお願いされたら、ことわれませんよ。ねえ」
　勝手にＯＫをしてから、妻に向けて、同意を求めます。この笑顔が、実は遠藤氏とのお芝居だなんて、誰が思えるでしょうか。
　もちろん、間髪を入れず、遠藤さんが跳び上がります。
　妻と緑川さんの手を一つずつ握りしめ、ありがとう、ありがとうと、あの誠意あふれる笑顔で繰り返されれば、もはや妻は断ることなどできませんでした。
「あぁ、お二人が引き受けてくださるなんて」
「あらあら、本当は、山崎さんがお好みでしょ。私はおじゃまでしょうから、途中で帰りましょうかあ」
　そう緑川さんがおどけてみせると、いえいえ、これで二人の女神が描ける、と、あくまでも真顔で受け止めて見せます。
　妻の表情が引きつっていたのは、緊張のためばかりとは思えませんでした。