１

「カップルズ・カフェ　カサブランカ」
　事務所に続くような細い階段の下になにやら妖しげな紙が貼られた看板が出ている。他には入り口らしきところはないから、どうやらこの階段の上が入り口になっているようだ。
「ここかな？」
　ネットからプリントアウトした地図を確かめながらタカシが私に同意を求めた。
「多分。」
　私は頷いて看板を眺めた。何とも頼りない看板だが、繁華街からは少し離れたこの辺りならこの看板だけでも充分なのだろう。目立ちすぎず、それを求めている人間にだけ分かるようにしてあればそれにこしたことはない、ここはそういうお店なのだ。
　事実、私も彼もずいぶん手前を歩いている時からこの看板に気が付いていた。階段の上にある店の入り口もインターネットで調べた画像ですでに分かっている。だから私たちはいまさら場所の確認をしたのではない、お互いにこう確認したのである。
「本当に入っていいの？」と。

＊

　前期試験が終わった先週の木曜日、梅雨あけ直後の猛烈な暑さをしのぐために私たちはいつもの喫茶店で夏休みの予定を立てていた。
　私は杉本洋子、某大学の文学部３年生だ。同じサークルの金子隆史とは明日の金曜で付き合って２年になる。
「世間が夏休みになる前でないと道が混むし、記念日だからどこでも好きなところに連れて行ってあげるよ。」
　タカシがアイスコーヒーのストローを口にくわえたままそう言った。
「ホント？そうねぇ・・・水があるところがいいな、滝とか、渓流とか。」
　突然そう聞かれてあまり良い考えも浮かばなかった私は、なんとなく暑さを逃れたくてそう言った。
「水遊びか・・・海かな？」
「うーん、海もいいけど人が多そうだし、山気分かも。」
「そうだな・・・。」
　昼のテレビで湘南のものすごい人出を見たばかりだ、海沿いの道も４ＷＤ車で大渋滞ではせっかくのドライブがもったいない。
「プールじゃ味気ないし・・・じゃあいっそのこと川遊びとかかな？なんか小学生みたいだけど。」
「わー懐かしい！それいいかもね・・・水着持って行こうかしら？」
　アウトドア派とはほど遠い付き合いかたをしている二人だが、私は素直に喜んだ。
「え、マジ？泳ぐの？なんかこう、俺たちにしてはワイルドな計画だなぁ？」
　自分で言い出したくせにタカシはちょっと意外そうにして笑った。
「たまにはいいわよ。」
　私も笑ってそう言った。
「そうだな、たまにはね。」
　カフェや食事とホテルが中心の最近のデートにすこし飽きてきていたのだろう、無意識のうちに、私たちはより深く愛し合うための変化を求めていた。

＊
　
　翌日はさらに暑い日になった。私たちは学校に行くよりも早起きをして、タカシがネットで調べた「水遊びができる川」へと向かった。高速道路と一般道を乗り継ぎ、さらにそこから予想もしなかったような曲がりくねった狭い道を抜けると、ドラマに出てくる数十年前の農村のような風景が周りに広がる。観光客はおろか地元の人の車さえもほとんど見かけない、狙い通りだ。
「わぁ・・・！なんかいいねぇ。」
　私が喜んでいるのを見てタカシもうれしそうに笑ってハンドルを握っている。サンルーフを開けると夏の空気の匂いがした。
「結構登ったけど、それでも暑いねえ。」
「うん、まあちょうどイイかもよ？」
　まだ昼前だったが車外はかなりの暑さだ。きっと川の水が気持ちいいだろう。
　そのうちに車は農村の集落を抜け、ふたたび川沿いの狭い道へと入ったかと思うと、すぐにすこし開けた広場に出た。道はそこで終わっている。
「ここかな？」
　タカシが窓から川の方を眺めた。
「見てくる？」
「頼む。」
　ドアを開けて外へ出たとたんに、むぅっという暑さにつつまれた。私は砂漠でオアシスを求めている人のように車道を外れて川岸へと急いだ。
　数メートル下の水面は梅雨明けの割には増水した様子もない、流れはほとんど無く、深さは充分だ。
（いい感じ・・・でもこの靴じゃ無理か・・・。）
　下へは大きな岩をつたうようにして降りて行けそうだったが、どうもこのサンダルでは無理みたいだ。もっとも、子供が飛び込んで遊んでいるところだそうだから、降りるときには岩をつたわずに飛び込むのが本来の流儀なのかもしれない。
「どう？」
　車を停め終えたタカシがそう言いながらやってきた。
「多分ここでしょ？」
「うん・・・そうだね。あの石の上から子供が飛び込んでいたと思った。」
　タカシが指さした方向には岬の突端のように川の流れに向かって突き出ている岩があった。なるほどあそこからならちょっとしたジャンプ台になりそうだ。夏休みには子供たちの恰好の遊び場になるはずだけど、今は学校の時間のせいか辺りには人の気配もない。
「どうする？」
「せっかく水着持ってきたんだろ？」
　タカシは車の方を親指で示した。
「大丈夫かな？」
　私は大乗り気だったのも忘れてちょっとためらっていた。混んでいるのもイヤだが、誰もいないというのもちょっと不安だ。
「まあ、とりあえず着替えて下までいってみたら？また登っては来れそうだし。」
　タカシが下を覗き込んでそう言うので、私も再びその気になった。それに涼しそうな川の流れの誘惑はなにものにもかえがたかった。

＊

　私たちは車に戻ると、そのまま車内で着換え始めた。素通しガラスのクーペの中では着換えにくいけれど、どうせ周囲には誰もいないのだからことさら神経質に隠す必要もないようだ。タカシは堂々とズボンとパンツを一緒に降ろし、下半身裸になって水着に履き換えようとしている。
（着換えやすい服にしてきて良かったかしら。）
　リゾート向きにつくられた薄手でゆったりとしたワンピースを着てきた私は、服の中に手を入れてまずブラジャーを外し、続いてショーツを脱いでそれらをたたんでからカバンにしまうと、かわりに去年買った水着を取り出した。
「危ない！」
　いきなりタカシがワンピースの裾をまくり上げた。
「きゃっ！やめなさい！」
　水着を両脚に通そうと手を伸ばしていた私は、あわてて裾をなおして下のヘアを隠した。
「もう！」
　にらみつけたがタカシは平気で笑っている。
「いや、手伝ってあげようかなと。」
「結構です。」
　私はワンピースの裾をミニスカート並みにももの辺りまで上げたままで、水着を足から上げていった。
「ほら、ちゃんとここを隠すんだよ？」
　そうしている間にもタカシが私のノーブラの乳首を指でつつく。的確に目標に直撃するのはワンピースの薄さのせいだけではない、彼は私の乳首の位置なんて目をつぶっていても当てることができる。
「うぅん。だぁめ！着換えられないでしょ？」
　そのまま乳首をつまんで悪戯しようとした彼の手を避けて窓側を向く。姿勢を低くして一気に水着を上まで上げて、ワンピースを頭から引き抜いた。
「背中結んでくれる？」
　ワンピース型の青い水着は首の後ろで結んで留めるホルダーネックタイプだ。タカシは運転席から手を伸ばして簡単に結び目をつくった。
「オッケ？」
「うん。」
「じゃいくか。」
　タカシはタオルと貴重品を入れたバッグを持つとドアを開けて外に出た。アンダーヘアと胸の部分をもう一度確認して、私もそれに従った。エアコンを切った車の中はすでにかなり蒸し暑かった。
「飛び込むの？」
「いや、それほど若くないよ。」
　笑いながら岩場を下へ向かう。島のように水面からすこしだけ顔を出した岩がいくつかあり、そこから水にはいるのがちょうど良いようだった。タカシはその岩の一つに降りると、そのまま岩の上をわたって行き、向こう岸に一番近い岩を選んで荷物を置いた。
「この辺でいいかな？」
　私は肯いて腰を下ろした。おそるおそる川の中に手を入れると、ひんやりと冷たくて気持ちよかった。私は岩の縁に座り、両脚を水の中に入れた。
「気持ちいいよぉ！」
　流れがほとんど無いせいだろうか、冷たすぎるということもなく、それでいて良く澄んだ綺麗な水だった。
「遠くまで来たかいがあったなぁ。」
　タカシも隣に座って足を入れた。
　この岩の上は川のカーブのおかげで入り口から死角になっている。さらに岸から張り出してきた木々が頭上にかかって周囲からの視線と日差しを遮って、まるで二人だけで無人島にいるようだ。
「冷たすぎる？」
「大丈夫。」
　私は足をバタバタさせながら答えた。しばらくそれを眺めていたタカシがおもむろに立ち上がったので私も腰を上げかけた、すると・・・。
「じゃあ行けぇ！」
　バシャァーン！
　いきなり振り向いたタカシに身体を押され、何が何だか分からないうちに私は水の中に落ちていた。深さはおへその上ぐらいまでだが、バランスを崩して落ちたためいきなり髪の毛までビショビショだ。
「な、何するのよ！」
「だって泳ぎたかったんだろぅ？」
　タカシは岩の上からのんびりとした声を返した。
「・・・そうだけどぉ、とりあえず上にあげてくれるぅ？」
　私は水からあがるかのように手を伸ばし、差し出されたタカシの手をつかむとそのまま力一杯引っ張った。だましうちにするつもりだったが、すでに予想していた彼はすすんで水の中へと落ちてみせた。
　バッシャアーン！
　すさまじい水しぶきのあと、目の前の水の中からタカシの顔があらわれる。
「おやくそく、ね。」
　笑いながらそう言うと、彼はわざと悔しそうな顔を作って見せた。
「ああ・・・よし、行くか！」
　タカシはそう言うなり再び水に潜った。私は平泳ぎで彼の後に続いた。水の中に入るとさすがに川の流れを感じたが、逆らって泳ぐことは別に苦でもないという程度だ。万一流されても行き先はさっきの村落の方だから上がる場所はいくらでもある。
　やがてタカシが私の横に並んだ。
「こっちの方が深いんだね。」
「そう？」
　言われてみれば底に足がつくギリギリの深さだった。前方にはあの飛び込み台の岩があるから、あるいはこの先でもう少し深くなるのかもしれない。
「この深さなら俺たちが飛び込んでも大丈夫かな？」
「どうかしらねえ？」
　足下を確かめながら岩の真下に来ると、やはりそこの周辺だけかなり深くなっている。水深２メートルというところだろうか、私の背では底に足がつく気配がない。
「結構深いな。行ってみよっか？」
　タカシは上を指さした。飛び込み岩の真上に、真昼の太陽が位置していた。