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Ⅱ－１
【二度目の呼び出し】
あの日、帰宅したら夫は何も言わなかった。目を合わせることもせず、話もなく、短く「ああ」とか「そう」とかいう相づちだけでろくろく会話もしなかった。あの男たちから受け取った書類のことも尋ねてこなかった。
子どもたちが寝てしまったあと、みほはあの男たちとの約束など無視して夫に問いただそうかとも思った。だが、それだけの力が、気力が残ってなかった。ただただ、思い出したくなかった。
数日後、彼女はトイレで月経の始まったことを知った。その瞬間、押し殺していた記憶が蘇り、その意味したことを突然、理解した。
（わたし、中出しされた・・・）
悔しさと、妊娠せずに済んだ安堵感と、夫に裏切られた悲しさ、恥辱感、、、ことばにできないさまざまな思いがうずまき、そのまま小さな個室で何十分間もただ静かに涙を流した。
＊ ＊ ＊
金曜の午前。子どもたちは学校に行った。あの出来事からもうすぐ二週間、一度はその記憶に圧倒されてしまったけれども、その後はもう考えないようにしていた。あれは単に悪い夢であったと信じられるものなら信じてしまいたかった。しかし、そんな彼女を現実は待ち伏せし、再び襲いかかってきた。
「ＰｕＲｕｒｒｒｒｒ....」
みほは朝食の片付けで洗い物をしていた手を拭いて受話器をとる。
「はい、沢井です。」
「奥さん」
彼女は電話の向こうに誰がいるか、一声でわかってしまった。
「お元気ですかな？いや、普段と変わりなくやってるとはダンナさんから聞いてましたがね。」
恐怖感と絶望感、嫌悪と怒り、さまざまな感情が一気に沸き起こってきて、彼女はあっという間に口の中がからからになってしまった。何もことばが出ない。
「われわれとの約束は守っていただけたようで、感謝しております。代わりに、奥さんは感じたり濡れたりせずに、つらそうに我慢していたとダンナさんには言っておきましたので。」
彼女は屈辱感で頭の中が一杯になったが、何も言い返す言葉がそれでも浮かばない。もし浮かんだとしても、自分の弱みを握っている男へ迂闊に呪詛を吐くわけにもいかない。
「奥さん、聞いてますかな？」
「は、はい」
「奥さんがちゃんと話を合わせておいてくれたので、せっかく持参したこの前のビデオテープもダンナさんには見せずにおきましたよ。」
自分でもさっと血の気が引くのがわかった。夫だろうと夫以外だろうと誰であろうとあんなものは見られたくない、見られてはいけない。
「そんな話が違います、あの人に見せるなんて！」
すっかり動転して大きな声で言った。だが、先方はいたって落ち着いた声のまま...
「おや、見せなかったと言ったのが聞こえませんでしたか？それに誰にも見せないなんて約束した覚えはありませんが。」
彼女はあわてて言い直す。
「ごめんなさい。誰にも見せないでください。」
「ええ、奥さんが今回のことのようにわれわれと友好的な関係を保っていてくださる限り、あのビデオは誰にも見せませんよ。」
電話越しにさえニヤニヤと笑っているのがわかる。彼女が黙っていると男は続けた。
「ところで、次回のわれわれの“デート”ですが...」
男は“デート”のところを多少おおげさにアクセントを付けて言った。そして、前回同様、日曜の昼、前回と同じ時間、同じ場所に来るよう一方的に言いつけると、電話を切った。
みほは受話器を置いた後、しばらく呆然としていた。
（やっぱり、これは悪夢なんかじゃなくって避けられない現実なんだ・・・）
どんなに屈辱的でも、子どもたちの未来のためには避けて通ることはできない。それならばジタバタせずにじっと身をすくめてその数時間を耐えるしかないのではないだろうか？動揺し狼狽してあの男たちを余計に喜ばせてしまうのはもっと屈辱的だ。
どれくらい電話機の前に立ち尽くしていただろう？考えがここに至ってやっと気分が少しだけ軽くなった。
＊ ＊ ＊
事務所にはオレだけだ。今日は珍しく全員仕事で出払っている。ここ数年、不景気で仕事も少ないのだが、たまにはこういう忙しいときもある。
さしあたり作っておかなければならなかった書類をちょうど作りおえた頃、タイミングよく事務所のドアが開いた。
「ボス、今戻りました。」
高橋が事務所に入ってくるなりそう言った。
「お疲れさま。」
オレはやつに声をかけると立ち上がり、椅子にかけていた上着を手にとる。
「じゃ、オレは出かけてくるから。何か用があればケータイにメールいれておいてくれ。」
「はい、わかりました。」
「あ、それから、報告書は、誤変換、気をつけろよ。」
「いや、ボス、この前のは徹夜あけでたまたまミスが多かっただけっす。」
「ああ、わかったから。それじゃな。」
オレは毎度のいいわけに苦笑しながら、留守番のできた事務所を出る。一人で歩きだすと、すこしほおがゆるむ。鈴木も今朝「今日はお一人でどうぞ」とニヤニヤしながら仕事に出た。
確かに不景気で、事務所の経営は火の車、とまでは行かなくてもかなり厳しい。だから金持ちの淫売野郎から金を巻き上げることを始めた。しかし、違法行為は違法行為だ、万が一のときには手が後ろに回る。
（そのときはオレだけが臭い飯を食えばいいんだ。）
実際、鈴木以外はオレたちのやっていることを知らない。鈴木だけは実際に現場にも居合わせているから何も知らなかったではすまないだろうが、オレに言われた通りに行動しただけだと言うように口裏を合わせてあるし、この仕事に対してのボーナスも跡の残らない形で渡している。これなら悪くても執行猶予がつくだろう。
（しかし、、、）
オレは車に乗り込みながら思った。
（どうして稼ぎのいいやつらの女房どもは美人ばかりなんだ。）
オレたちは犯罪にも手を染めながらやっとの思いで小さな事務所を維持しているのに、こんな不景気な日本でも金を持っているヤツは持っている。ブランドバッグや頭が空っぽのガキなんかに使う金があるんだから。
少女買春をネタに恐喝する・・・もちろんガキを買うヤツには金持ちも貧乏もいるが、当然、脅迫のターゲットは金持ちだけになる。すると決まってそいつの女房は美形ばかりだ。よそで女を買う必要などないだろうとも思うのだが、手に入れたあとは別の女を追いかけるのは男のサガか？
女にしたって、どうせそういう男は女房を、無料で雇っているセックス有りの家政婦くらいにしか思ってないのに、どうしてひっかかる？結局は安定した豊かな生活が望みか？
「まあそれはとにかく、美人にもいろんなタイプがいるし、性格もいろいろだしなぁ。」
車を走らせながらオレはひとり呟いた。
そうだ、好みの問題がある。確かに今までこうやって食った女の中でダントツにオレの好みだ。
「まあ、大事に扱わないといかんなぁ」
オレは今から会うみほの顔を思い出してニヤリとした。
＊ ＊ ＊
「奥さん」
いきなり背後から声をかけられた。今度は周りに注意していたつもりだったのに、前回と同じように、気がつくとすぐ近くにまで来ていた。
「はい」
返事をしながら振り返ると、顔がこわばるのが自分でもわかる。
「こっちです」
男は近くに止めてあった車へと案内する。この前と同じ車だ、何の変てつもない白のセダンの国産車。車に詳しくないみほはメーカーや車種まではわからなかった。いかにも企業が営業車なんかで使いそうな車。どこにとめていても、外回りの営業が仕事をサボって昼寝でもしているのだろうとしか思われないような車。
「どうぞ」
男はみほに助手席をすすめてから、運転席に座った。
前回は動転して何も思わなかったが、改めて観察してみると男の服装もくたびれかけたグレーの背広で、どこにでもいるサラリーマンという感じだ。努めて目立たなくしているのか？もしかして探偵というのは本当なんだろうか。
そういえば、前回、会ってすぐのときにこの男は名乗ったはずだ。なんと名乗っただろう？夫からも先方の名前は聞いてなかったし聞き流してしまった。しかし覚えていたとしてもそもそも本名かどうかはわかりやしない。
車が走り出す。車の中には二人だけだ。もう一人の若い背の高い男は今日はいないのだろうか？もしそうなら、少し気が楽だ。そう言えば若い方の男は前回も挿入まではしなかったことを思い出した。
（最初から単なるアシスタントだったのだろうか？）
彼女は運転する男の横顔をのぞき見てみる。大きく鋭い印象を与える目、長くはっきりとした尾根を描いている鼻筋、ときどき皮肉っぽくゆがむ唇...
（顔は割とわたしの好みに近いかも・・・）
と心の中で自分自身に軽口をたたいてみたが、気分は沈んだままだった。
背の高さは普通くらいか少し低め、体形も普通くらい。服を脱いだ姿はあまりはっきりとは覚えていないが、中年太りはしていなかったような気がする。年齢はいくつくらいだろう？30代前半のように若々しく見えるときもあれば50代をとっくに過ぎたように落ち着いて見えるときもある。そもそも作った表情の向こう側にあるものがまったくわからない。
（もし探偵じゃなかったとしても、普通の仕事の人じゃないのは確かね。）
反撃開始とばかりに彼女が男を観察していろいろと推測していると、おもむろに男が口を開いた。
「奥さん」
「はい」
「言っておきますが、わたしは暴力は大っ嫌いなんですよ。」
そしてしばらく間を置いた。
（わたしを強姦したくせに非暴力主義者づら？冗談がきついわ。）
彼女は、その発言の意味を探るため、横目で男の顔をのぞき見たが、相変わらず作り笑いをうっすらうかべているだけだった。そしてみほが自分の表情をのぞき見ているのを横目で確認し、話を続けた。
「でもこういう交渉では暴力をつかわないと分かってくれない女性もいるから、そのときはしょうがなく暴力に訴えるんですけど。しかし、それよりもっと大っ嫌いなのは、暴力を振るわれないとわからないバカな女性なんですけどね。」
（なんだ、結局、「オレに暴力を使わせるな」と脅したいのか。）
彼女はかるい軽蔑を覚えながら適当に「そうですか」と相づちをうった。すると男は急に声のトーンを変えてこう言った。
「大っ嫌いってどういうことを意味するかわかりますか？」
彼女はわるい予感を覚えた。
「わかりません...」
男は充分過ぎるほどの（少なくともみほにはそう感じた）間をおいたあと、こう続けた。
「いや、単に、嫌いな女としてもつまんない、自分は抱く気がしなくなるだけですよ。だから、うちのお客の相手をしてもらうことになりますが。いろいろと接待しなくちゃいけない大物もいますからねぇ。」
頭を思いっきり殴られたような気がした。そんなの絶対イヤ！と叫びたくなるのをグッとこらえた。
たぶんこの男はみほがそういうことにこの上もなく嫌悪感をいだくとわかっているから、わざわざこういうことを言うのだ。
男が横目で反応を見ているのがわかる。彼女は動揺を必死で押え込んだ。弱みはこれ以上みせたくない。
「わたしも、娼婦のまねごとをさせられちゃうのかしら。」
売春なんて死んでもイヤという気持ちは押え込んで虚勢をはる。
「それは奥さん次第ですよ。」
男はこともなげに言う。口元がちょっとゆるんだ。それを見てみほは早くも最初の敗北感を味わった。
そうしている間に車は前回とは違うラブホテルについた。
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