（１）

　出勤する夫をエレベーターの前まで見送ることは、久川真穂にとって毎朝の日課でもあった。結婚以来、もう二年近くつづけている。しかし、今朝はいつもと違った。それは、夫の出張のために普段よりはやく起床した、という意味のものではない。
　エレベーターのボタンを押しかけた夫の手が不意に止まって、腰へと巻きついてきた。
「あン、慎一さん……だめ」
　身を引こうとしたときには、もう唇を塞がれていた。
「どうしたの、急にこんな」
「一週間も会えないと思うと、なんとなく、こう……ね」
　夫の慎一は企業診断士の仕事をしている。大阪と神戸でおこなわれる講演会に彼の参加が決まったのは、つい三日前のことだった。関西に数店舗を構えるシティホテルの経営講習会だという。
「真穂は寂しくないのかい、七日間も離ればなれなんだよ」
「それはそうだけど、一度戻ってくるのでしょう？」
　講演自体は最後の二日間だけなのだが、急な仕事のため、いろいろと下準備があるのだそうだ。しかも、その合間を縫って都内のホテルで企業診断もおこなうらしい。
「資料も原稿もまだ仕上がってないからね、とても家に寄っている時間はないよ。そのまま大阪にトンボがえりだと思う」
「でも、だからってこんな」
「寂しいんだろう？　身体が、さ」
　ふたたび唇を重ねてくる。それはテレビでよく見る出勤前の若い夫婦の光景だった。ドラマと異なっているのは、男の手がエプロンの胸を掴んでいる点である。
「だめよ、こんな場所で」
　いくら早朝の六時前とはいえ、マンションの住人が起きていないという保証はどこにもなかった。
「人に見られてしまうわ」
「なら部屋に戻ろうか。ベッドの上ならいいんだね？」
「でも、電車の時間が……」
「少しくらいなら問題ないさ。それより」
　いつの間にか夫の手はスカートのなかにも潜りこんでいた。
「フフフ、これだよ、これ……ああ、真穂、たまらないよ。ねえ、この尻」
「し、慎一さん」
　アイボリー色のフレアースカートが捲られ、ロビー内の冷えた空気が直接、白い太腿に触れる。色香と瑞々しさを備えた二十七歳という女そのものの太腿である。
　だが、ピンクのパンティが張りついた尻は、女の妖艶さだけで作られたような豊かさだ。豊かなだけでなく、形もいい。その尻を慎一は甘く握った。
　マンションのエレベーター前という非常識な場所で卑猥なことをされ、真穂の長い睫毛が揺れる。夫の内部に、まさかこのような熱情が潜んでいたとは。
　仕事に対する誠実さが普段の顔つきにも滲んでいるような男である。交際中も含めると五年ほどの仲になるが、ここまで性急な求愛など一度もなかった。
　だからこそ、あからさまに拒絶することができない。不謹慎だと思う気持ちの裏側で、彼の激情を受け止めてみたいという思いもあった。好奇心があった。
　しかし、今はそれが許される状況ではない。廊下の奥から住人が姿をあらわす危険性は常にあるのだ。それが女なら、近所じゅうの笑いものになる。男なら、噂がひろまるだけではすまない。そんなのはいやだった。いやなのに、このまま行為をつづけたいという小さな希求もある。
　困惑のなかで視線を横にそらして、彼女は、慌てて身体を離した。一階で停止していたはずのエレベーターが動きはじめている。
　乱れたスカートの裾を彼女がぞんざいになおしたのと、エレベーターの扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
　コンビニの袋をかかえたホスト風の若い男が出てくる。真穂の知らない顔である。
スカートの裾のあたりに一瞬だけ視線を落として、男はふたりの横を通り過ぎていった。ムスクの香りが鼻をかすめる。
　真穂は息を呑んだ。小さな情事を男に見破られてしまったのでは、と思った。そんなふうに考えてしまうのは、彼女の心に淫の余韻が残っているからだ。廊下の奥で扉の閉まる音がする。
「せっかくだし、たまには下まで見送りにこないかい？」
　いつの間にか慎一はエレベーターに乗りこんでいた。
「ロビーの前まででいいからさ」
　ボタンを押しっぱなしにしながらそんなことを言う彼の思惑は明白だった。エレベーターという密室内で行為のつづきをするつもりなのだ。
「だめよ、慎一さん」
「そんなこと言わずにさ」
「本当に遅れちゃいますよ、電車」
「これじゃあ蛇の生殺しだよ」
「自業自得です」
　真穂は面映ゆそうに笑った。少女の面影が残った美形の持ち主だから、そういう仕草のときは二十歳前のグラビア女優と同じ顔になる。
「あと一週間、慎一さんが帰ってきてから……ね？」
　その意味がすぐにわかったから、慎一も苦笑して引きさがるしかなかった。
「ホテルに着いたら電話するよ」
　軽い接吻のあと、扉が音もなく閉じた。
エレベーターが一階に着いたのを見届け、真穂は、部屋に引きかえそうとする。エプロンのポケットのなかの携帯が鳴ったのは、そのときだった。
『愛してるよ』
　慎一からのメールだった。
　真穂はすぐに返事を送った。それから、エレベーターの扉を柔らかい目で眺めた。
　壁際にアールデコ調のソファが鎮座したロビー内は、恐ろしいくらいに静かだった。内廊下だから、マンションというよりホテルの様相に近い。彼女はエレベーターが動いていないのを確認すると、次いで左右の廊下にも視線を流した。
　人がいないのを注意深く確かめてから、右手をそっと乳房の上に乗せてみる。そこには、夫の感触が彼の声とともにまだ残っている。