（２）

　朝食の後片づけと洗濯を済ませても、時間はまだ九時前だった。一度はベッドの上で横になったものの、仮眠の習慣がないせいか、睡魔が襲ってくる気配はなかった。
リビングで三十分ほどテレビを見たあと、真穂はトイレの扉を引いた。
　ゴム手袋をつけた手でブラシを握り、便座の蓋を開ける。洗剤は使わない。毎日磨けば必要ないからだ。便座は濡れティッシュで丁寧に拭き、洗面所や浴室の水まわりもついでに掃除する。
　目の届かない場所まで磨き終えたころには、肌にうっすらと汗が浮いていた。彼女はミドルスリーブのＴシャツを腕から抜き取り、下着とともに洗濯籠に入れた。
　熱いシャワーをゆっくりと浴びて、寝室へと戻る。
　湿った黒髪をブラシで梳かし、バスタオルをスツールの上に置くと、真穂は全裸のまま箪笥の前に跪いた。乳房と尻が前後に突きだされて、色っぽい。それは、目に見えない男のペニスを口に含みたがっている女の姿勢である。
　そのような姿のまま、彼女は箪笥の引きだしを開けた。なかには色とりどりの下着が収められている。
　ＯＬ時代に比べると、色もデザインも大胆なものが増えた。布地の半分がシースルーのブラジャーもあるし、それ以上に過激なショーツまである。ガーターのついた白いスリーインワンの下着は、自発的に身につけた記憶がない。夫にせがまれ、二度ほどパジャマがわりに着ただけだった。
　真穂は淫蕩な女ではない。むしろ、淫蕩とは対極の女である。下着はすべて慎一の趣味だった。情事のさい、セクシーな下着姿の妻を眺めるのが彼の常なのだ。けれども、そのような夫をいやらしい男だとは思わない。
　こういった下着を身にすることは、彼女にとってもささやかな喜びだった。入浴やトイレのさい、ほんの一瞬でも専業主婦の束縛から逃れることができる。
　夫や今の生活に不満があるわけではない。ただ、自分が女であることを再確認したいだけなのだ。テレクラ遊びに傾注する主婦の心理と同じである。
　キャンディーの包み紙のように並んだ下着のなかから、真穂は、黒いブラとショーツを選んでベッドの上に置いた。
　壁にかけられたシャガールのリトグラフに向かって尻を突きだし、パンティを足首に通す。そのような姿勢のときでも、大きな乳房はほとんど型崩れをしない。量感のために多少は下向きになるものの、決して下品な垂れかたではない。むしろ、淫靡と紙一重の上品さがある。
　黒い下着が腿の上を滑り、腰にぴっちりと張りつく第二の皮膚となった。その部分も、乳房以上に丸々と実っている。だが、手足や胴まわりは削ったように細い。
　外見だけなら華奢に分類される肉体である。着衣姿のときは、特にその印象が強い。だからこそ、衣服を脱いだときの色香と迫力が圧倒的なのだ。白い乳房をＥカップサイズのブラジャーに収めると、真穂はドレッサーの前に立った。
　黒い下着姿の若妻が鏡のなかに映っている。
　いや、そこにいるのは専業主婦の女などではない。美しい娼婦である。もしくは、娼婦を演じる若い女王だ。少なくとも正面からの印象はそうだった。
　目元の柔らかさが特徴的な顔立ちは、今でも女子大生と間違われるほどだ。かといって幼いだけの美貌ではなく、薄化粧のときは有能な美人秘書の顔になる。肌は雪白よりも健康的な白桃色で、腰までの黒髪は染色の経験さえない。だから、少女と同じ艶がある。
　鏡に背中を向けてみると、その髪がフワリと揺れて、花の香気が甘く漂った。そして、それまでの玲瓏な色気が払拭されて、黒い猥褻さだけが肉体に残された。
　彼女が身につけているのは、Ｔバックのショーツだった。
　真穂は、濡れたため息を一度だけもらした。いやらしい、と思った。衣服の下に卑猥な女の一面を隠した若妻、恥ずべきことだと自分でも思う。
　しかし、罪悪感とは別の感情もある。その恥じらいこそ、女であることの証ではないか、とも思うのだ。また、尻にぴったりと吸いつくＴバック独特の感覚も好きだった。
　このような下着を身につけるなど、数年前までは想像もしなかった。育ちがいいだけの世間知らずな女だった彼女を、慎一が変えたのだ。すべての罪は彼にあるのだ。そして、その罪は真穂に幸福を与えてくれる。彼に愛されているという実感があった。愛情を感じているからこそ、今朝の夫の激情が頭から離れないでいる。
　鏡に映る美臀を真穂は静かな目で眺めた。
　ベッドの上以外の場所で欲情するなど、これまでの夫にはないことだった。仕事がら出張は日常茶飯事だが、長くともせいぜい二泊程度で、一週間も家を空けたことはない。その寂しさから転じた衝動としか説明のしようがなかった。
　もしも、である。もしもあのままエレベーターに乗りこんでいたら、いったいどうなっていただろうか。
　きっと尻を掴まれるだけではすまなかっただろう。愛撫以上の淫虐を受けたに違いない。衣服を下着を剥かれ、獣のポーズで背後から貫かれていたのではないか。エレベーター内で夫のペニスに溺れ、はしたないその姿を、監視カメラの向こうにいる警備員に熱視されていたのではないか。そうなることを彼女自身もひそかに望んでいたのではないか。
　股間に伸ばしそうになった手を途中で止めて、彼女は部屋を出た。
　ミネラルウォーターのボトルを片手に、下着姿のままソファに身を沈める。そうしていると、まるでフランス映画のヒロインにでもなったような気がした。リビングのカーテンを開けてみようかという衝動が一瞬だけ頭をよぎる。
　生真面目な夫が見たら眉をひそめただろうが、ひとり暮らしの女などみなそういったものだ。部屋では常に全裸という女友達だっている。
　古典文学の小説をしばらく読んでから立ちあがり、通販で購入したエクササイズのＤＶＤをプレイヤーに挿しこんだ。電話が鳴ったのはその直後のことだった。