（１３）

　晴天とも曇りともいい難い、曖昧な空模様だった。
　休日には観光客でにぎわう湾岸地区の駅前も、平日の昼間は人がまばらだ。そこから右にいくと、駅に隣接するショッピングモールの入口がある。左の陸橋をしばらく進めば、水上バスの船着き場へとつづく遊歩道に出る。
　陸橋をおりたところで久川真穂は足を止めた。
　スカートの裾が潮風に揺れる。彼女が着ているのは小花柄の青いサマーワンピースだ。シックで落ち着いた色調の服なのにばして覗きこもうとする。物音が聞こえたのはそのときだった。
　真穂は入口の横に視線を投げた。そこにはレンガ張りの壁しかない。だが、ほんの一瞬だけ見えた男の顔を彼女は見逃さなかった。宮内ではない。トイレの壁と木立に挟まれた隙間に、彼以外の誰かが身を潜めている。
　固唾を呑んだ彼女の前で、また男が頭を覗かせた。今度は目があった。十代の子供だと顔を見ただけでわかる。
　すぐにふたりの少年が姿をあらわした。恐縮した面持ちで真穂のほうへと歩み寄ってくる。どちらも同じ半袖の制服を着ている。
「あの、柿崎さんですよね」
　遠慮がちの声で旧姓を呼ばれ、真穂は目を丸くした。
「僕です、杉田です。昔、ピアノを教えてもらった杉田です」
「え、杉田って……もしかして拓海くん？」
「はい」
　彼女の知っている杉田といえば、実家の近所に住んでいるクラシック一家の杉田しかいない。
「よかった、やっぱり先生だったんだ」
「わたしこそ驚いたわ、顔立ちがぜんぜん違うんだもの」
　音大にかよっていた彼の姉とは年が近く、演奏会を兼ねたホームパーティーによく招待されたものだった。また、小学生の拓海にピアノの個人指導をしていた時期もある。
「身長だってかなり伸びたし」
「もう高校一年ですから」
　そう言う拓海がひどく緊張しているのは、真穂にもわかった。
「あのう……せ、先生がマホさんなんですか？」
　しばらくの躊躇のあと、彼は臆した口ぶりで言った。
「先生がメールの相手だったんですか？」
「え、メール？」
「出会い系サイトのことですよ」
　もうひとりの少年が口を挟んできた。拓海が童顔のせいか、やけに大人びて見える。
「そこで知りあった女の人に誘われたらしいんですよ、こいつ。エッチなことを教えてやるから、今度あわないかって。あ。俺、大木っていいます」
　拓海と真穂の顔を交互に見ながら、大木は、彼女のワンピースの胸元に二度ほど目線を落とした。
　見事なまでにさりげない盗み見である。真穂は、腕を組むふりを装って身体を隠した。
「俺はやめとけって言ったんですけどね」
「嘘つけ。勝手についてきたのは大木じゃないか」
「別に、俺は……」
「マホさん、メールで僕に言ったんです。裸を見せてあげる、なんでも僕の好きにしていいって。写真だって」
　拓海は携帯電話を取りだした。頼んでもいないのに画像を見せてくる。
　ビルの非常口とおぼしき薄明かりの下に、全裸の女が立っている。卑猥という言葉を曲線だけであらわしたような、見事な裸身だった。肌の陰影が浮き彫りとなっているためか、それとも黒い首輪のせいか、単なる裸よりもよっぽどエロティックに見える。
　高い乳房や股間の茂みを隠そうともせず、女の手は、背中の後ろにまわされている。が、見せびらかしているわけではない。そのことが真穂にはすぐにわかった。手錠をかけられ、肌を隠したくても隠せない状況なのだ。
　真穂は絶句した。首から上の画像は切れているものの、これは間違いなく彼女自身の裸身だった。
　若妻の動揺など少しも気づかず、拓海は携帯をポケットに戻して、彼女を見た。その目には、顔見知りのこの女性が写真の女かもしれない、という期待と不安が強く浮かんでいる。
「先生がマホさんなんですか？」
　弱腰な口調ではあるが、詰問だった。
「先生なんですか？」
　真穂は言葉に窮した。答えられるはずがなかった。真実を告げれば、自分が屋外で全裸をさらすような女であると認めることになる。
　彼女のこのような写真を所持している人間といえば、思い当たる男などひとりしかいない。宮内である。あの男が彼女の名前を使い、拓海を呼びつけたのに違いなかった。しかし、なぜそんな真似をしたのか。
　辱めが目的なら自分で手をくだせばいいはずだ、なぜ第三者を利用したのか。
「……あのね、わたしもここで待ちあわせなの。拓海くんじゃなく、別の人と」
　苦しい言いわけだと自分でも思ったが、事実であることに変わりはなかった。
「だからね、人違いなの」
「じゃあ、その人はどこにいるんです？」
　そう言ったのは大木だった。あからさまな疑念が口調に滲んでいる。
「ここには俺ら以外に誰もいませんよ」
「それは……場所を間違えちゃったみたいなのよ」
　少年たちに濁りのない目で見られるのがつらくて、真穂は、顔をそむけて遊歩道のほうを見た。
「たぶん降りる駅が違ってたんだと思うの。だから……」
　不意に彼女は言葉を切った。これ以上何かを言っても状況が悪化するだけのように思えた。
　写真が拓海の手にある以上、適当な言いわけを見つけてこの場から立ち去ることはできない。彼が男友達に写真を見せびらかす可能性があるからだ。いや、すでに流布しているのかもしれない。現に、この友人だって知っているのだ。
　放っておけば宮内との関係まで露見する危険がある。そうなる前に策を講じる必要があった。拓海に釘をさしておく必要があった。が、そのためには写真の女が自分であると認めなくてはならない。
「拓海くん、その写真……」
　沈黙がいやで口を開くが、次につづく言葉など見つからない。
「やっぱりお姉さんなんですね、杉田のメールの相手」
　真穂の全身を眺めながら大木は言った。さっきまでと違い、視線に遠慮がない。拓海もまた、恐るおそるといった感じに胸元を窃視している。
　ふたりの少年が何を考えているのか、真穂には手に取るようにわかった。女の裸を見たがっているのだ。見るだけじゃなく、それ以上のことまでしたがっているのだ。宮内と同じ熱情が彼らの目に渦巻いている。
　けれども、彼らを叱咤しようとする気にはなれない。同じ熱情でも、彼らのそれは宮内とは異なるものだった。この年頃の少年特有のひたむきさがあった。期待の奥に見え隠れする不安があった。
　女の肉体という未知の領域を前にして、緊張しているのだ。そのことがわかったから、痛いくらいに感じたから、真穂は、心を揺らめかせずにはいられなかった。子供の彼らにそんな顔で見つめられては、何かをしてあげたい気持ちになってしまう。
　だめよ、ばかなことを考えちゃあだめ。だけど……でも……。
　俯きがちの真穂の頬が赤らんだ。何かとは、いやらしい行為だ。性交漬けの日々を強いられたこの身体が、理性とは別の部分でそれを求めている。また、年下の男を性的なことで困らせてみたいという好奇心もあった。
　以前の彼女ならそんな発想など思いもしなかっただろう。百歩譲ったとしても、妄想だけで終わらせていたに違いない。普通はそうだった。けれども、今の真穂にその言葉は当てはまらない。夫以外の男と密通するためにノーパンで外出する女を普通とは呼ばない。
　潮風に揺れる髪を手で押さえながら、真穂は小さく息を呑んだ。
　いいのかもしれない、少しくらいなら罪に溺れてもいいかもしれない。いや、甘く愚かな罪に溺れてみたかった。そんな衝動の裏側には、宮内に対するあてつけの気持ちも少なからず働いている。
　とにかく写真をどうにかしなくちゃ。そうよ、これは仕方のないことなのよ……。
　それが単なる口実にすぎないことは、彼女自身がよく理解している。淫裂だって、しとどに濡れはじめている。
「ねえ拓海くん、ちょっとお話があるんだけど」
　女の胸元から慌てて視線を剥がして、拓海は顔を起こした。さまざまな感情の紛擾した顔である。
　大きな乳房の奥にある真穂の心がときめいた。そんなふうに狼狽する少年が可愛らしいと思った。
　そして、彼の緊張の理由は自分にあるのだ。
　ならば、もっと緊張させてやりたい。彼の困窮から性熱を汲み取ってみたい。
「ここじゃあ目立つから……」
　赤い唇から意味深な声を告げて、真穂はトイレのなかへと歩んだ。気持ちはすでに淫らな方向になびきかけている。そんなことばかり考えているから、自分が男性用トイレに入ったことさえ気づいていない。
　ふたりの少年は顔を見あわせると、満面の笑みを浮かべて彼女の背中を追った。