（３）

　クローゼットルームの扉に手を伸ばそうとした矢先、来訪者を告げるブザー音が鳴った。宮内照彦だとすぐにわかった。電話を切ってまだ五分と過ぎていない。
　真穂は下着姿のままリビングに戻った。
「こんにちは、奥さん。宮内です」
　映像は一方通行だというのに、横から首だけを伸ばしてドアモニターの画面を確認する。ブラジャーの胸も片手で隠す。
「お久しぶりです、宮内さん」
「お昼時の忙しい時間に、申しわけないです」
「そんな、気になさらないでください」
「お部屋は十八階でしたよね」
「ええ、お待ちしてますわ」
　ビル入口の二重オートロックを解除して、クローゼットルームへと引きかえす。
　収納ケースをしばらく物色したあと、彼女は、藤色のノースリーブを手に取った。同じ色のスカートも選び、見事な裸体に身につける。
　張りのある高い乳房であるから、襟ぐりの浅い衣服のときでも胸元が目立ってしまう。乳房の形状が見えてしまい、かえって卑猥な感じがするのだ。大きめのブラウスでも、夏物のジャケットでも、胸部は突出する。そんな胸だから、襟の開いた服を着たときなどは深い谷間がくっきりとあらわになる。
　彼女は藤色にあうカーディガンを探そうとするが、それより先に、今度は玄関のチャイムが鳴った。仕方なく真穂はノースリーブ姿のまま部屋を出た。
　手櫛で髪を整えてから玄関の扉を開ける。
「お久しぶりです、奥さん。結婚式以来ですかね」
「宮内さんこそ、お元気そうで何よりですわ」
「いえいえ、相変わらずのその日暮らしですよ。慎一くんに比べたら、ぜんぜんです」
　三十五歳の夫よりも二つか三つ年上のこの男とは、結婚式の二次会で少しばかり話をした記憶があった。慎一の大学時代の先輩で、確か、フリーのジャーナリストだと夫に聞いたことがある。
「これ、お約束のものです」
　真穂は茶封筒を受け取った。中身は輸入家具製品のパンフレットである。
　半月ほど前、ソファの買い替えを夫に相談したのだが、その話を慎一から聞いて、彼が協力を買って出てくれたのだそうだ。
『僕、そっち関係には顔がきくから。前に輸入関係の仕事をしていて、そのときデザイナーズ系の家具も扱ってたんですよ。すぐにカタログを慎一くんに渡そうと思ったのですが、仕事が忙しいみたいで、奥さんに直接渡してほしいと頼まれまして』
　宮内はそう電話で告げたのだった。
「仕事で近所まできたものですから、ついでにと思いましてね」
「わざわざすみません」
「慎一くんは出張だそうですね、知りませんでしたよ」
「ええ、今週になって急に決まったもので」
「それは、本当に急ですね」
　真穂は緊張した。宮内が話をしたがっているのはなんとなくわかった。
「こんな場所ではなんですから、なかでお茶でも」
　他人の男を部屋にあげるのは、少しばかりの不安もある。かといって、玄関先の立ち話で終わらせるわけにもいかない。慎一の顔に泥を塗りたくはなかった。
真穂は、宮内がやんわりと断ってくれることを期待した。だが、彼は遠慮しなかった。若い人妻しかいない部屋に靴を脱いであがりこんでくる。彼女はリビングに男を通してから台所へと歩んだ。
「いい部屋ですね」
　ダージリンを注いだカップをテーブルに置き、男の斜め向かいに座る。
「慎一くんはやっぱりすごいや。学生のころから優秀な男だとは思っていたが、まさか、これほどはやく出世するとは」
「夫が聞いたら喜びますわ」
「経営コンサルタントの仕事はわかりませんが、あの若さで講演会の依頼ってのは、相当すごいことなのでしょう？」
「でも、今回は臨時の代役だそうですから」
「実力がなければ声すらかかりませんよ。それに、こんな部屋にだって住めない」
　宮内の視線を追って窓のほうを見た。閉ざしていたはずのカーテンが開いている。
「お台場のほうまで一望できますね」
「この景色で選んだような部屋ですから」
「いい家にいい眺め、おまけに美人の奥さんまで独占とは、羨ましい限りだ」
「そんな、からかわないでください」
　宮内は目を細めた。紅茶に口をつける気配もない。
「夜はもっと綺麗なんでしょうね」
「ええ、東京タワーも見えるんですよ」
「いや、そうじゃなくて」
　何かの目論みを達成したような顔つきで彼は言った。
「景色じゃなく、奥さんのことですよ」
　真穂は男の顔に目を戻した。ふたりの視線が重なる。いや、宮内が見ているのはもっと下のほうだった。
　藤色のフレアースカートに彼の視線は注がれている。そのときになって、真穂は自分がどんな恰好でいるのかはじめて理解した。
　あまりに突然の来客のため、つい、手近にあった室内用のミニスカートを身につけていたのだ。しかも、思っていた以上に裾が短い。手に取ったときはもう少し長めかと思ったが、実際には太腿の半分も隠れてはいなかった。
　鏡で確認する暇すらなかったので、今の今まで気づかなかったが、どう見ても来訪者を迎える人妻の姿ではない。これは男の性欲を知らない少女の服装である。
「慎一くんが羨ましいですよ、本当に」
　腿の上に両手を添えても、宮内の目線はスカートの上から離れなかった。
　真穂は躊躇した。このままスカートの前を隠しつづけていいものだろうか、という迷いがあった。
　隠すこと自体がすでに無礼なことのように思えた。見ないでくださいと無言で非難しているようなものだった。
　しかし、それを承知で熱視をつづける男こそ無礼ではないのか、とも思うのだ。若妻の顔立ちに薔薇色の恥熱がさした。
「そのソファではめられたことはあるのかい、奥さん」
　その言葉を彼が口にしたとたん、アイボリー色で統一された室内の空気が一変した。宮内は静かに立ちあがった。
「旦那とソファの上でヤッたことはあるのか、と聞いてるんです」
「え、あの……宮内さん、何」
「こういうことですよ」
　宮内が一歩だけ近寄ってくる。それだけで、男の顔がすぐ頭上に迫った。お世辞にも二枚目とはいえない顔である。
　真穂は上半身だけで横へと逃げた。テーブルの狭い隙間に宮内がいるから、立ちあがることもできない。だから、自然と三人掛けのソファに横たわっていく形になる。
　声をだそうとした矢先、宮内がすばやい動作で腰にまたがってきた。男の重みで、尻と背中がソファに沈んだ。
「毎日のようにここでバコバコしてるのでしょう？　だから買い替えが必要なんだ」
「やめてッ」
「やめられるわけないでしょうが」
　衣服の上から乳房を掴まれる。真穂は両手を振り乱して暴れた。その手を宮内が払いのけ、また乳房に爪をたてる。真穂もすぐに腕を伸ばしかえした。
「邪魔な手だな」
　宮内がズボンのポケットから取りだしたものを目にして、真穂は息を呑んだ。黒い手錠だった。
「単なる玩具だが、こういうときは役にたつものでね」
　暴れる左手が宮内に捕縛される。次の瞬間には、冷たい手錠がもう手首にかけられていた。真穂の口から裏返った悲鳴がこぼれる。
「いや、こんなのいやあッ」
　いったんテーブルの横に退いた男の横で、真穂は、暴れながらさらに二度ほど「いや」と叫び、次いで「ひいッ、ひいッ」と嗚咽混じりの呻きをもらした。まるで、すでに強姦されたような狂乱である。それほどの恐怖があった。もっとも安全なはずの自宅内で他人の男に手錠をかけられたことが恐ろしかった。
　これが単なる悪戯でないことは明らかだった。出来心の悪戯なら、わざわざ手錠なんて準備してくるわけがない。悪戯の域を超えた行為をこの男はするつもりなのだ。
　真穂は身体を起こして逃げようとする。だが、逃げられない。手錠に繋がれた手首が痛むだけだった。その腕が、身体ごと宮内に引き寄せられた。
「い、痛い」
　肘の関節を無理に捻られたため、自然と身体が逆向きになった。男に背中を預ける形である。そのまま肩を強く押されて、真穂は、ソファーの上にうつ伏せに倒れた。
　宮内の手が、手錠のかかっていない右の手首を掴みあげる。
「久川のやつにはもったいないよ、あんたは」
「だめ、離してェ」
「奥さんを俺の女にしてやる」
　背中の後ろでカチャリ、と音がして、金属の輪がはめられた。その瞬間、若妻にとって親しみ慣れた愛の巣は、彼女の知らない牢獄となった。