（７）

　瞼を開くと、そこにも闇があった。
　まだ夢のなかにいるのかと思ったが、そうではない。黒いかすみの奥に部屋の天井が見える。久川真穂は顔面をバラバラに覆った黒髪を指で払うと、目線だけを窓の外に流した。
　いつの間にか景色が闇に溶けている。窓には雨粒が付着している。
　寝室に宮内の姿はない。けれども強い淫臭が室内に満ちているから、たぶんこの部屋でも犯されたのだろう。彼女が横たわっているベッドのシーツにも乱れたしわが無数にある。
　リビングの窓に両手をつき、地上十八階の景観の前で屈辱の挿入を強いられたあたりまでは覚えている。だが、そこから先の記憶が薄かった。股間がまだ濡れているということは、もしかしたら、つい今しがたまで貫かれていたのかもしれない。あるいは、卒倒してもなお愛液の漏出が止まらないほどの交接を重ねたというのか。
　真穂は途中で考えるのをやめて、重い身体を起こした。そのとき、視界の隅で何かが揺れた。黒いロープのようなものが首から垂れている。
　手錠のかかっていない右手で首筋に触れてみると、そこにも革とも金属とも取れるような感触があった。彼女はドレッサーの鏡に目を向けた。
　な、なんなの、これ……。
　絶句するしかなかった。首輪である。黒い首輪を巻かれた全裸の女が鏡に映っている。
　記憶の断片が、ジグソーパズルのように心によみがえった。
「夜までに戻る。つづきはそれからだ。たっぷりと調教して、奥さんを俺好みの女にしてやる」
　ひとりで勝手にシャワーを使ったあと、宮内はそう言い残して部屋をあとにしたのだ。ドレッサーの上に置いてあった部屋の鍵も消えている。
　すぐに真穂は首輪に手をかけた。だが、首の裏側に南京錠がかけられていて、どうやっても外すことができない。首輪のリードは金属のフックでベッドの脚に繋がれているが、こちらも鉄錠で固定されている。
　ベッドを持ちあげれば脱出できるが、女の細腕ではとうてい不可能なことだった。すぐになす術を失い、真穂は美顔ごとシーツに突っ伏した。
　狭い肩が小刻みに震える。いっそ溶けてしまいたい、と思った。他人の男に乱暴された上、次の陵辱を待つしかないこの状況こそ地獄そのものだった。だが何よりつらいのは、陵辱のなかで性熱を発露したことである。
　卑猥な夢ならいつかはさめるが、現実の悪夢は決して払拭されることはない。しかも、現在進行形の悪夢である。自分を辱めた男がまた部屋に戻ってくる。戻ってきたら、また犯される。今度こそ本当に狂ってしまうかもしれない、恐怖ではなく性感のために狂い死んでしまうかもしれない。
　真穂は頭を左右に振った。何度も振った。そうしたところで過去も未来も好転するわけがない。大きな乳房が揺れるだけだった。
男の指舌の感覚がまだ裸身のあちこちに残っている気がする。股間や太腿には乾いた精液が張りついている。が、リードで繋がれた身ではバスルームへ向かうことも不可能だった。新しい下着を身にすることも、窓のカーテンを閉ざすこともできない。
　彼女にあるのは半径一メートルの自由だけだった。かといって、声をあげて泣きじゃくる気分にもなれない。
　ようやく真穂は顔を起こした。目が真っ赤に充血している。
　頬に張りついた黒髪を払おうとしたさい、鏡に映る裸身が偶然に目に入った。
　みじめな姿だった。まるで犬のようだと自分でも思う。性的奉仕を義務づけられた人間の牝犬である。
　宮内の口にした調教という言葉がいやでも頭に浮かんだ。
　真穂とてうぶな子供ではない。彼の目的はある程度、把握できている。淫らな行為で女を盲従させるつもりなのだろう。
　しかし、具体的に何をされるのかというと、まったく想像がつかない。昼間と同じように、さまざまな恰好で挿入するつもりだろうか。もしそうなら、最後まで理性を保っていられるだろうか。無理である。拒めないことは、すでに彼女の肉体が実証している。
　不意にベッドの横で音がして、真穂は肩をすくませた。
　人気女性シンガーの歌声はサイドテーブルの上から聞こえている。彼女の手の届く範囲内である。最初は何かの間違いかと思った。宮内が見落としていったとしか説明のしようがなかった。
　真穂は携帯電話を手に取った。画面も見ずにボタンを押して、耳に当てる。
「もしもし」
　慎一の声だった。
「ごめん、ホテルの外で食事しててね。今、部屋に戻ったところなんだ」
　すぐには言葉が出てこなかった。聞き慣れた声がひどくなつかしいものに思えた。
「真穂、どうしたんだい？」
「あ。ううん、別になんでもないの」
「そんなわけないだろ、涙声じゃないか」
「映画をね、見てたから」
「ああ、なるほど」
　受話器の向こうで慎一は笑った。自分の妻が全裸に首輪だけの姿でいるなど少しも考えていない声である。
「またビリー・ワイルダーでも借りてきたんだろう？　好きだもんなあ、真穂」
「え、ええ」
「そっちはどう、何か変わったことは？」
「……ううん。特には、何も」
　寂しさがそうさせるのか、慎一はいつになく饒舌だった。
　真穂は熱心に耳を傾けた。だが、話の内容は半分も頭に入っていない。電話を切ったら二度と主人の声を聞けなくなるような気がしていた。
「それじゃあ、また明日連絡するよ」
「ま、待って！」
　咄嗟にそう叫んだ彼女の指は、全裸の股間に押しつけられていた。
「どうしたんだい？」
　濡れた淫裂を擦っているのは彼女の指ではない、受話器から聞こえてくる夫の指である。目を閉じると、それが鮮明に感じられた。
　だから電話を切りたくなかった。彼の声を聞きながら、彼に優しく苛めてほしかった。愛する男の指で暴虐の事実を忘れさせてほしい。
「もう少しお話しちゃ、だめ？」
「もちろんかまわないさ」
　真穂はベッドの端に座りなおすと、携帯を左手に持ちかえた。そうして今度は右手を淫裂にあてがい、床に投げだした足を左右にひろげた。
　彼女に自慰の経験などない。中学生のときに好奇心から触れたことはあるが、それも下着の上からの軽い接触だけだった。
　だが、今の彼女は幼いだけの少女ではない、匂いたつ肉体を持つ女である。さらに加えるなら、人並み以上に感じやすい肉体である。粘膜を擦る指先に、はやくも愛欲の液がまとわりついてきた。
「真穂、もしかして風邪でもひいた？」
「え」
「やっぱり声の調子がおかしいよ」
　かすれた声音になっているのは、大股開きの恰好で膣口に指を挿しこんだからだ。夫には見せられないその姿が鏡に映っているからだ。
「今夜ははやめに休んだほうがいいね」
「え、ええ。そうしますわ」
　真穂は悲しくなった。その悲しみにはさまざまな理由がある。夫に隠れて淫らなことをしているのがつらい。強姦の事実を告げられないのがつらい。何より悲しいのは、夫の声を聞きながら不完全燃焼の性熱に身を投じていることだ。
　濡れた淫裂を指でほじくるのは、気持ちがよかった。だが、それは男女の繋がりから生じた深い快感ではない。火を通しただけの薄肉のようなものだった。ぬくもりという名のスパイスもなければ、美味なソースにかわる愛のささやきもない。慎一が口にすることといえば、仕事や映画の話題ばかりだ。
　彼女がほしいのはそんなものじゃない。肉体の強い密接である。慎一の匂いと体温に包まれながら、「いい」という言葉を彼に聞かせたかった。それが無理なら、せめてペニスの挿入がほしい。不可能だとわかっているから、よけいに物足りなさもつのる。
　真穂は淫裂から指を抜いた。中途半端な希望の先にあるのは、より深い失意だけだった。そしてベッドの上に戻ろうとしたとき、何か硬いものが指に当たった。
　宮内の持参してきた淫具が枕元に落ちている。これまで少しも気づかなかった。
　真穂は、ほとんど反射的にそれを手に取った。雑誌で目にしたことのある玩具である。直接触れるのはこれがはじめてだが、形状を見れば用途など一目瞭然だった。
　シリコン素材の肉筒は、見た目ほど硬質ではない。だから彼女は、ほとんどためらいもなくバイブの先端を膣口にあてがった。涎を塗りつける必要などなかった。淫裂はすでに熱泥と化している。
　ＳＷＯＴ分析について熱っぽく話す夫の声を聞きながら、握る手に力をこめた。最初は壁のような抵抗があったが、それをすぎるとあっさりと入った。自分でも驚くほどだった。
「ンンゥ……」
　きしんだ声が自然とこぼれる。指ともペニスとも異なる挿入感だった。
「真穂？」
「あの……な、なんでもないの。今……ッあ、あはン」
「どうした、何かあったのか？」
　言いわけを口にする余裕などなかった。押しこんださい、バイブの電動スイッチを偶然に押してしまっていた。
「やっぱり様子がおかしいよ、本当に大丈夫なのか」
「……ご、ごめんなさい、誰かきたみたいなの」
「こんな時間に？」
「え、ええ。たぶん内田さんの奥さん……」
　隣人の中年主婦の名前が咄嗟にこぼれた。
「昼間、少しお話したの。お惣菜を作りすぎたから、少しわけてくれるって」
　真穂は、言葉を口にするのもつらくなっている。白い背中もすでにのけぞりはじめている。
「また明日電話しますね。ええ、大丈夫。ほ、本当になんでもないから……それじゃあ」
　冷静を装った声で告げて、まだ何かを言いたがっている慎一にかまわず電話を切った。それとほぼ同時に左右の太腿がブルブルッと震え、次の瞬間、
「ッオ、オアアアーゥ」
　さんざんに抑制した感情が爆発した声だった。
「あァンッ、な、何これ……や、いやいやッ、強い……強すぎるゥ」
　後ろへ倒れそうな身体をシーツに片手をついて支えながら、真穂の背中がまたのけぞる。ベッドの外にせりだした尻が予測不能の揺れかたをする。
　なんと、なんとすさまじいバイブの衝撃だろうか。女に対する配慮やいたわりなど微塵もない。そのくせ、ほんのこれっぽっちの痛みもないのだ。あるのは快感だけだった。しかも、とびきり高純度の膣性感である。意志も熱情も持たない人工の勃起が、うねりと回転を伴って膣のなかで動いている。
　恐ろしい。このような快楽が現実として存在するのが恐ろしい。こんなにも感じてしまう自分の身体が、怖くて仕方ない。
　そこまで恐ろしいのならスイッチを切ればすむ話なのだが、それも不可能だった。あまりに桁外れな刺激のために、指すらまともに動かせないのだ。
　いや、違う。そんなのは言いわけにすぎない。スイッチを切ったり抜いたりしないのは、すべて彼女自身の意志だった。女を狂わせる機能だけを備えたこの玩具が好きなのだ。たまらなくいいのだ。たまらないから、真穂は膣のさらに奥へとバイブをねじこんだ。
「はンッ、あン、だめだめェ……イッちゃう」
　近所でも評判の美人妻の口から、ついにその猥語がこぼれた。一度口にしてしまうと、もう抑制などきかなかった。
「ああン、ッイ……イクゥ……だめ、イクイク！　イグウウウゥ！」
　あらゆる男が喜びそうな淫声を発しながら、真穂は、白いシーツを片手で鷲掴みにした。金と銀のノイズ画面が焼きついた眼球が裏返り、首輪姿の裸身がシーツの上に崩れる。
　意識が深い闇へと吸いこまれる。ベッドの外に投げだした足が一度だけ揺れたかと思うと、それきりピクリとも動かなくなった。
　蚊の羽音に似た耳障りな音がして、真穂はやっと身体を起こした。
　まだうつろな目線をベッドの下に向ける。黒いバイブが振動音を発しながら床の上で暴れている。まるで、狭い場所に潜りたがっている虫のようだ。
　かなり昏倒していたのか、性熱はだいぶ引いている。少し肌寒いくらいだ。けれども蠢く淫具を目にしたとたん、新たな快美の火種が身体の奥でともりはじめていた。
　もう一度だけ入れてみようかという衝動を押し殺しながら、真穂はベッドからおりた。四つん這いの姿で手を伸ばし、バイブのスイッチを切る。視界の隅に映る人影に気づいたのは、そのときだった。
　開きっぱなしの扉の奥に男が立っている。真穂にとって忘れられない顔である。
　宮内は、声もたてずに唇の形だけで笑った。