（９）

　マンションの内廊下は思いのほか明るかった。
「宮内さん、いったいどこへいく気ですか」
　リビングで見た時計の針は十時をすぎていた。すでに深夜といっていい時間帯である。住人とすれ違う可能性は薄いが、まったく危険がないというわけでもない。逆にいえば、どの部屋にも人がいるということだった。
「ねえ、ちゃんと答えて」
　点々とともる照明の下で真穂は足を止めた。
「お願いですから部屋に戻ってください」
「今すぐ部屋ではめてほしい、ってわけか？」
「そうじゃなくて……こんな姿、もし人に見られたら」
　噂になるのを恐れているわけではない、他人にコートの下の全裸を看破されるのが怖かった。
「宮内さんだって困るはずです」
「困るって、何が？」
「だって、人に知られたら」
「ああ、そうか。確かここはペット禁止だったな」
「ペットだなんて……」
　憤りを口にだそうとして、不意に真穂は言葉を呑みこんだ。背筋に落雷が落ちた。廊下の奥から足音が近づいてきている。
　慌てて男の影に隠れようとするが、宮内はそれを許さなかった。掴んだ尻ごと前に押しだされる。
　すぐに若い娘が廊下の角から姿をあらわした。見覚えのある顔である。確か、同じ階に住む女子高生だ。
　丸い目で一瞬だけ真穂を凝視してから、少女は、視線を斜めに落とした。たぶんアルバイトか塾の帰りだろう、私服ではなくブラウスの制服を着ている。前髪のヘアピンと白い額が特徴的な彼女の顔には、平静さを装った緊張があった。
　その理由は真穂にもわかった。彼女自身の服装である。一見すると単なるレインコート姿だが、少し観察すれば、すぐに違和感が浮上してくるはずだった。女物の服とは明らかに違うし、歩く動作もぎこちない。
　何より、コートの袖に腕を通していないのが不自然だった。肩に羽織るだけなら、わざわざボタンをとめる必要などないのである。
　真穂は逡巡した。へたに立ち止まれば怪訝に思われることになる。宮内の顔を覗うこともできない。
　結局は俯きながら前に歩むしかなかった。無実の罪で刑事に連行される容疑者の心境である。いや、罪なら持っている。淫らという名の重罪を彼女はコートの下に隠している。
　ふたりの横を少女が通過した。
　真穂は、全身の毛穴から汗が噴きだしてくるのを感じた。襟を閉ざしているから、首輪を見られる心配はない。しかし、背中に垂れる黒いリードは隠しようがなかった。
　少女が偶然に振りかえるだけで、それを容易に発見できるのだ。愛玩動物のように扱われる女の姿を見られてしまうのだ。かといって、背後を見て少女の動向を確かめる勇気など真穂にはない。
　強い緊張は廊下の角を曲がるまでつづいた。エレベーターの前に人の姿はなかった。
ただいま、と告げる少女の声が通路の奥から聞こえてきた。それから扉の閉まる音。真穂はその場にしゃがみこんだ。
「もう、いやです……こんなの」
　息が詰まって言葉にならない。
「お願いです、はやく部屋に戻ってください」
「用事がすんだらすぐに戻るさ」
「わたしは今すぐ戻りたいんです」
「わがままを言うな」
　宮内に腕を引かれてフロアの奥へと進んだ。そこはＬ字型に折れた通路の突き当たりだった。てっきりエレベーターに乗るものとばかり考えていた。
「こんなところで、何を……」
　非常用の内階段へとつづく扉の前まで引かれたところで、真穂は出かかった言葉を呑みこんだ。エレベーターの裏側にあたるこの場所は、フロアからは死角となっている。
　人目を避けて何かをするには、ここは恰好の空間だった。それを裏づけるように、宮内の手が伸びてきた。
「何をすると思う？」
「い、いやらしいことはやめてください」
「期待してるからそんな言葉が出てくるんだろう？」
　コートのボタンがひとつずつ外される。
「奥さんの期待通りのことをしてやるよ」
「あ、だめ」
　抗う間もなく、厚手のレインコートが身体から奪われた。内側に衣服や下着はない。だが全裸というわけでもない。首輪に手錠という全裸以上に淫靡で無防備な姿である。
　すぐに宮内の手が乳房を掴んだ。そのまま身体を強く押される。尻と腕が扉にぶつかった。
「いやです、こ、こんなの……こんな場所で」
「なら、さっさと用事をすませることだ」
「え」
「忘れたのか？　部屋を出るとき自分がなんて言ったのか」
　乳首を指で押し潰してから、宮内はリードを手放して数歩ほど後ろにさがった。床に置いた鞄を開ける。
「そのままじっとしてるんだ、動くんじゃないぞ」
　扉から背中を浮かせようとした矢先、真穂のなかに新たな緊張が走った。宮内が、ビデオカメラのレンズを向けてきている。
「だめ、と、撮らないでッ」
「動くなと言ったはずだ」
　厳しい口調で制されては、反論も反抗もできない。いくら人目に触れにくい場所とはいえ、大声をだせば住人に気づかれる可能性がある。
「ほうれ。ばっちり撮影してやるから、奥さんもやるべきことをやれ」
「ですから、いったい何を……」
「小便がしたいと言ったのは奥さんだろう？」
「なら、お手洗いにつれていってください」
「ここでするんだよ」
　真穂は自分の耳を疑った。
「そのまま立ちションするんだよ、それがいやなら犬のポーズだ。ペットの奥さんにはそっちのほうがお似合いだからなあ」
「宮内さん。あなた、何を考えているの？」
「奥さんを俺好みの女に調教することさ」
「そんなこと……」
　カメラレンズに裸身を注視されながら、真穂は、それ以上の言葉を失った。
　ある程度の辱めは予想していたし、犯されるのだという覚悟もあった。しかし、この窮地はまったく予期せぬものだった。そんなことをして、いったい何が楽しいというのか。
　性交が目的ならば部屋の外につれだす必要はないはずだった。リスクをかかえているのは宮内だって同じだからだ。事実、女子高生に目撃されているのである。彼女が両親に流言しないという保障はどこにもなかった。
　それとも、犯罪が露見する危険は承知の上だとでもいうのか。そうまでして女を辱めたいというのか。単に彼女を貶めたいだけなのか。
　わからない。真穂にとっては、何もかもが理解不能なことだった。唯一わかっているのは、この状況が絶体絶命だということである。
　わたし、いったいどうすればいいの……。
　非常灯の緑に照らされた裸身が震える。白い尻が色っぽく揺れる。いったん意識してしまうと、尿意もより切迫したものになった。
「ああッ……ねえ、宮内さん。お、お願いですからお手洗いに……」
　宮内は何も答えない。カメラレンズの奥で冷淡な笑みを浮かべるばかりだ。
　肩で浅い呼吸を繰りかえしながら、真穂は、怨嗟の目を男に向けた。そうしながら、自分自身に与えるための言いわけを彼女は考えた。
　このまま悪戯に時間を費やしたところで、事態が好転するわけもない。住人の目に裸身を触れさせる危険が増すだけだった。それはもっとも避けねばならない事態である。もし見られたら、強姦の事実が明るみになる。慎一との関係も崩壊する。
　ならば、いっそ屈してしまおうか。このままオシッコをしてしまおうか。迫りくる恐怖と尿意が彼女を弱気にさせた。
「はやくしないと人がくるぞ」
「だめ、やっぱり無理です……で、できないッ」
　言葉とは裏腹に身体が動いた。左右の足を開き、放尿のための姿勢を無意識に作ってしまう。少しでも腰を屈めようとすると、宮内に厳しい口調で叱咤された。
　チョロチョロッ、と雫が落ちた。
「あ、やだ……だめッ」
　狼狽の声から一瞬ほど遅れて、湧き出る清水に似た漏出がはじまった。高級マンションの一角に不釣りあいな水音がジョボジョボと響く。コンクリートの床だから、便所での放水よりも重く乾いた音である。
　ああン、嘘よ……こんなの嘘……。
　真穂は、自分にしか聞こえないような声で喘いだ。何十何百という男たちの視線にさらされているような気がする。視姦特有の痛みがある。それは決して錯覚などではない。黒いカメラレンズが、暗がりの壁が、非常灯の光が、彼女をあざ笑う無数の目だった。
　宮内はまばたきすら忘れて魅入った。
　自ら命じたことだというのに、彼自身が驚愕のなかにいた。裸で粗相をする久川真穂のあまりの美しさ、あまりの卑猥美に、魅惑を通り越して恐ろしさすら覚えた。
　小便小僧ならぬ小便妻として、このまま公園の噴水に飾ってやりたいと本気で思った。真昼の衆人環視下で失禁の恥辱を与えてみたかった。いや、どうせ苛めるのならＳＭプレイのほうがいい。縄で縛りあげ、尻を打ちのめし、隷属から生じる性感を味わわせるのだ。この女には、間違いなくその素質がある。声にならない声で「だめ、見ないで」とつぶやく彼女の顔には、放尿時の緩みとは別の恍惚が確かにあった。
　それとも、バイブを挿入させたまま街へつれだしてみようか。そんなことを考えた矢先、長い尿噴出がようやく終わった。
「たっぷりと出たな」
　残尿の雫が落ちる股間に宮内の手が伸びてきた。床に垂れたリードの端が尿水で濡れている。ミュールの素足にも飛沫がかかっている。
　太い指で膣口を貫かれ、濡れた粘膜をかきまわされる。
　真穂は、自分の肉体から漏出した水溜りの上で腰を揺すった。意識はいまだ恥熱の渦のなかにあった。膣いじりの性感も、口からこぼれる吐息も、すべてが他人ごとのように感じられる。
「今すぐはめてやろうか、ここで犯してやろうか？」
　耳元でささやかれ、ようやく首を重たげに振った。
「部屋に帰らせて」
　言いたいことは山ほどあるのに、それ以外の言葉が見つからない。
「こんなのはいやです、もういやなの。……お願い、はやく部屋に帰らせて」
「部屋に帰っていいことがしたいんだな？」
　わずかな躊躇のあと、真穂は小さく頷いた。彼女にとってのいいこととは、一刻もはやくこの場から立ち去ることだ。それに、どうせ辱めを受けるのなら気持ちのいいほうがいい。汚辱や視線ではなく、ペニスで殺されたい……。
　そんな誘惑を頭にめぐらせたときには、もう男の胸に裸身を押しつけていた。ギリギリのところで繋ぎ止めていた理性の糸が、プツン、と断ち切れた瞬間だった。
「して、ください」
　取り乱した少女の顔で真穂は口を開いた。
「……いいこと、してください。部屋でわたしを抱いてください。なんでもおっしゃる通りにします、全部宮内さんの好きにしていいの。だから、ねえ、もう苛めないで。こんなことはもうしないで。はやく部屋に戻ってわたしを犯してッ」