アルバイトの帰りにスーパーに寄り、買い物をして家に着くと五時に近かった。 壁にかかる時計を気にしながら、買って来た物を急いで冷蔵庫や棚へ納める。 （もうこんな時間……） シャワーを浴びたかったが、時間が無かった。約束の時間に遅れると、七恵はとても機嫌が悪くなるのだ。 寝室に寄り、職場に行った地味な茶色のスーツのまま下着だけを替えて、乃梨子は再び家を出た。 （今日は雅史さんは残業だって言ってたから……） 工藤家へ向かいながら、頭の中で時間を逆算する。 （朝のうちに夕飯の下ごしらえはしてあるし、２時間…ううん、３時間は大丈夫） マンションの廊下に出る。 ちょうど隣家の夫妻が姿を現し、乃梨子はぎくりとした。 脚の具合が悪い夫の乗る車椅子を、老婦人が押している。 仲睦まじそうな老夫婦の様子に、胸が痛む。 （あんな風に穏やかに歳を取れたらいいな…なんて思っていたのよね） 軽く会釈をして夫婦の脇をすり抜けながら、乃梨子は考える。 今から夫が帰宅するまでの間、自分が近所に住む女にオナニーショーを見せに行くところだ…などと、誰が思うだろう。 あれから乃梨子は、何度も七恵の部屋に足を運んでいる。 命令されて嫌々行くのだと思いながらも、その時間が近づくと自然に身体が熱く火照ってくる。 ７０５号室のドアの前に立ち、ひとつ深呼吸をするとインターフォンを押す。 さほど待つこともなくドアが開き、華やかな七恵の顔が覗いた。 黒いタートルネックのセーターに、黒いロングスカート。色白の顔に紅く塗った唇だけが鮮やかだ。 「いらっしゃい、遅かったのね」 「すみませんっ…買い物に時間がかかって」 七恵の口調は咎めるようでも無かったのに、乃梨子は表情を強張らせて謝った。 「大丈夫、そんなに気にしなくていいわ。さ、入って入って」 （………？） 七恵の、やけに機嫌が良さそうな様子が気になる。 靴を脱ぎかけて、玄関の叩きに並ぶ紳士物の靴が目に入った。と、同時に、奥の部屋から男性の笑い声が聞こえた。 「誰か、いらっしゃるんですか？」 恐る恐る尋ねる乃梨子に、七恵が艶やかに微笑みかける。 「あぁ、壮一郎のお客様なの。今日は、お客様にも披露してね」 「えっ………」 事も無げに言われて、乃梨子は絶句した。 「いつまでも観客が私ばかりじゃつまらないだろうと思って、招待しておいたのよ。ね、嬉しいでしょう？乃梨子の厭らしい姿、たっぷり見て頂きましょうね」 「そんな……困ります…七恵さん……」 淫らな姿を同性の七恵に見せることも抵抗はあったが、していることは自慰、他の男を受け入れている訳ではないと、今まで乃梨子は自分なりに無理矢理納得していた。 （男の人になんて……助けて……雅史さん……雅史さん……っ） これ以上、雅史のことを裏切りたくない。 自然に乃梨子は頭を左右に振っていた。 その途端、七恵の右手がさっと上がり、 パン！ 軽い音がして、乃梨子の頬が叩かれた。 じっと、黒目勝ちの瞳が覗き込んでくる。 「出来るわよね？いつも乃梨子が想像してることと同じでしょ？」 「でき……ません……」 もう一度、首を振る。 「だぁめ。奴隷はちゃんと言うこと聞かなくちゃ。壮一郎の大事なお客様だから、粗相の無いようにお願いね」 乃梨子の言うことは全く無視して、七恵は乃梨子の背を押す。 「やっ…いやですっ……お願い…七恵さん……」 尚も抵抗して歩くのを拒んでいると 「どうしたんだ？遅いぞ」 奥の部屋から、壮一郎が姿を現した。 （…………っ……いや………助けて……） 壮一郎の酷薄そうな瞳に見下ろされると、足が竦む思いがする。 「早くしてくれないかな？この間は見て下さいって頼んでいたのに、出し惜しむこともないだろ？」 （そんな……） たしかに、電話の向こうの壮一郎にそのようなことを口走った記憶はある。 けれどそれは単なる言葉遊びに過ぎず、実現しようなどと望んではいなかった。 「出来ません。そんなこと、出来ませんからっ」 懸命に訴えてみたものの、乃梨子は二人に両側から腕を取られ、引きずられるようにしてリビングへ連れて行かれた。 リビングの中央に置かれたソファに、でっぷりと太った男が座っていた。バサバサの長い髪と太い眉は、乃梨子に熊を連想させた。乃梨子が部屋に入って来ると、男は身を乗り出し、ニヤニヤと笑いながら好色そうな視線を乃梨子の全身へと這わせて来た。 （こんな人の前で……） 自慰を披露する自分を想像するとぞっとした。嫌悪を感じながらも、身体の深奥で疼くものがあるのが怖い。 「多村さん、お待たせしました。こちらは乃梨子さん。ご近所の奥様です」 強い力で乃梨子の両肩を押さえて、七恵が告げる。 「ほう……素人っぽいのがいい感じだねぇ…」 多村と呼ばれた男の声は、妙に甲高く、ねちっこかった。 （いやよ…帰りたい……） 二人を振り切って逃げ帰ろうかと、周りを見回す乃梨子に 「じゃあ、お願いね。いつものようにすればいいから」 軽く囁くと、七恵が身体を離した。 三人に見つめられて、乃梨子は立ち尽くす。 （出来ない…ぜったいに出来ないわ……） 胸元で両手を合わせ、ぎゅっと握り締める。 「どうして出来ないの？いつもしていることでしょう？」 口調から、七恵が苛立っているのが分かる。 （怒られちゃう…でも……あぁ……どうしたら……） 首を竦める乃梨子に 「出来るでしょ？最初はどうするの？四つん這いでしょ？」 きつい口調のアルトの声がかけられる。 （ぁぁ……だめ……） 幾度かの経験で、七恵の命令は乃梨子にとって絶対のものになりつつあった。 乃梨子は、合わせていた手を緩め、膝を折り床に手を着いた。 |
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| 2009.8.22掲載 |
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