降り始めた雨は、あっという間に土砂降りになった。 甘いバニラの香りの漂う洋菓子店。買ったばかりのケーキの包みを手に、竹下雅史は外の風景を見て溜息をついた。 妻の乃梨子は、この店のタルトをとても気に入っている。珍しく早い時間に帰って来たので、駅から離れたこの店まで足を運んだのだが、雨に降られるとはついていない。 （走って駅まで戻るか…いや、それはケーキがぐちゃぐちゃに……いっそタクシーで……まてまて、タクシーは給料日までがつらい） 恨めしそうに雨の降る街路を見つめて悩んでいると、 「あの、竹下さん…ですよね？７０２号室の…」 背後から声をかけられた。振り返ると、そこにはやたら華やかな――と、雅史は感じた――女性が立っていた。 チャコールグレイのスーツは、ボディコンシャスなデザインで、豊かな乳房、くびれた腰、まろやかなヒップを際立たせる。短いスカートから出る形の良い脚は、黒いストッキングに包まれ、黒いエナメルのヒールを履いている。３０歳の雅史より、かなり年上に見えるのだが、身体のラインに崩れたところは無さそうだ。ふわりと肩先でカールした髪型も彼女に良く似合っていた。 「……？どちらさまでしたっけ？」 雅史は元々、人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。マンションの部屋番号を言うからには近所の人なのだろうとは思ったが、誰だかさっぱり分からなかった。 「７０５号室の工藤です。時々廊下でお会いするんですけど、覚えてらっしゃいませんわね」 くすっと笑って女は答えた。 目が大きく、特に黒目の部分が大きい。濡れたように見える赤い唇が印象的だ。 思い出せないままに 「ご近所の方でしたか。失礼しました、俺、人の顔覚えるの苦手で…」 言い訳しながら、ぺこぺこ頭を下げる。 「今からお家に帰るところです？」 首を傾げてこちらを見上げる仕草は、可愛らしく思えた。 （へぇ…こんな人、近所にいたんだ） なんとなく、嬉しくなっていた。 「あ、はい。困っちゃいますよね。こんなひどい雨になると知ってたら、ケーキなんて買いに来なかったんですけど」 （こら、俺。なに動揺してんだよ） 口数の多くなった自分に、雅史は内心で突っ込みを入れる。 「よろしければ、うちの車に乗っていかれません？」 彼女は店の前に停まっている黒い乗用車を指差した。 「えっ……それは助かりますけど……いいんですか？」 初めて話した男を車に乗せてもいいものだろうか…遠慮して尋ねると 「誘拐したりはしませんから。どうぞ」 軽く笑って、女は店のドアを開けた。 雨の音がザァーッっと耳に響いた。 車のシートに座ると、彼女のスカートはいっそう短く見えた。ストッキングの上部が腿のところでレェスに変わっているのがちらりと見えて、助手席に座った雅史はドキっとした。 「よくご夫婦でテニスをなさっているでしょう？」 滑らかに車をスタートさせて、工藤夫人は話し始めた。 「あぁ…日曜日なんかにたまに…」 マンションの敷地の隣に市営のテニスコートがあり、乃梨子と一緒に楽しむことがある。子どもの居ない二人は、休日を共通の趣味の時間に当てることが多かった。 「仲が良さそうだなって、羨ましく拝見していたんですよ」 「夫婦でテニスなんて、子どもみたいでしょう？お恥ずかしいです」 「そんなこと無いですよ。ウチなんか夫婦バラバラで……そうね、共通の趣味と言える物が無いこともないけれど…」 言葉の最後は独り言のようだった。雅史は運転する工藤夫人の横顔に見とれていた。 （女優の……Ｋに似ているな。理知的で、色っぽくて、可愛くて…。胸も大きくて柔らかそうだ…） 実は巨乳に憧れを抱く雅史は、妻の乃梨子の胸がＣカップなのを密かに残念に思っていた。もちろん、そんなことを乃梨子の前で匂わせたことは一度も無かったが。 （Ｄ…いや、Ｅ…もっとあるかな…） 横目でチラチラと見ながら、不躾なことを考える。 「Ｆよ」 「えっ…えぇっ…！？」 いきなり言われて、雅史は驚いて声を裏返らせた。 「図星でした？殿方は大抵最初にそう考えるらしいので」 彼女はそういうと、悪戯っぽく笑う。 「は…はは……すみません……」 謝ってしまっては認めたも同然なのだが、彼女が気分を害した様子も無いので、気を楽に出来た。 「読心術でも出来るのかと思いました」 雅史が白状すると、彼女は今度は声をあげて笑った。 「まさか。でも、男性が考えることって、だいたいみんな同じですね」 「そうですか…。すみません」 恐縮して、また謝る。 「そんなに謝らなくても」 楽しそうに、彼女はまた笑った。 それから、お互いの家庭のことなど、当たり障りの無い会話が続いた。 彼女の名前が七恵であること。雅史達夫婦と同様に、工藤夫妻にも子どもが無いこと、彼女がインテリアデザインの会社で働いていることなどを雅史は知った。 「さあ、着きました」 車がマンションの地下駐車場に乗り入れた。 バスで通勤する時は嫌になるくらい長いと感じる道程が、物足りないくらい短かった。 「どうも、ありがとうございました」 名残惜しいが、車から降りて挨拶をする。 「いえいえ。どう致しまして」 にこやかに挨拶を返すと、七恵は車のトランクから大きな荷物を二つ取り出した。 「ん？ずいぶん大きいですね。お持ちしましょうか？」 「大丈夫ですよ。そんなに重くはないんです」 よいしょ…と荷物を持った七恵の足がふらつく。ピンヒールを履いてこの荷物を持ち歩くのはバランスが悪いようだ。 「乗せて頂いたお礼にお部屋まで運びますよ」 もう少しこの女性と話がしたいと雅史は思っていた。 「じゃあ…お願いしようかしら？」 「そうです。男はこういう時の為にいるんですから。すみません、こっちを持ってもらえますか？」 ケーキの包みを七恵に手渡し、代わりに大きな荷物を取り上げると、雅史はマンションのエレベーターホールへ向かった。 ※ ※ ※ エレベーターの『閉』ボタンを押してから、七恵は隣に立つ雅史の顔を見上げて、くすっと含み笑いをした。 （やっぱり可愛い子だわ） 雅史は”子”という歳では無いのだが、七恵にはそう思えてしまう。雅史の奥さんの方も可愛らしい子だった……と、時々顔を合わせる乃梨子のことを思い出す。 （真面目そう……でも、押しには弱いタイプかな……） ちらちらと自分の胸を見ていた視線を思い出すと、身体が熱くなってくる。 （さて…どうしたものかしら…） 舌をちろっと出して唇を舐める。エレベーターのインジケーターを見ていた雅史は気付いていなかったが、そういう七恵の表情はやけに淫蕩な感じになる。 七恵が先に立って７階の廊下を歩く。７０２号室――竹下家は明かりが点いていた。きっと彼の妻が夕飯を準備して、夫の帰りを待っていることだろう。７０５号室――工藤家は一番端の角部屋になる。こちらは明かりも点いていない。ショルダーバッグから鍵を取り出し、ドアを開ける。 「中に入って、奥の部屋に置いて頂けます？」 廊下を抜けて、リビングへ案内する。リビングの隣の６畳ほどの洋間が七恵の仕事部屋になっている。 「こっちでいいですか？」 七恵に続いて室内に入って来た雅史が、二つの荷物を床に下ろした。 「ありがとうございました。お陰で助かりました」 「いえ、こっちこそ助かりましたよ。雨に濡れずに済んだし」 「お礼にコーヒーでもと思うんですけど……お家で奥様が待ってらっしゃるかしら？」 そう言いながら七恵は対面式のキッチンへと足を運び、コーヒーメーカーの準備をはじめる。 「あ…いや……。帰る時間が決まってないから、待ってるってことは……」 雅史の返事は歯切れが悪い。 （ほんとは待ってるのよね。可愛い奥さんが） 「どうぞ、適当にかけて下さいね。コーヒーが出来るまで、少しかかるので」 「はい。では、お言葉に甘えて」 雅史は素直に勧められた椅子に腰掛ける。 七恵はキッチンを離れ、雅史の正面のソファに腰を下ろした。ゆっくりと長い脚を組むと、雅史の視線がそこに這うのが見てとれた。 「黒よ」 試しに言ってみる。 「えっ……」 みるみる雅史の顔が赤くなったので、雅史が下着のことを考えていたのが分かった。くすくすと七恵は笑う。 「分かり易いんだから」 「すみませんっ…重ね重ねっ…」 何度も雅史が頭を下げるので、もっとからかってみたくなった。 「確かめてみます？」 脚を組み替え、じぃっと正面から見つめる。 自分の瞳に力があることを、七恵は自覚していた。自覚して、効果的な武器として使っている。 「へ…？…な…何をですか…？」 しどろもどろになる雅史を可愛いと思う。 「何をかしら？今、貴方が考えていたこと…かな？」 「え…えっ……あの……」 うろたえながらも、雅史の瞳に欲情の色が浮かぶのを七恵は見逃さなかった。 （もう一押し…かな…） 今度は脚を開き気味に座り直してみる。スカートの裾も少したくし上げて。 「確かめてみたくない？」 上着を脱いで、前屈みになって雅史の顔を覗き込む。 胸元が大きく開いたデザインのブラウスだから、雅史からは胸の谷間がはっきり見えるだろう。 「確かめて……いいんですか？」 声を上擦らせ、雅史が立ち上がる。男を堕とすこの瞬間が、一番好きだだと七恵は思う。 「何を確かめたい？」 座る位置を少し横にずらして、自分の隣を空ける。迷わず雅史はそこに座り、七恵の肩を抱き寄せて来た。 （簡単ね……奥さんがすぐ近くで夕食を準備してるって言うのに……） 身体を熱くしながら、心の底で冷ややかに考える。 雅史が、顔を寄せてくる。 七恵は、目を閉じる。 唇が、重なる。 |
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| 2009.1.24掲載 |
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