３

　昨日からパトリシアのことで頭の中がいっぱいで気が狂いそうだ。
　気を紛らわそうとスケッチブックの前に座っても、バストとかあそことか、エッチなものばかり描いてしまう。そして、描けば描くほどイメージが鮮明になってきて、オナニーを覚えたての猿みたいにヘトヘトになるまで自分のものを擦り続けちゃうんだ。
　気が付くと目覚ましが鳴っていた。気絶状態で眠ってしまったらしい。
　重い身体を引きずるようにして階段を降りる。エネルギーを充填しなきゃ死んじゃいそうだった。

　普段はひとつだけの目玉焼きを二つにしてとセツさんに頼んだ。彼女は午前中に来て、食事の用意や掃除なんかをしてくれるんだ。
　目玉焼きの白身を見ながら、間違いなく卵一個分くらいは出しちゃっただろうとバカなことを考えていた。
　ちょうど食べ終わるくらいのタイミングでパトリシアが台所に現れた。
　初めて会ったときに着ていたワンピース姿だ。
「モーニン」
　その爽やかな笑顔、僕の心の中が分かったらどうなっちゃうんだろう。そんなことを思いながら挨拶を返す。
　あくびをしながら親父もダイニングテーブルに座った。
　言い忘れたけど、僕の家は純和風なのに台所にはダイニングテーブルが置いてある。そこと僕の部屋が椅子で過ごせる場所なんだ。親父の書斎は和室で、座布団に座る古めかしい机があるだけだ。離れだって例外じゃない。
　朝食を食べながらパトリシアが作業用にダイニングテーブルを使いたいと言い出したのは当然のことだろう。昨日の作業で足が痺れてしまったと訴えていたからね。親父は笑いながら承諾した。そして、書斎にあるものは何でも自由にしていいからと言い残して家を出て行った。

　日本語を読めないパトリシアに資料の説明をするのが僕の役目になった。
　彼女の隣に座っていると、いい匂いがしてきて胸が締め付けられる感じがする。なにかのはずみで目が合うと、それだけでドキドキしてしまい顔が赤くなるのが分かる。僕は一生懸命、彼女の手伝いをこなした。
　資料の写真をデジカメで撮り、そのデータをいくつものファイルに整頓する。
　まず僕が彼女の希望を聞いて大雑把に資料を分ける。パトリシアはその資料の写真を撮ってから付箋を付ける。そして、その説明を共同でパソコンに打ち込むことにした。
「そろそろ、休憩にしましょ」
　彼女がそう言ったのは、なんとなく、お互いの作業分担ができて一段落したタイミングだった。
「そうだね。お腹もすいたし、僕が何か作ってあげるよ。それとも駅前に行って食べる？」
「いつもはどうしてるの？」
「そのときによりけりさ。お母さんが死んじゃったからね。学校に行ってるときは近くでパンなんか買うだけ、いまは休みだから決まりがないんだ」
「ごめんね。わたし、悪いこと聞いちゃったみたい‥‥」
「いいんだよ。気にしてないから。それよりパスタは好き？　トマトソースならけっこう得意なんだ」
「意外だわ。あなたがパスタを作るなんて」
「もしかして日本にはまだサムライとかゲイシャがいると思ってる？」
「そんなんじゃないけど‥‥高校生のあなたが料理するなんて‥‥」
「ここにはマクドナルドもないからね。自分で作るしかないんだ。普段はインスタントラーメンとかだけど‥‥」
「なに？　そのインスタントラーメンって‥‥」
「あ、ごめん。ヌードルのことだよ。知ってる？」
「興味あるわ」
「じゃあ作ってあげるよ」
　僕は塩ラーメンのパッケージを出す。味噌味なんかよりは抵抗がないと思ったからだ。キャベツを刻んで麺と一緒に茹でる。目玉焼きを乗せるのが僕のやり方だ。
　手早くラーメンを作り終えた僕にパトリシアは驚いたみたいだ。
「どう？」
「美味しいわ」
　彼女は慣れない箸に苦戦している。麺類を箸で食べるってけっこう難しいらしい。
「こうするんだ。アメリカじゃタブーかもしれないけど、これがジャパニーズウェイだからね」
　僕は音を立てて麺をすすり込んだ。
「どうすればいいの」
　どうも、すすり込むという動作が分からないみたいだ。
　それでも、はしゃぎながら彼女はラーメンにトライしている。
「こうだよ」
　口をすぼめる僕が可笑しいらしく、パトリシアは声を立てて笑った。
　笑い声に合わせてＴシャツに包まれたバストが揺れる。
　結局、彼女にはフォークを渡すことになったが、この一件で僕らはすごく打ち解けた感じになった。

「困ったわ‥‥」
　パトリシアがつぶやく。
「どうしたの？」
「資料の写真が良くないのよ。光っていて読めない‥‥」
　僕はノートパソコンの画面を覗き込む。
「ほんとだ」
　ストロボが反射したり強すぎたりで、なんだか分からない写真が画面いっぱいに写っていた。
「スキャナー使うしかないね」
「持ってないのよ‥‥」
「僕の部屋にあるよ。貸してあげる。でもパットのパソコンってマックだよね。ドライバとか大丈夫なのかな？」
　試しに繋いでみたけど認識しない。英語版のOSのせいかもしれない。
「僕の部屋で取り込むしかないね。画像はＣＤに焼いてあげるよ」
「良かった。どうしようかと思ったわ」
　僕らは資料の束を抱えて二階へ上がった。
　部屋に入るとパトリシアがクリムトのポスターの前で立ち止まった。何人かの女性が横たわった、ちょっとエッチな絵だ。
「あなたの絵にちょっと似てる‥‥幻想的なところが‥‥」
　たしかにそうかもしれない。毎日見てるものだし、タッチと雰囲気が好きで部屋に飾っているくらいだから、影響を受けていてもおかしくはない。
「日本で展覧会があったとき、すごくショックを受けたんだ。こんな絵があるのかと思って」
「そう‥‥」
　彼女はしばらく絵に見入っていた。
　その間に僕はパソコンを立ち上げる。
「ねえ、パット。準備できたよ‥‥あっ‥‥」
　パトリシアは開いたままになっているスケッチブックを見ていた。お風呂での彼女を思い出しながら描いたやつだ。
　僕はあわてて駆け寄りスケッチブックを閉じる。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。
「いいじゃない。もっと見せてよ」
「‥‥だって‥‥」
　次の言葉を見つけられない。
「タケシの絵、とても好きよ。ねえ、恥ずかしがらないで見せてよ」
「た、ただのデッサンだから‥‥それに‥‥」
　僕がお風呂を覗いていたことがバレたら‥‥恥ずかしさもあったけど、パトリシアがここを出て行ってしまうんじゃないかと想像すると、それが怖くてしかたなかった。
「描きかけの絵を見られるのって嫌なんだ‥‥だから‥‥」
「じゃあ、出来上がったのを見せて」
　パトリシアの目がキラキラ輝いている。どうして向こうの人ってこうなんだろう？　押しが強いというか積極的で、ストレートに感情が伝わってくる。
　僕は押し入れにしまってある何枚かのキャンバスを取り出した。
「あら、風景ばかりじゃない」
「うん、人の絵は描き始めたばかりだから」
　僕はスケッチブックの一件から逃れたい一心でそう言った。彼女がモデルだなんて言えるはずがない。
「信じられない。さっきのデッサン、すごく良かった」
「クリムトの絵を見ていたせいかもしれないね」
「きっと、あなたの手には神様が宿っているんだわ。わたし、ほんとうに感動したの」
　いままで絵筆を持っていたのは満たされない何かを埋めたいという気持ちが強かったけど、彼女の絵を描いたのはもっと原始的な衝動からだった。自然に手が動いていたと言ってもいい。そんなものを評価されるのはヘンな感じがした。
　僕は机の上にあった鉛筆を取り、スケッチブックを開いて彼女の顔を描きはじめた。意味はない。無意識のうちにそんなことをやっていた。
「そのまま動かないで」
　パトリシアは僕の方を見てビクッと震え、そのまま固まってしまった。
　僕は紙の上に鉛筆を走らせる。
　白い肌に赤みが差し呼吸が浅くなったように見える。
　なんだか、ひどく艶っぽかった。
　三分ほどで逆光気味に浮かび上がった少し不安げな表情をしているパトリシアの顔を描き終えた。
「あげるよ。仕事の続きをしなきゃ」
　そのページを破り取って彼女に手渡す。
　パトリシアは、まるで催眠術が解けたように大きくため息をついてデッサンを受け取った。
「びっくりした‥‥あんな目で見つめられたの初めて‥‥」
「僕も、なんでこんなことをしたのか分からないんだ」
　ずいぶん長い間、彼女は僕が描いたデッサンを眺めていた。
「ありがとう。うれしいわ。こんなに素敵に描いてもらえるなんて」
「なんだか自然に手が動いちゃったんだ‥‥」
　このときだった。
　パトリシアの姿をキャンバスに残したいと思ったのは。
　でも、そんなことは言い出せず、僕はスキャナーを前に座って資料のコピーをはじめた。

「タケシ、ちょっと外へ出ない？」
　取り込んだ画像をCDに焼いているとパトリシアが言った。
「いいけど、どうして？」
「うん‥‥ちょっと‥‥」
　さっきからパトリシアの様子が違う。なんていうか、ぜんぜん集中できないみたいなんだ。
「いいよ。ひと休みしよう」
　僕らは母屋を出て裏山の方へ向かった。僕がスケッチをしていたところに行きたいとパトリシアが言ったからだ。
「ねえ‥‥」
「なに？」
「あなたのこと教えて‥‥」
「どういうこと？」
「そうねぇ‥‥どうして絵を描くようになったの‥‥」
「う〜ん、どうしてって聞かれても‥‥好きだからっていうしかないけど‥‥ただ、母親が病気で死んじゃって、なんとなく、その寂しさを埋めたいっていう気持ちはあったかもしれない‥‥」
「ごめんね。また悪いこと聞いちゃったかしら？」
「いや、気にしてない。それより、パットが僕の絵を気に入ってくれてうれしいよ。ほんとは美術系の大学に行きたいんだけど、親父の跡を継ぐことになってるから‥‥」
「わたしも、あなたは美術方面に進学するべきだと思うわ。だって、あんなに素敵な絵を描ける才能があるんだから」
　そんなことを話ながら歩いているとスケッチポイントに着いた。
「ワオッ、たしかに絵にあった風景ね。でも、あなたの絵の方が素敵だわ」
　パトリシアは辺りを見回しながら深呼吸した。
　逆光で身体のシルエットが薄手のワンピースから透けて見える。
「ねえ、あの絵の女性ってあの辺に立ってたのよね」
　そう言ってパトリシアが走り出す。
「あっ、そっちは‥‥危ない！」
　止める間もなかった。
　次の瞬間、彼女の姿が消えた。
　ガラガラと何かが崩れる音と、ドスンという鈍い音が同時に響く。
　そこは掘りかけになったままの井戸で、草に覆われてるからよく見えないんだ。深さは２メートルくらいある。
「パット‥‥」
　駆け寄って穴を覗くと泥水に半分くらい沈んだ格好でパトリシアが倒れていた。めくれたスカートから太ももが覗いている。
「大丈夫？」
　あわてて中に飛び込んで彼女を抱き起こす。
「痛い！」
　とパトリシア。
「あ‥‥足をくじいたみたい‥‥」
「とにかく、ここを出なきゃ」
「そうね。でも、立てそうもない‥‥」
　顔をしかめる彼女。そうとう痛いみたいだ。
　それでも、這うようにして立ち上がる。
「痛いのはこっちの足？」
　力を入れてない右足を指さすと彼女はうなずいた。
「それじゃ、持ち上げてみるよ。ちょっと脚を開いて、そう」
「きゃっ」
　僕はパトリシアを肩車で持ち上げた。脚の間に頭を入れて力を入れると彼女は小さな悲鳴を上げた。
「縁につかまって‥‥そう‥‥押すよ‥‥」
　僕は、あの丸くて蠱惑的なヒップを持ち上げるように押す。
　助けるのに夢中だったといえばウソになる。心のどこかで、その感触を楽しむ気持ちがあった。だから、わざと手が滑る振りをして太ももの方からヒップにかけて何度も手の位置を変えた。
　コットンの生地の上から張りのある肉の感触が手のひらに伝わってくる。
「だめ‥‥登れないわ‥‥」
　足場がないし、痛みのせいで彼女はお腹を支点にしたまま這い上がれないでいる。
「ちょっと待って」
　僕は駆け上って彼女の腰のあたりを抱いて持ち上げる。
　やっと穴から出たパトリシアは全身泥だらけ。肩で息をしている。
「ありがとう‥‥助かったわ‥‥」
「大丈夫？　歩ける？」
「‥‥まだ、無理みたい‥‥」
「とにかく、家に帰ろう。おぶってあげるよ。ほら」
　僕はしゃがみ込んでいるパトリシアに背中を向けた。
「で‥‥でも‥‥」
「いいから、はやく」
　背中に重みがかかる。
　同時にバストのフワッと柔らかい感触。
　このまま時間が止まって欲しかった。
「重いでしょ‥‥」
「平気さ」
　そう答えたけど、母屋へ着いたときには、額から汗が噴き出るように流れ息が荒くなっていた。
「医者を呼んでくるよ。骨が折れてたら大変だ」
　僕はそう言った。
「待って‥‥くじいただけだから‥‥」
　立ち上がろうとしたパトリシアは痛みで顔をしかめる。
　結局、僕は自転車で10分ほど走って診療所のお医者さんを呼んできた。昔から世話になってる顔見知りのおじいさんだ。
　僕らが帰ってきたとき、パトリシアは勝手口に座ったままだった。
「レントゲンを撮ってみないとはっきりは分からんが、ただの捻挫だね。腫れもそれほどじゃないから心配ない。湿布して、それでも痛むようだったら診療所に連絡しなさい」
　泥だらけの彼女の脚を診ながら医者さんはそう言って帰って行った。
　髪の毛に付いた泥は乾きかけている。
「良かった、たいしたことなくて‥‥身体洗って着替えなくっちゃ‥‥ひとりで出来る？」
　そのときはエッチな気持ちなんかなかった。泥だらけの彼女を見て安堵感から自然に出た言葉だった。
「ありがとう‥‥でも‥‥」
「そうだよね。僕、手伝いのおばあさん呼んでくるよ。彼女にやってもらえばいい」
　僕は彼女を裸にしなければならないことに気がついて顔が赤くなった。
　彼女はしばらく黙っていた。そして‥‥
「お年寄りにそんなことを頼むのは気が進まないわ」
　と、ポツリと言った。
「わたしのスーツケースを持ってきてくれる」
「うん、いいよ」
　僕はパトリシアが何を考えているのか分からないまま指示に従う。
　離れからスーツケースを持ってくると、彼女はダイニングテーブルに手をついて立っていた。
「わたしをバスルームに連れてって」
「だって‥‥ひとりで大丈夫？」
「あなたに手伝って欲しいの‥‥」
「えっ‥‥」
　二の句が継げなかった。
「だって‥‥僕は男だよ‥‥」
「いや？」
「そうじゃないけど‥‥」
「さっき、あなたがわたしの顔を描いてるとき思ったの。すごいショックだったわ。あなたの気持ちが心に響いて来るみたいで‥‥」
　僕は、なんて答えたらいいのか分からなかった。
「恥ずかしいけど、あなたの絵の役に立ちたいの」
　思いもよらぬ展開に息をするのがやっとだった。
「わたしも高校生のとき美術をやってたことがあるの。デッサンで大切なのは質感をいかに描写するかなのよ。いまのわたしには助けが必要だし、お互いにとっていいことでしょ？」
「とにかく、お湯を沸かしてくるよ」
　その場を離れたい一心で出た言葉だった。
　彼女の裸が見れる。それも間近で。考えただけで喉がカラカラになった。しかし、いったい、彼女はどんなつもりなんだろう？　僕の絵を気に入ったくらいで、あんな提案が出来るものなのだろうか？　頭の中は疑問符でいっぱいだった。