１

　とある初夏に入るころの日、その事件は起きた。首都圏のある町で、一人の男が死んでいるのが発見された。
　自殺か、他殺か。警察は、そして人々はその二つに一つを決めかねた。あるいは、自然死ではなかったのか、とも考えられた。

　顔、体、全身が皺だらけになり、肉も血液も一切なく、ただ骨と皮が残るのみ。遺体はそんな状態だったのである。
　殺害後放置されたのではないか、という意見もあった。だが、その男は死体となって発見されるつい前日、いつも通りに出勤していたのである。これは、多くの人間が目撃していた。

　様々な意見、憶測が飛び交うなかで、分かったことはわずか一つ。それも、事件に直接関係があったかどうかも分からないものだった。

　それは、『被害者が本屋で一冊の古書を購入した』というものだった。
　しかし、事件には関係ないとみなされ、古書の所在が探られることはなかった。

　そのわずか三日後、同町で女子高生が歩道橋から転落するという事件が起こった。

　その女生徒は、一冊の本を脇に抱えて歩いていたらしく、歩道橋の上にはその本が転がっていた。

　死亡して当然の出来事だった。だが、少女は意識を失っただけで無傷だった。。
　それは果たして、奇跡の始まりだったのだろうか？それとも…。

　『Ｄｅｍｏｎｏｐｈｏｂｉａ』。本のタイトルはそれだった。
　名前からして曰ありそうな品だが、なぜただの女子高生がこれを持っていたのだろうか？

「…あの高さから落ちたのに、それにクッションになるものもなかったというのに、彼女は助かった。まさに奇跡だよ」
　大戸総合病院の医師影村が言った。
「本人が死ぬ気で飛び降りたのか、そういうのは分からない。意識もはっきりしているから、本人が話してくれるのを待ったほうがいいかもしれない」

「どうして、君がその本を持っているんだ！」
　部屋に入ってくるなり、刑事が少女を問い詰めた。
「その本は、本部に押収されたはずなのに…！」
「わたしだって、分かりません。この本が、いつのまにかわたしの傍にあったんです」
　少女はただ首を横に振るばかりだった。
「その本を、どうやって手に入れたのかな？」
　刑事に聞かれ、少女はこう答えた。
「拾いました。××公園で」
「公園で拾った…？それは、確かかい？」
「ええ。どうして、この本のことがそんなに気になるんですか？ただ、落ちていたものを拾っただけなのに」
　少女が怪訝そうな顔をするのは無理もない。いくら警察が押収したとはいえ、この本はただの本である。ただ、古書だからどこかで価値があるものなのかもしれないが…。
「別の事件で死んだ男が、その本を持っていた可能性が高いんだよ」
「えっ！」
　刑事の言葉を聞き、少女は戸惑ったように本を手放してしまった。どさっ、と重そうな音を立てて『Ｄｅｍｏｎｏｐｈｏｂｉａ』が床に転がる。
「そんなこと、全然知りませんでした。でも、本当にこの本、警察の方が押収したんですか？わたしが目を覚ました時、すぐ傍にありました。枕のところに、誰かが置いていったかのように」
　背中までの流れるような黒髪を持つ少女は、なかなかの美女の『卵』だった。この分だと、学校では人気があるだろうな、と刑事は思う。
「君の指紋をとっても構わないかな？この本の指紋はとってあるけれども、君の指紋以外の指紋が出るかもしれない」
「分かりました」
　早々に作業を済ませると、刑事は少女に例を言って去っていった。本は押収されなかった。どうやら、上に指示を仰いだらしい。指紋さえとってしまえば、用済みなのかもしれない。まさか、本の内容で死んだりはしないだろう。

　弥栄真夜は、本の表面をもう一度よく眺めた。実は中身をよく読んでいないのだ。手にしてしばらく歩いていたら、頭がぐらついたような感覚に襲われた。

　…何かに、出会った気がする。夢の中でだろうか？気がついたら病院にいた。

　その日の内に、真夜は退院した。どこも異常がないと判断されたためである。脇にホンを抱え、一人暮らしの自分の家へ歩く。いつもと変わらない街並みだった。

『ん・・・・ふぅっ・・・・』
　悩ましい声とともに、真夜は目を覚ました。いや、目を覚ましたのとは違うことがすぐに分かった。
　夢を見ているのだ。どうやら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
（これは夢…？あそこにいるのは、わたし…？）
　見知らぬ部屋のベッドの上にいるのは、紛れもない自分自身だった。いや、それだけではない。ベッドの上にはもう一人、それも真夜に覆い被さるように重なっている男がいたのである。
『な、なんてことしてるのよ！』
　思わず声を上げても、ベッドの上の二人は夢中なのか気付いていない。いや、これが夢だからなのかもしれない。
『あぁっ、もっと、もっと、お願い、もっと…！』
　自分が犯される姿を遠くから見る。不思議な光景だった。だが、まだ男を知らない自分であるはずなのに、ベッドの上の自分は男を求め、喜ぶ声すら上げている。
　乳房をもまれ、雌蘂に突き立てられ、それでも男を求めているのである。

　まるで自分とは違う自分のようだった。

「…うぅ…っ、うっ・・・・」
　気がつくと、自分自身への異変に気づいた。見慣れた自分の部屋の中、真夜はパジャマの中に手を突っ込み胸を揉みしだいていた。それだけではなく、ズボンと下着の中に手を入れ、指で自分を慰めていたのである。
（な、なんなの、これ…！）
　夢を見た自分が、無意識にやったことなのかもしれない。もしくは、歩道橋から落ちたという事故のせいでつかれきっていたのかもしれない。
　いろいろな理由をつけて正当化するなか、彼女はようやく時計を見た。まだ登校時刻には早い。
「忘れましょう。あんな夢を見たからだわ…！」
　ふと目をやると、ベッドの上にはあの本がおいてあった。

　そうだ、昨日はあの本を広げ、読んでいるうちに眠ってしまったんだっけ。
　真夜はようやくそれを思い出してから、本を手にとって机の上に置いた。

　内容はよく分からない、魔術とか悪魔とか、そんなことが記されている本だった。日本語ではない文字で書いてあったが、真夜にはなぜか読むことができたのである。

　なんとなくテレビをつけると、ニュースが飛び込んできた。
『変死事件再び、干上がった死体の謎』
　そんなタイトルだった。

（物騒な事件ね。でも、人がいきなり干上がるなんて、どうかしてる）
　その程度しか思わなかったのだが、次に映された画面を見て、真夜は言葉を失った。

　被害者となった男の写真は、先日の夢に出てきた男だったのである。