俊介は３７歳、妻と子供２人に恵まれた中小企業の営業課長だ。
　課長といえば聞こえはいいが、リストラにより次々に上司が消え、順番が回ってきただけである。まあ、役職手当もつくが、所詮、中小企業の課長職、手当てといっても安居酒屋で一杯飲めば消えてしまうくらいしかつかない。
　
　結婚し第１子が生まれた頃は良かった。バブルが崩壊したとはいえ、その影響は一般家庭には及んでおらず、次から次へと出現する新商品もそれほど営業テクニックがなくても売れた。それに伴って、そこそこの収入があり、平均的な家庭よりもいい生活をしていた。
　また、街の中心部からは少し離れるが、３５年ローンで庭付き一戸建ての家も持てたし、毎晩とはいかなかったが、週末には繁華街で若くセクシーなホステス達と一時の恋人気分を味わえた。
　しかし、３年前から急速に売上げが落ち、ボーナスはなくなり、定期昇給ですらあがらなくなってしまった。
　今では、小遣いも減らせら、月に一度、華やかさとは縁遠い馴染みの焼き鳥屋に飲みにいくのが精一杯だ。

　そんな過酷な状況の中で優秀な連中の殆どは転職していった。そんな中、俊介も焦りを感じ、密かに転職活動を続けた。しかし、年齢もあり、高卒で学歴もない彼にとって現実は厳しかった。
　今では、すっかり転職する気力も失せ、不安を感じながら勤めている会社がなんとか生き延びていってほしいと思っていた。

　そんな中、俊介の直属の部下で営業事務をこなしていた女性社員が急に会社を辞め、その後任に派遣会社から彼女がやってきた。
　名前は季子。
　季子は、最初こそ、大人しかったが、一週間ほどですぐに皆に打ち解けた。派遣されて一月が過ぎた彼女は、今では我が営業部を明るくしてくれるペースメーカーだ。
　契約を取ってくると満面の笑顔で迎えてくれる。俊介を含めて、部下達も彼女の笑顔を求めて、必死に契約を取り、次第に営業効果があがってきた。
　まさに、彼女は先に不安を感じ、やる気のなかった俊介たちを生き返らせてくれた女神だった。

　そして、ある日、全ての部下が営業に出払った後のことである。季子が深刻な顔をして俊介の傍らにきた。
「課長。少しお時間宜しいですか」
「ああ。いいよ」
「課長。前から言いたかったんですけど……」
「なんだい」
「そのぉ、さっき、部長に誘われたんです」
　部長、社長の息子であり、一応、俊介たちの直接の上司だ。しかし、肩書きだけで実質的には何もしておらず、朝、会社に顔を出したと思ったら、直に行方不明なる。彼の仕事といえば接待の席に登場するくらいだ。
　また、性格もいたって悪い。営業経験もないくせに、部下達を罵倒する。せっかく、契約をまとめてきてもニコリともすることなく、さも、それが当然であるというような態度。
　皆、奴にムカツキ、嫌っていたが、所詮、サラリーマンである俊介たちは愛想笑いで誤魔化すしかない。
「誘われたって？」
「はい。まいっちゃいましたよ。君が来てから売りあげが伸びた。だから、お礼に夕食をご馳走したいって言うんですよ」
「そうか。それはよかったじゃない。もしかしたら、君にとってチャンスかもしれないよ」
　そうは言ったが、不安を感じる。実は、前任の女の子が辞めたのは奴に原因があった。奴はその子を狙っていた。営業部にくると直ぐに彼女のもとへぴったりと寄り添い、俊介たちの視線を気にもせずに、手を握ったり、尻を撫でたりセクハラ行為を平然としていた。
　そして彼女が突然来なくなる前日に、切羽詰った顔で彼女は俊介に助けを求めてきた。　しかし、何もできなかった。やはり、俊介も自分がかわいかったのだ。
　昔はそんな男ではなかった。自分が間違っていると感じたことは例え、上司でも臆することなく進言していた。いつから、このように保身に走るようになったのであろう。
　俊介自身、あの時、彼女をまもってあげられなかったことに後悔していた。
「本気でそう言っているんですか？　私は何もしてません。売上げがあがったのも、みんなが頑張ったからじゃあないですか。お礼をされる理由はありません……それに……実は、今日が始めてじゃないんです。もう何度も断っているんです……」
　季子の大きな瞳が潤ってきた。今にも泣き出しそうだ。
「でっ、君はどう返答したんだい」
「だって、もう、何度も断り続けてたから、つい……」
　季子は渋々承諾してしまったようだ。あの時と同じだ。
「助けてください。部下を守ってくれるのは上司の役目でしょ。お願いします。一緒に来てください」
　季子が上目遣いで両手を重ね合わせ祈るように懇願してくる姿に、全身が震えた。
（なんて、可愛いんだ。助けてあげたい）
　と感情が高ぶってくるが、まだ迷いがある。相手は奴である。機嫌を損ねたらこっちの首が危ない。
　でも、季子は俊介たちのアイドル的な存在だ。いや、それだけではない。俊介は季子に対して特別な感情を抱いていた。季子、初めて彼女を見たときのトキメキを忘れない。全身が熱く震えた。そんな刺激は未だ勝手なかった。俊介は彼女こそが運命の赤い糸で結ばれた女であると直感した。もし、独身であったなら、猛烈にアタックしていたに違いない。
　告白したいがかなわぬ恋。そんな中でも空想は自由である。誰にも知られず、誰にも邪魔することはできない。妻との夜の営みがない俊介は、皆が寝静まった後、昼下がりのオフィスの中で、季子の制服の下に隠された女体をたくましく想像しながら毎晩のようにオナニーにふけっていた。
　
「お願いします。ただ側にいてくれるだけでいいんです」
　再び、あの顔で懇願してきた。愛しい女が頼ってくる。こんな男冥利につきることはない。
「わかったよ。僕も同行してあげよう」
　俊介は決断を下した。
（へたすると首が飛ぶかもしれないな）
　俊介は季子にたいして格好いいところを見せようとしたことに少し後悔した。
　
　終業時間が過ぎ、季子と一緒に待ち合わせの割烹料理屋へ向かった。
　店内にはいると忘年会であろうサラリーマンたちでにぎわっていた。
「いらっしゃい」
　白髪の混じった小太りのおばちゃんが威勢良く言った。
　喧騒の中で、季子は待ち合わせの相手である奴の名前を告げた。
　おばさんが内線電話で仲居を呼ぶ。
　余程忙しいのだかろうか、カウンターの手前にある長椅子で五分ほど待たされた時に仲居がやってきた。
「お待たせしました」
　年のころは三十台後半といったところであろう。色っぽい女性である。
　彼女の先導で後に続いた。ザワメク店内から細い廊下をどんどんと奥へ進んでいく。次第に先ほどの喧騒は嘘のように静かになっていく。だか、その代わりに廊下の左右にある襖の向こう側から、まるで男と女が交尾しているような淫らな声が聞こえてきた。
（もしかしてこの店は、例の）
　例の店。前にベンチャー企業の経営者である旧友から聞いたことがある。表向きは普通の料理屋だが、裏では金持ち相手に女を斡旋するところがあると。
「失礼いたします。お連れの方が参りました」
「うん」
　仲居が方膝をたてて襖を開いた。
　部長は上座で刺身をつまみにビールを飲んでいた。
　最初、満面な笑みを浮かべたが、後ろに俊介がいることに気づき眉をひそめた。
「どうして、君がここにいるんだ。仕事はいいのか！」
「すみません」
　奴の大きな声に思わず、萎縮してしまう。普段の上司、部下の関係が体の芯までしみこんでいる。
　仲居は関わりたくないと思ったのであろうか、そくそくとその場を立ち去った。
「ほらっ、邪魔者はさっさと帰った、帰った。せっかくの美酒がまずくなるよ」
　まるで野良猫を追い払うかのような仕草で右手の甲を前後に振る。
　季子は俊介を頼るようにジャケットの裾を掴んだが、俊介は上司と部下としての日頃の関係から萎縮し、情けないことにその手を振り払い季子を１人残し、後ずさり、そっと襖を閉めた。
「さあ、季子ちゃん。おいで」
　怒気のこもった声から一転して優しく囁いている。
「ほらっ、早くこっちにおいで」
「やっ、やめてください」
「そんなに、嫌がるなよ。今日は君にとっていい条件を用意したんだから」
「いい条件なんて、いりません。きゃぁ！」
　襖越しに聞こえる季子の短い悲鳴と共に、ドスンと床が揺れた。　
（いったい、俺は何をやっているんだ）
　己の不甲斐なさで、前任の女の子が辞めたことが脳裏に浮かぶ。あの時は、ここへ来ることさえしなかった。翌日から彼女は来なかったのだ。多分、ここに来たときが彼女の人生を狂わせたのだろうと後悔していていた。それに薄い襖の１枚向こう側で助けを求めているのは季子だ。何ども妄想の中で交わった季子。このままでは危い。ガバッと襖を開いた。
「おい、おい。まだ、いたのか。……ったく人の恋路を邪魔しやがって、気の利かない奴だな」
　奴は季子の体に覆い被さり、季子の唇を右手で塞ぎながら爬虫類のような鋭い目で俊介を睨んだ。季子は俊介を見つめながらもがいている。
　好きな女が目の前で犯されようとしている。もう、耐えることはできない。今まで抑え込んでいた熱い感情が一気に噴出した。
「おい、てめぇっ、なめんのも、いいかげんにしろよ！　」
　と怒鳴り、奴の胸倉を掴み拳を振り上げた。力強く握った拳を叩きつけようとした瞬間、奴がよろけた。
「きっ、キサマァ！」
　奴が俊介に飛び掛ってこようとした瞬間だった。季子が奴の頬に鋭く平手をうった。
「あんた、最低……」
　季子がポソリと呟いた。よほど、痛かったのであろう奴は涙目で叩かれた頬に手をあてている。
　俊介は気を抜かれ、ただ唖然と立ち尽くした。
「おい、お前ら覚悟はできているんだろうな」
「馬鹿じゃない。だったらどうするの？　そんなことしたら、あんたのことセクハラで訴えてやるから！」
　季子は怒鳴った。
「セクハラだぁ。そんなことは許さんぞ！　お前ら２人とも首にして、ぐっ、うぐぅっ」
　季子のつま先が喚きたてる奴の顔面にのめりこんだ。奴は両手で顔を抑えうめいている。
「何を言っているの。馬鹿！　もし、変なことしたら、このテープを公にしてやるから！」
　季子はポケットの中から、切り札として俊介が預けたボイスレコーダーをとりだし再生した。苦しそうにしながらも、すさまじい形相で反撃を伺っていた奴の顔がたちまち蒼白になってきた。
「あんまり、なめないでね！　あぁ、気分悪っ。課長、いこっ」
　季子は素晴らしい啖呵に唖然とし立ち尽くす俊介の手を握り、引っ張られるように割烹料理屋の外へ連れ出した。
「ああっ。むしゃくしゃする。課長！　こんな時は飲みに行くのが一番。付き合ってくれますよね」
　季子は早口でまくし立てた。
　俊介にとって断る理由などはない。むしろ、自分から誘いたかった。
　俊介と季子は最初に視線のとまった居酒屋に入った。
　店内は年末の忘年会シーズンでにぎわっていが、カウンター席は空いている。二人はカウンターに案内された。
　最初、生ビールで乾杯し、チューハイへ変わった。
　生ビール、チューハイと飲み、次第にアルコールがまわり、二人の感情は昂ぶり、日ごろ抑えていた奴に対する不満が爆発し、奴の悪口で大いに盛りあがった。
　それにしても、季子の飲みっぶりはいい。アルコールに強い方であると自負する俊介がたじたじになるほどである。そんな季子に俊介は見とれた。
　

「ねえ、課長。次、次、行こうよ」
　空腹が満たされ、程よく酔った俊介たちは、隣接するカラオケボックスへ場を移した。
　狭い室内の中で季子は恋人同士のように俊介の左横に座った。
　すぐ傍に季子がいる。歌本をパラパラとめくる季子の肩に左腕をまわし引き寄せたい。
　と思い行動しようと意を決っした時、
「失礼します」
　ウェイターが無遠慮にオーダーを取りにきた。
　俊介はジャックダニエルをロックで、季子はレモンチューハイを頼んだ。

　ドリンクがきて、再び乾杯してから、二人だけの歌合戦が始まった。
　
　それにしても、季子は歌が巧い。俊介の青春時代に活躍したアイドルたちと違い今の歌手の歌唱力は格段に上がっている。
　俊介はそんなハイレベルな曲をさらりと歌いこなす季子を見つめた。
　マイクを握り歌う横顔、官能的な唇がせわしなく動く。この唇で俊介のものを咥えてもらったらどんなに気持ちいいだろう。頭の中に卑猥な考えが浮かび、季子の手に握られたマイクが陰茎に見えてくる。
　視線を落とすとスカートのすそから柔らかそうな生の太ももが見える。
　だんだんと悶々とした雄の本能が渦巻いてくる。少し勇気を出せば触れることのできるところにそれはある。
「課長、次は課長の番ですよ」
　季子がマイクをよこした。すぐに俊介のリクエストした曲が始まり、たちまち、そんな欲望はかき飛ばされた。

　互いに嫌なことを忘れようと、飲み、食い、歌った。こんな楽しかったのは久しぶりだ。あっという間に時間は過ぎ去り、時計の針は翌日を指していた。
　既に終電はなくなっている。
「おじさん。酔っばらっちゃったぁ」
　まさかと思うほど季子はアルコールに強かった。
「えぇぇ。もう、終わりぃぃ」
　季子はふてくされた顔をしつつも、内線電話でチェックアウトのコールをした。

　外に出た俊介たちは自然にタクシーのある方向へと歩いていた。恋人同士のように季子の腕が俊介の腕に絡んでいる。
「ねえ、もう一件いこう」
　季子が甘えた声でいう。俊介の中にもしかしたら、季子とＨできるかもしれないと邪まな考えが浮かんだ。こんなチャンスはめったにあるものではない。快くその誘いに応じた。