「ごめんね。俊介と一緒に仕事ができないのは残念だけど……やっぱり、会社に行く気にはなれない」
　どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、ようやく季子の口が開いた。
「……」
　予想していた答えだ。季子の気持ちになり考えてみると、二度と奴の顔を見たくないということは当然だろう。自我を殺し、彼女への労りを優先させるのならばその気持ちを受け入れるべきだ。
　しかし、季子のいなかった営業部に、僅かな時間でさえやりようのない寂しさを感じた。胸が張り裂けるのではないかと感じるほど苦しく切なかった。
　その結果、ここに来たのだ。
　季子のいない会社。考えられない。想像さえしたくない。もう、せつない思いは嫌だ。
　それだけではない。私情を捨てた上司としての立場からみても、彼女に辞めてもらっては困る。そう、季子が営業部に来たときから皆の士気はあがり、売上が伸びたのだ。もし、彼女にこのまま辞められたら、もとのダメ営業部に戻るのは目に見えてる。今や、季子は営業部にとって華であり、いなくてはならない存在である。
　
　俊介は自我を優先させた。しかし、感情を剥き出しにしない上司としての立場からだ。根気よく理論だて季子を説得しはじめた。
「……わかってくれたかなあ。俺だけではないんだよ。みんなが君を必要としているんだ」
　どれくらい話したのであろう。自分でも驚くほど饒舌に話せたと思う。
　後は、季子の答えを待つだけだ。季子の瞳をじっと見つめた。

「そんなに困らせないで……頭がパンクしそう……お願い、これ以上、私を追い詰めないで……私がいなくたって、きっと上手くいくよ……だから、みんなにはごめん……」
　季子の答えに、俊介の感情が湧きあがった。
「わかった！　正直に言うよ！　巧くいえないけど……俺は季子に辞めて欲しくない。好きで好きでたまらない！　一秒たりとも離れたくない……好きだ……愛している……絶対、俺が守るから……」
　もう、格好つけている場合ではなかった。飾らない、感情を剥き出しにした言葉が自然と出た。スマートではない。だが、それが本心だった。
「……ほんとに、守ってれる？　でも、わたし自信が無いの……あいつと会ったら……わたし……」
　季子の心が揺れているようだ。
「わかってる。それ以上言わなくてもわかってる……でも、俺に挑戦させてくれないかなあ……俺が絶対！　季子を守る……いつも俺が傍にいるから……それでも、耐え切れないようなら、いつでも言ってくれ。その時は俺も覚悟を決めるよ」
「わかった……その言葉、信じてるから……」
　ようやく季子の沈んだ表情が崩れた。
「絶対、守ってやるから」
　俊介は呟き、季子の背中に両腕を回しギュッと抱きしめた。　

　そして、その夜、俊介は妻に二度目の嘘をつき、再び季子と二人だけの夜を過ごした。

　火曜日の朝。俊介は季子と共に路上に駐車していた車に乗り込んだ。
　キーを回し、エンジンが温まるのを待つ。
　助手席に座る季子を見ると震えている。通風口から出る風はまだ冷えている。暖房の温度をあげた。
「寒い？」
「寒くはないんだけど、どうしてだろう？」
　全身ががくがくと震えている。その震え方は尋常ではなかった。躯が会社へ行くことを拒否しているのだろうか。
「俺がついているから、大丈夫」
　俊介は言い、ギアをドライブにいれ、震える季子の手を握りアクセルを踏み込んだ。
　３０分ほど走った。昨夜、打ち合わせた人通りの少ない場所が視界にはいった。季子の震えも収まっている。
　目的地についたので、車を停めた。すると、再び、季子は全身を震わせた。唇が振るえ歯と歯のぶつかる音がする。
（やはり、無理なのだろうか）
　ずっと、握っていた手に力を込めた。
「大丈夫？　落ち着いて」
　季子は頷き、大きく息を吸って吐いた。
「だめっ、どうしたんだろう？　震えが止まらないの」
「俺がついているから」
　俊介は震える季子の肩を引き寄せ、唇を重ねた。突然の行為に季子は目を大きく開き、戸惑ったようだ。そっと唇と唇が触れる優しくキス。季子の瞳が閉ざされた。季子の全身を覆った震えが沈静化していく。震えが止まった。そっと、唇を離した。季子の頬はほのかな赤みを帯びている。
「ばか……見られちゃったよ」
　車窓越しに、ごみ捨ての帰りだろうか、目を丸くしたおばちゃんと視線が交わった。おばちゃんは気まずそうに車の横を通り過ぎていく。
「ふっ、ふっ……」
「はっ、はっ……」
　二人は目を合わせ、小さく笑った。
「どう、一人でいけそう？」
「うん、大丈夫だよ。また、震えたらお願いね」
　季子は笑顔で言い、大きく呼吸し、車から降りた。

　いつもの笑顔を浮かべた季子に安堵した。季子は振り返ることなく歩を進めている。とりあえず、第一段階はクリアしたようだ。ここから、１０分ほど歩けば会社へ着くだろう。
　次は第二段階だ。季子より先に会社の駐車場へいかなければならない。サイドブレーキを下ろし、ギアをドライブへいれ、車を走らせた。
　
　駐車場の所定の位置へ車をとめエンジンを切った。数台の車が駐車している。既に何人かは出勤している。
　ここに面した道路で季子と待ち合わせることになっている。
　俊介はブリーフケースを右手に持ち、車から降りた。すると、同僚の車が入庫してきた。経理部の女だ。軽い会釈を交す。
　やはり、季子と同乗してここまで来なくて正解だ。まだ、通勤ラッシュとはいかないが、ボツボツとやってくる同僚たち。もし、彼らに見られたら、あらぬ疑い？　いや、あるのだが……。つまり、社内では二人の関係を秘密にしていたいのだ。もちろん、それは俊介に家庭があるからだ。
　しかし、通勤路で同僚とばったり会い、共に社屋に向かうことなどよくあることだ。アクシデントが無い限り、同じ時間に家を出て同じ道を通るとほぼ同じ時間につく。通勤路であう人間もだいたい一緒だ。
　であるから、社内の人間に見られたとしても何ら問題はないだろう。まして、俊介は季子にとって直属の上司にあたるのだ。偶然あい、二人で歩いていても誰も違和感を覚えないはずだ。
　俊介は駐車場を出て左から来るであろう季子を探した。
　まだ、出勤時間には早い方であるから、それほど人は歩いていない。
　背後から車のドアの閉まる音が聞こえた。さっきの女性だ。
　何もすることなく、ここで佇んでいるのは不自然だ。とっさにジャケットにポケットから携帯電話をとりだし、耳にあてた。
「あっ、おはようございます……はい、はい、その件ですが……」
　もちろん、相手はいない一人芝居だ。
　女性は再び会釈し、とおり過ぎた。
　季子の姿が見えた。
　こっちに気付き、笑みを浮かべた。心なしか、季子の歩が早まったような気がする。携帯は耳にはりつけたままだ。季子が目の前に来た。携帯を閉じ、ポケットへつっこんだ。
「おはよう！」
　ワザとらしい挨拶に照れを隠せずに、頬肉が緩んだ。
「おはよっ」
　そんな大根役者のような演技に季子の目じりが下がった。緊張が一気にほぐれたかのような笑顔だった。

　そして、躯を寄り添いながらとはいかないが、二人並んで社屋へ向かった。
（ここまで、しょうた作）

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
（ここから、にゃんこ作）

　会社の玄関を入ったときだった、あいつが現れたのは。
「君ぃ、ちょっと！」
　部長が季子を手招きながら近づいてきた。季子は凍りついたように動かなくなった。

　あわてたのは俊介だった。季子を守らなければならない、俊介は季子と部長の間に割り込んだ。
「部長、用があるなら、私が聞きましょう！」
　だが、部長は俊介を無視するように、季子の手首をつかみ連れて行こうとした。
「部長、やめてくださいよ、嫌がっているじゃあないですか！」
「じゃまだ、あっちいってろ！」
　部長は相当量のアルコールを飲んでいるようだった。
　吐く息が、へどが出るほど臭かった。
　なおもしつこく、季子の手首をつかんだまま、連れて行こうとする。
「部長だめですよ、そんなことをしたら！」
　季子のつかまれた手首が痛々しそうだ。つかんだ部長の手を振り解こうとしたが、振りほどけない。
「こらぁ！　何をするんだ、部長、キサマーそれでも、男かぁ！」
　俊介がついに、怒鳴り声をあげた。
　それと同時に、部長の胸倉をつかみにいった。
　すでに、会社の玄関に入っている、数人の社員が何事が起こったのかと、振り向いていた。
「なんだとう！　お前か、この女の男と言うのは！」
　胸倉をつかまれながらも、部長は血相を変え怒鳴り返してきた。
　彼はズボンのポケットにある何かを取り出したようだ。
　そして、次の瞬間、季子の悲鳴が起こったのである。
　俊介は最初、悲鳴を聞いて、何が起こったのかと思った。
　だが、それが、自分の身の上に起こっている不幸だと気づくのに、たいした時間はかからなかった。
　部長の手にもたれている果物ナイフが、俊介の腰を一突きにしていた…。
「ぶ、部長…」俊介はそれに気づき、悲しげな目で彼の顔を見ていた。
　まさか、ここまでするとは俊介も思っていなかった。
　季子はその光景を呆然と見詰めていた…。
　俊介はだんだんと、頭がぼんやりとしていくのを感じていた。
　目の前が闇に包まれていく…。

　エピローグ

　顔を誰かの手でなでられているような気がした。
　次に鼻をつままれた…。
　息が苦しくなって、その手を振り解いた。
　クスクス…と言う笑い声がする。
「ママ、パパが気がついたよ」と、子供の声がした。
「真一、パパにいたずらをしたらだめだよ」
　もう一人の子供の声が聞こえる、こんどは女の子だ。
「うん、だけど、パパは悪い人だから、懲らしめないとね」
「何を言っているのよ、真一もおねえちゃんのケーキを一人で食べたじゃあないの」

　俊介の二人の子供が言い争いを始めた。
「二人とも、静かにしなさいよ、パパが寝れないでしょう」
　女の声がした、季子の優しい声ではなかった。
　俊介は病院の一室にいることに気がついた。
　記憶がよみがえってきた…、たしか、部長に刺されたのだった。
　季子はどうしているのだろうか、無事なのか、部長に怪我を負わされているのでは…。
と、頭の中がせわしく回転しだした。
「あなた、起きられたのですか」
　さきほどの冷静な女性の声だった、俊介の妻だった。
「ああ、ここは、病院なんだな」
「そうです、驚きましたよ、あなたが、刺されるなんて、それも、上司の部長さんに」
「うん、季子さんは無事なのか？」
　言ってから、しまったと思った、親しげに名前を呼んでしまった。
「季子さん…ああ、あの方ね、あなたの不倫相手」
「子供たちの前で、そんな言い方はやめろよ」
「ふん、家族を裏切っているのは誰よ、あなたでしょう」
　そういわれると、俊介には返す言葉がなかった。
「季子さんは、無事ですよ、あと、部長さんは警察に連れて行かれました」
「そうか、無事なのか、よかった…」
「よかった…？　あなた、ご自分の立場がわかっていないようですね」
「どういうことだ？」
「一生車椅子で生活しなければいけないと、いうことですよ」
　それを聞いて、俊介は一瞬で目の前が暗くなった。
「ほんとうなのか？」
「うん…だけどこれも、自業自得ですわね、家族をほったらかして、若い女にうつつを抜かしていたからこんなことになったのです」
　俊介はため息をついた…、先を思考することができなくなった。
「私、家に帰っていろいろやらなければならないことがありますから、今日はこれで、帰りますね」
　そういわれて、不安に襲われた…、動けない恐怖がひしひしと体をさいなむ…。
　妻はそんな俊介をひとり残して、子供達をつれて自宅に帰って行った。

　俊介はバックから携帯電話を取り出した、季子の電話番号を探した。
　別に掛けるつもりはなかったが、いいや、一生車椅子と宣告されては季子に電話を掛けるのがむなしくなるだけだった。だが自然と、季子の電話番号を探していた。
　だけど、不思議なことがあるものだ、俊介の携帯電話に季子の電話番号が登録されていないのだ。何度探しても、なかった。
たしか、先日、総務の田中に問い合わして、季子の電話番号などを携帯に登録したはずなのに。
　もしや、妻が、季子の電話番号を消去したのかもしれない、と思った。
　そう思うと、季子に電話を掛けずにはいられなくなった。
　俊介は会社の総務に電話を掛けた。親友の田中を呼び出し、季子の電話番号を再び聞いた。
　すると田中は、お前何を言っているんだ、いま、会社がどんな事体になっているのか知っているのか！　となじられた。
　お前たちのおかげで、刃傷沙汰になり、営業部長は警察に連れて行かれているんだぞ。社長はかんかんだよ。部長はおろか、お前も責任を取らされるぞ、もちろん、あの女も会社を辞めなければならなくなるのは当然だよな。
　それを聞かされて、俊介は意気消沈となった。
　だが、それだけでは終わらなかった、俊介の気持ちが落ち込むのは…。

　翌日、妻がやってきた。
　携帯電話の件を聞くと、そうだよ、私が、季子さんの電話番号を消去したわよ、それがなにか？　と言われた。人の携帯電話を勝手にさわるな、と文句を言うと。
　妻はハンドバックから、ボイス・レコーダを取り出した、スィッチを入れた。
　そこには妻と、季子の会話が録音されていた。
「昨日、季子さんと会ったのよ、そのときの録音テープ、聞いてくださる…。」

「ごめんなさい、私が…」と、季子の声が入っていた。
「謝る事ないわよ、もう、すんだことだし…」
「どう、あなた、まだ、うちの主人のこと、愛していらっしゃる？」
「よかったら、譲るわよ、主人を。私、離婚してあげる、その代わりあなた、車椅子の主人を一生面倒見てくれるわね」
「車椅子、そんなにお怪我は重いのですか？」
「そうよ、誰かさんを守るために、怪我をしたのよ」
「季子さん、これから、あなたが、主人を守ってくださる？」
「そ、それは…」さすがに季子は口ごもった。
「なーんだ、だったら、あなたはうちの主人を愛してなんかいないのじゃあないの、おちんちんの元気な主人だけを愛していたのね」
「もう、わかったでしょう、主人には、二度と会わないでね、不倫なんてただのお遊びなんだから、私たちには生活があるのよ、これから、子供を育てなければならないしね」
「わかったわね！」妻の念を押すような声が聞こえた。
「はい、ご主人とはもう、二度と会いません…」
　消え入るような季子の声が悲しみを物語っていた。
　それで、録音は切れた。
「おまえな、これはなんなんだ！」
「あらっ、あなた、これから一人で生きていく気？　あなたが勤めている会社だって、こんなことになっているのだから、どうなるかわからないのよ、蓄えも少ないと言うのに、これからどうするのよ！」
　俊介は反論する気もうせていた。

　俊介は部長とは和解した、腰に受けた傷はたいしたことはなかった、妻に脅されたような後遺症も残らなかった。もちろん、車椅子での生活と言うのは妻の作り話であった。
　それに気がついたのは、一週間ほど後のことで、季子の電話番号を手に入れて連絡をしたときはもう、遅かった。電話は通じなくなっていた。
　彼女は会社を辞めアパートも引越ししていた。派遣会社さえも辞めていたのだ。赤い糸はぷつりと切れていた。

　部長とは和解したが、部長が会社を辞めたのは言うまでもない。
　それは俊介が刺されたことで、部長のセクハラが公になったこともある。
　季子だけと違って、ほかの女性へのセクハラも取りざたされた。
　だけど、部長だけと違って、季子も会社を辞め、今はどこにいるのかわからない…。

　俊介はやりきれない気持ちでいた。
　会社から関係者が来て、俊介に辞表を書くように勧めた。
　会社で不倫騒動を起こし、刃傷沙汰まで起こしたのである。
　部下への示しもつかない、士気も低下するだろう、誰も、俊介を上司とは認めない。

　俊介は絶望していた、精神的に参っていた。仕事も季子も失ってしまったのだ。

　だが、異変が起こったのは退院する前日だった。
　病院の前にある公園で俊介がベンチに座り、ひとりぼんやりとタバコを吸っていると、女が前から歩いてきた…。
　俊介はその女を見て、唖然とした、季子だった。
　季子はそばまで来ると、さっき、俊介の入院しているお部屋に行ったら、いなかったから探したのよ、と薄く笑った。
「俊介、歩けるんだね…よかった…」
「私、もう、俊介と離れるのはいや…不安で不安で、眠れない…」
　そういって、手を伸ばした。
　俊介はタバコをもみ消すと、季子のか細い手を握った。
「俺も季子と離れないよ、気が狂いそうだった…」
　立ち上がると、二人して、公園を出て行った。

　俊介が妻と正式に離婚したのは3ヵ月後だった。
　俊介もその妻も書類上のやり取りだけで、会うことはなかった。
　子供たちは妻が引き取った、以後父親に会っていない…。

エンド

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