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12 遺書
便箋の中身は”遺書”だった。”頭”は遺書とは書いてなかったが。
使用人としての私に対するこれまでの礼の言葉があった。
私の妻とのことに対し心から詫びていた。
伐採業者の”東郷”のことが書いてある。
うちと取引をしたがっていると、”頭”からだいぶ前に報告が上がっていた。
この村とは隣町だが間には県境があり、隣の県の住人だった。
村人は県内の町より人口十万のこの町を利用する。県は違うが生活圏は一緒だった。電車でも車でも一時間ちょっとで行けた私と文子が楽しく過ごす町でもあり、純一が通う学校もある。
東郷は抜き専門であこぎな商売をしていた。
”頭”を金で釣り駄目なら女で釣り、それでも駄目なら弱みを見つけ強請った。ヤクザともつながりがある。女癖も悪いという評判だ。昼間から酒の臭いをプンプンさせていた。
私は端から付き合うつもりはなかった。そして、何よりも文子が東郷を嫌ってる。
文子は業者とは、どんな相手とも仕事と割り切り好き嫌いなく接した。
が、東郷だけは玄関から上げない。この村でも泣かされた女がいた。
東郷は諦めず”頭”に接近した。常套手段を使ったが”頭”には通じなかった。
”頭”には強請るべき弱みも無かった。
民子のことが書いてある。”頭”の女房だ。
民子はだいぶ前から亭主と私の妻のことを知っていた。
亭主のあとをつけた。行き先は旦那の家だった。民子は自分の取り越し苦労だと思った。
しかし、亭主が旦那の家に行く時、旦那の車が無いことが多かった。
しばらくすると、居間の障子が閉まり、電気が少し暗くなる。
まさかと思った。
夫の下着を調べると情事の証拠があった。
夫の背中にも女の爪あとがあった。
民子は亭主に泣いて頼んだ。
女の嫉妬も勿論あった。しかし何よりこのことが世間に知れれば、この安定した生活が土台から崩れる。しかし亭主は耳を貸さない。
民子は隣町に出たとき、何かに誘われるように一人で飲み屋に入った。初めての経験だった。
わるい酔い方をした。
東郷がそこにいて女に隙を見た。こういう勘は鋭い。
女の素性を調べると”頭”の女房だった。そういえば見覚えがる。
東郷の筋書きどうりに民子は落ちていった。
田舎育ちで山村に嫁いだ世間知らずの女房をたぶらかすのは訳もなかった。
民子はいい男にちやほやされコロッと参った。亭主への面当ての気持ちもあった。
「私だって、その気になればこのくらいのこと出来るんだから」
一時の火遊びのつもりが、男に溺れた。ヤクザに証拠を握られ、快楽の奴隷に調教された。
東郷は写真を村にばら撒くと”頭”を強請った。
「やれるもんならやってみろ」
”頭”は落ちなかった。民子をも責めなかった。
東郷は民子をヤクザから買い上げ、自分のおもちゃにした。
民子は東郷にとって思ったよりもあっちの性能が良かった。相性も良かった。
民子は亭主と私の妻のことはもう終わったと思っていた。
亭主が旦那の家に行く時は旦那のいる時になっていた。二人きりになる時はなかった。女の影は感じたが別の女だと思った。詮索する気もなかったし、もう詮索できる立場ではない。外出が多くなり、たまに亭主に抱かれた時必死に押さえたが、以前とは反応が全然違うことが分かるあはずだ。
亭主は何も言わなかった。それが不安だったが、東郷から呼び出しがあると断れなかった。
強請られているからばかりではない。もう断れない肉体になっていた。
俺は改めて映像を見た。
モザイクのかかった女が民子だ。記憶の中に面影がある。
ガマガエルの男が東郷だが、俺の記憶には全然なかった。
母とあの男の映像にはある種の美しさがあった。父の写し方も編集もいいのだろう。
民子はそれなりに男好きのする顔立ちと身体だったが母の比ではない。
母は子供を二人も生んだとはとても思えない体の線を保っていた。
民子の身体の線は年相応に崩れていて乳首も黒ずんでいる。肌の色も黒い。
あそこは母ほど毛深くはないが、全体に黒ずんだ色をしている。
複数のプレイの時、東郷は最初は写っていない。
参加していないが声で部屋にいるのが分かる。
椅子に座って酒を飲んでいる姿が写っているのがあった。
自分は参加せず、男達に民子を猫がねずみを嬲る様に虐めさせた。
部屋もそういう部屋だった。女を辱める格好で縛り付けるパイプで出来た椅子や木組みがあった。それに向かい合うように壁に鏡があり、天井からは鎖が下がっていた。仕切りのないトイレや風呂、シャワーの設備が部屋の一角にある。壁やテーブルには鞭やロウソク、浣腸の道具などの女を責める道具がいっぱいあった。音の反響から、壁のレンガや床の石は本物らしい。もちろん粗末だがベットもある。俗に言うＳＭ部屋であった。
民子はその部屋にふさわしい真性のマゾヒストだった。
男達もそういう方面のプロなのだろう。縄の縛り方、女のつるし方、いたぶり方が手馴れている。
民子は男達の責めに悲鳴を上げ、皮膚からは脂汗が出ていた。
だが、目の表情は消されていてもなお、顔のアップはマゾの悦びを伝えている。民子は責められれば責められるほど、見るものを引き込む何かがあった。浣腸され身体を二つに折られ肛門を上に向けられ、自分のはじき飛ばした汚物にまみれている写真もあった。
前の穴を男達に徹底的に犯される。同時に二人の男のモノを二本入れられることもあった。民子が出す悲鳴や悦びの声が部屋にこだました。声というより吼えていると言った方があたっている。
散々民子がいたぶられ、民子の中のマゾの火が燃え上がってから東郷が登場する。
東郷のモノは身体そっくりだ。根元が異常に太い。円錐形をしている。
まず民子に口で奉仕させる。
そして、それが民子の肛門にねじ込まれていく。
潤滑油は使わない。その摩擦を、民子の苦しむ表情を楽しんでいる。
後ろからのときもあれば、正上位の形や騎乗位で民子が自分で腰を沈め入れる時もある。
二人だけで写っている事はまずない。民子の口は他の男の口かモノでふさがれている。男の手が何本か民子の身体を愛撫している。勿論、民子の前の穴が空いているということは無かった。
東郷が仰向けに寝てその上に民子も仰向けに寝て肛門で繋がり、前の穴を男に舐められている。
そして、男のものが入る。口にも入れられる。必ず前後の穴に刺入れられたアップが写されている。刺している男達や民子の入り組んだ手や足の間から、民子がカメラに向かい笑っている写真もあった。
父は”頭”の遺書の続きを読んでいる。
民子は文子を憎んでいた。
奥様はますます華やいで綺麗になり、旦那さんに大事にされ幸せそうにしている。
私はなんとか世間体は保っているが、ここまで落ちている。
元はといえば奥様がうちの亭主をあんなに夢中にさせたからだ。
奥様だって十分に楽しんでいた。私が見つけた証拠を見れば判る。
亭主の下着には女の悦びの汁がこびり付いていた。あんなにたくさん。
亭主の背中には女が爪でかきむしった赤いスジが無数にあった。
両方の尻に黒くなったところが点々とあった。女の爪が食い込んだ跡に違いない。
この証拠は女がどういう状態のときにできるか、今の私ならわかる。
なのに私の前で、旦那様の前でしゃーしゃーとしている。
今は終わっているかも知れないが許せない。
民子は東郷に寝物語に話した。
東郷の目が光った。民子は今は終わった、女はいるが別の女だといったが、東郷の勘は違う。
東郷の執拗な調査が始まったが、不倫の証拠は見つからなかった。カケラも無い。
興信所も入れた。しかし、”頭”と文子が二人だけになる一瞬すらなかった。
昼間、旦那の家に長居することがあったがそのときは旦那もいた。
山持ちの旦那と頭が月に一度か二度仕事の話で長時間過ごすのは不思議ではない。
民子が言う”頭”の今の女も出てこなかったが、さすがの東郷も諦めかけた。
東郷は日曜に村を通った時、”頭”が里山を歩いているのが見えた。仕事着を着ている。
”ニヤッ”と笑うと、東郷は”頭”の家に車の行き先を変えた。
”頭”の家で民子を慰み者にした。久しぶりに見る民子の本気の抵抗が面白かった。
結局、民子は肛門を東郷に刺され淫らに燃えた。
ほつれ髪を直しながら、身繕いをする民子に”頭”の行き先を聞いた。
民子が言う外出先は、東郷が見た”頭”の向かった先と逆方向だった。
東郷は”頭”の家を飛び出すと里山の入り口へ車を飛ばした。車を降りると短い足で急いだ。
里山を昇りきると下の窪地に山小屋が見える。
東郷は荒れた息を整え、注意深く山小屋に近付こうとしたがあわてて藪陰に身を隠した。
山小屋の戸が開き女が出てきた。”頭”の主人の女房だ。自分の家に帰って行く。
東郷は山小屋に近付き中を覗いた。
”頭”が布団に寝てタバコを吸っている。上半身は裸だった。
東郷は山小屋の戸を開けた。
”頭”はそのままの姿勢で東郷を見た。
東郷の手にはひもが絡まりその下でカメラが揺れている。
”頭”は東郷の顔をもう一度見た。
勝ち誇った顔が言っている。
「俺の今の狙いは抜きのはした金じゃあない。あの家の全財産とその妻の肉体を奪い取ることだ」
”頭”は東郷と組んだ。
東郷は計画を話した。何時もの荒っぽい常套手段だった。
私の妻にも民子と同じ目に遭わせるつもりだったのだ。
”頭”は主人の山の中の一つの権利を東郷名義に変えて言った。
「俺が全部任されている。少し時間は掛かるがあんたと俺だけで思い通りになる」
そして”頭”は東郷に文子の裸を風呂の覗き穴から見せた。
そのあと二人は飲み屋で酒を飲んだが、あの饒舌な男がほとんど口を聞かなかった。
女に目の肥えたこの男にも文子のヌードはことの他素晴らしいものだったようだ。
東郷はヤクザなどは使わずに私の妻を自分の手で一から仕上げることにした。
”頭”はその他にもいくつか手を打ち東郷を信用させ、主人の家の”実害”を最小限に食い止めた。そして他の人間をこの計画に入れさせないことに成功した。
文子を騙してＳＭの部屋へ連れて来るように東郷は”頭”に言った。
”頭”は条件を出した。
自分の分け前の数字を出し要求した。
民子の写真やネガを全部渡すこと。
東郷は条件を飲んだ。数字も妥当な線であったし、いまや民子などどうでも良かった。飛切り上等な獲物が目の前に運ばれて来る。東郷は”頭”も御身大事のただの男だと甘く見た。完全に油断をした。
文子がＳＭ部屋へ連れて行かれる日が来た。”頭”が死んだ前日の日曜日だ。
その日、妻は町で私と楽しい一日を過ごしていた。妻の代わりにパイプの椅子に惨めな格好で縛られたのはガマ蛙だった。”頭”をただの男だと甘く見たことをガマ蛙はどれだけ後悔したことだろう。
ガマ蛙は攻められる側の立場に初めてなった。それも生半可な攻めではなかった。攻める側の恨みと怒りがこもっていた。遊びではない。責める男は言った。
「これは女房の分だ」
ガマ蛙も負けていない。責める男を大声で罵倒する。しかしすぐ悲鳴に変わった。
部屋が静かになった。失神したのだろう。水が飛び散る音がした。
「これは俺の分だ」
絶叫の間に、ガマ蛙の命乞いが涙声で繰り返され何回も失神した。
最後に山小屋の写真の在りかを言わされた。
ガマ蛙はない物の在かはどんなに攻められても言えない。
長い間、絶望的な絶叫が部屋に響く。絶叫の主が誰も助けに来ないのを一番知っていた。
次の弱々しい言葉がガマ蛙の最後の言葉だった。
「もういいだろう。楽にしてくれ。頼む」
一時間のテープを大分残して録音は終わっていた。
”頭”は東郷の件で三つのことを私に詫びた。
一つは東郷に見られた山小屋の一件だ。
その頃、私と妻と”頭”のプレーで”頭”の立場は悲惨なものだった。
文子は”頭”のあそこを使い私とセックスをしていた。
”杏子”は今では完全な私の味方、同士だった。
”蘭子”は唯一、”頭”の味方だったが、”蘭子”でいられる時間はどんどん短くなっている。
そして、今の”蘭子”は潤いのない性に飢えたメス豚だった。
”頭”はもう判っていた。文子だと思って抱いていたのは”蘭子”だった。
”蘭子”の甘え、恥じらい、艶かしさなどの女らしさが文子に移った。
”頭”は私に禁じられていたが以前のように妻と二人だけになりたかった。
”頭”は”蘭子”を呼び出す魔法の言葉を今は知っていた。
”頭”はある時、抵抗する文子の耳元で、ある言葉をささやいてみた。意味はわからなかった。
「そーにゃーそーにゃー」
途端に文子は”蘭子”に変身した。
その言葉は、”頭”にあの儀式をされ、”蘭子”に変身する時文子自身がつぶやく言葉だった。
”頭”はあの日文子に電話し魔法の言葉で”蘭子”を山小屋に連れ出す。私は日曜出勤だった。
しかし山小屋で二人きりになっても、”蘭子”は以前の魅力的な”蘭子”にはもどらなっかった。
苦い思いで、初めて妻を犯した時を思い出していた。
そこに東郷がカメラをぶら下げ現れた。
一つは風呂の覗き穴のことだ。
”頭”はこれまで私に正直に告白していない。
”頭”にすればこの覗き穴がすべての始まりだった。
最後は東郷から山小屋の証拠写真を回収できなかったことだ。
もし、出てきたら申し訳ないと”頭”は書いてある。
あれだけ責めても白状しないのは初めから撮ってなかったという東郷の話が本当かもしれない。
そのカメラがあの部屋にあったので、”頭”がシャッターを押してみた。大きな音がした。
この音なら撮られた時に気づくはずだと”頭”は書いてある。
私も東郷は写真を撮っていないと確信した。あの録音の責めに耐えられるはずがない。
私も戦争に行っている。触れたくない過去だが拷問の専門的な知識も経験も多くある。
東郷は嘘をついてはいない。
そして戦争の経験から死んでも裏切らない人間のタイプを私は知っている。
”頭”はそういうタイプの人間だ。だから一切を任せた。男と女の間のことは別だと勉強したが。
東郷は女を見る目はあったが、人間を見る目はなかった。
もう一つの封筒の表にはこう書いてあった。
「警察が容疑者として私を訪ねて来たら渡してほしい。それまでは開封しないでほしい」
内容は自分のやったことが正直に書いてあり、私たち夫婦まで影響が及ばない内容である筈だ。
最後に民子と子供のことについての願いがあった。
夫を裏切り、雇い主の家庭を崩壊寸前まで追い込んだような女ですが元はといえば自分が原因だ。
親子が困らないだけの蓄えは残してあるが、世間知らずの女ですのでよろしくとあった。
この地にいると民子の過去を弄ぶ者も出るだろうから、離れたところに行かせてほしい。
そこで立ち直れるかどうか判らないがそれは本人の問題であり、私にその面倒までは求めない。
”頭”の葬儀の後、何日かして民子に会った。もう落ち着いていた。
民子は文子のことを除いて東郷とのことを全部私に話してくれた。遺書通りだった。
そして、”頭”が死ぬ前日の民子しか知らない日曜日の話もした。
午前中、”頭”は民子を手伝い家の内外の片付けをした。これは珍しいことだ。
午後は仕事着で出かけた。これはよくあることだった。
月曜日からの仕事の準備のためであったり、自分の山の手入れだったりした。
夫を送り出すと、民子は隣町へ買い物に行った。
電車を降り、駅の待合室から駅前広場に出ようとした時、前を自転車が横切った。
三日前に盗まれた息子の自転車だ。民子が書いた息子の名前がある。
男が乗っている。
「泥棒」と言おうとして息を呑んだ。男の背中は夫そっくりだった。いや夫だ。
しかし、よほどの知り合いでもすぐには夫と判らないだろう。夫の着るものはすべて民子がそろえている。男は民子の知らないしかも夫の趣味でない服を着ていたし、夫なら決してかぶらない帽子をかぶり、黒ぶちのメガネをかけていた。
駅の横にある自転車置き場に夫は自転車を置いた。そして電話ボックスに入り電話を掛けた。
すると東郷の運転する車が来てメガネを外した夫を乗せた。東郷はご機嫌な顔で夫に話しかけている。やがて車は民子の視界から消えた。
民子は知り合いの女房に声をかけられ我に返った。村の駅を降り自宅に向かい歩いている。
手には買い物袋がぶら下がっている。
民子は家に帰っても何も手につかなかった。
村にいるはずの夫が町にいた。
夫があの時間に隣町にいるためには民子と同じ電車に乗るより方法はない。
次の電車は一時間半後だし、この時間に着くバスもなかった。まして自転車ではとても無理だ。
第一、盗まれたはずの息子の自転車になぜ夫が乗っているのだろう。
変装をしていた。何のために。
もしかして女と思ったら、東郷の車に乗り込んだ。毛嫌いしていたあの東郷の車に。
何一つ疑問は解けない。
しばらくして夫は帰ってきた。出たときと同じ仕事着を着ていた。
いつもと変わらず、風呂に入り、晩酌の酒を静かに飲んだ。
民子は疑問を聞くことができなかった。
その晩、本当に久しぶりに民子は夫に抱かれた。
最近は抱いても、終わると背中を向ける夫だったがその晩は違った。
民子をやさしく抱いて自分達の馴れ初めや、新婚時代のこと、子供のことを楽しそうに話した。
最後に夫は言った。
「俺がいないとき何かあったら、前から言ってあるようにすべて旦那の言うとおりにしろ」
民子は思った。
「ああ、この人はすべて知っている。そして許してくれている。だけど遠くに行ってしまうだろう」
次の日、暗くなっても夫は帰らなかった。二番頭に電話した。
すでに、東郷が昨日交通事故で死んだという話は平和な村を駆け抜けていた。
民子は一睡もできなかった。身体ががたがたと震えた。
それから葬式が終わるまでのことはほとんど覚えていなかった。
民子は私にお茶を入れ替えてくれた。
中学生の一人息子が息せき切って自転車で帰ってきた。うれしそうだ。葬式以来の笑顔だ。
「見つかってよかったなー」
民子は自分をも元気付けるように息子に言う。
盗まれてすぐに交番から町の駅で見つかったと知らせがあったが父親の葬式で行けなかったのだ。
私がいるのを見るとぺこりと頭を下げ、仏壇に向かい線香を上げた。
「あったよ、お父さん。どこも痛んでいなかったよ」
利発そうな顔をしている。学校でも評判の優等生だと文子から聞いている。
「楽しみだねー。息子さん」
「まだまだ子供で」
息子は表で自転車を磨いている。一心不乱に。
父の死、これからの不安を一時でも忘れるためのように見えた。
息子を見る民子の顔にはこれからの人生の荒波に立ち向かう強い母親の気力があった。
ヤクザが動き始めている。一刻の猶予もならなかった。
ヤクザが狙っているのは、”頭”の残した遺産と商品としての民子の肉体だ。
優秀な”頭”には相応しい蓄えがあった。自分名義の山もあった。すべて真っ当な働きによるものだ。それは私が一番よく知っている。
私は本題に入り、民子にこの町からすぐ出るように説得した。貯金も現金も衣服もそのままにして行かせた。もちろん山も。代わりに当座の生活費として私の金を持たせた。東郷が”頭”に払うつもりだった分け前より多かったろう。
”頭”のお骨は墓がないので墓が出きるまでお寺に預けてもらっていたがそのままにさせた。
これには民子は泣いた。
私は表面上民子のために動かなかった。
遠くにいる私の戦友に民子の住居、働き口、子供のことすべてを頼んだ。
戦友は私を命の恩人と思っている。何より信頼の置ける男だった。
その上で、私は警察に民子の捜索願を出した。警察にも無理の言える立場になっていた。
役場や学校にヤクザは民子と子供の行き先を調べに来たが、すぐに警察が飛んできた。
ヤクザもやがて諦めた。
何年かして、民子はすべてを話した上で、妻に先立たれていた戦友と再婚した。
用心のため文子の葬式には出席させなかったが、後で夫婦で来てくれた。幸せそうだった。
もちろん今は、”頭”のお骨も収まるべき墓があり、”頭”の遺産はすべて民子の元にある。
私は”頭”にほんの少し恩返しができた。
東郷の死についても、警察は事故と事件の両面で調べていた。
東郷の乗った車は五十メートルの高さを転げ落ち川原の大きな石の上で大破していた。
東郷はその車の中に閉じ込められ死んでいた。同乗者はいない。
血液からアルコールが検出された。
飲酒運転による事故の可能性が大だった。飲酒運転の常習者として警察にマークされていた。
しかし東郷の身体には事故の状況から不自然な損傷があった。
めったに起きないだろう複雑骨折が何箇所かあった。
片目が飛び出していた。
手の指が一部欠けていたり、あっても爪がはがれていた。
睾丸がつぶれていた。
東郷の情報が警察に集まった。
金銭、恨み、女。何回殺されてもおかしくない男だった。
私の所へも刑事が来た。それまでなかった東郷との取引が事故の直前にあったからだろう。
”頭”の遺書と一緒に入っていた東郷との取引の書類を見せ、私は言った。
「条件が良かったので今回は取引しました」
確かに書類上は私の方が分のいい契約になっていた。金の動きも帳簿上は不自然なところはなかった。
もちろん、私にはアリバイがあった。私に代わって実際に取引をした今は亡き”頭”にもアリバイがあった。その日の午後自分の山に向かう”頭”を村人が何人も見ていた。
型通りの捜査でそれ以後、”頭”の件でも、民子の件でも警察は来なかった。
それぞれの死を扱う警察が県を跨いでいたのも幸いしたのだろう。
東郷が事故を起した場所は県境の向こう側だった。
私は推理した。
”頭”は東郷が私の家に狙いを定めた時、東郷と刺し違えることを覚悟した。
殺人と自殺でも良かったが、民子や息子の為、主人の家の為にも事故のほうがいい。
滝つぼの上に仕事をわざと残した
日曜日の午後を東郷との対決にあてた。
この村と隣町との間の県境には急峻な山がある。
この山のために線路も道路も大きく迂回をしなければならなかった。
この山にトンネルを開けるのが村の悲願であり、開けばこれまでの半分以下の時間で町に行ける。
尾根を越えると下りに向いた山道があっる。
その山道の途中からは、運転が上手なら自転車で下ることが出来るかもしれなかった。
山道を歩くと村から尾根までは時間が掛かるが、深い谷の上を超えられればすぐに尾根に行ける。
”頭”の腕ならロープが何張りかあればそれが可能だろう。命がけではあったが。
山道には息子の自転車と着替えと変装の道具が用意してある。
これなら道路を通らず知っている人に会うことなく時間もかからず隣町にいける。
”頭”にとってすっかり油断した東郷をＳＭ部屋のパイプ椅子に縛り付けるのは訳ない事だろう。
ことが済んだあと、東郷が事故を起すところまで車を運転するだけだ。”頭”は免許はないが車の運転ができた。仕事で危険な山道を上手に運転した。当時はそういう人間が多かった。そこから道を外れ山を少し登れば、昼間来た山道にぶつかりすぐ尾根だ。仕事着に着替え、ロープを片付けながらもどった。東郷の身体を傷つけるのはまずいと思ったが押さえることができなかったのだろう。
私は”頭”のことを思わない日はない。
今は開通している町へのトンネルを通り隣町へ向かう時、あの日を思い出す。
”頭”が命がけで谷を渡り東郷と修羅場を演じた日、私はのん気に妻と楽しい時を過ごしていた。
”頭”の一日と私の一日、天国と地獄ではないか。
青空が抜けるような日は”頭”が逝った日のことを思う。
あの日は梅雨の合い間、久しぶりの青空だった。
”頭”は文子にカバンを渡し、例の会話を交わしてあの滝つぼに向かった。
丘を登ると私の家の全景が見える。
あの山小屋の脇を通る。
里山を登りはじめると”頭”の家が見えてくる。
つづら折の道が続く。
青空に浮かぶ白い雲。薄緑色から紺色までの幾つもの色が山々を染めている。
里山に囲まれた村。真ん中を流れる小川。
”頭”が流れ着いた昔と変わらない落ち着いた山村の佇まいが眼下に広がる。
本山（ほんやま）に入ってもしばらくは振り返れば見える。隠れては見え、隠れては又見える。
使用人としてではなく、自分のプライドをかけて磨いた鬱蒼とした林の中を登ってゆく。
滝つぼの上に着き、最後の仕事を完璧に済ませた。
死を覚悟して滝つぼを上から見下ろした。
後悔はなかったのか。
躊躇はしなかったのか。
涙は流さなかったろうか。
叫び声を上げなかったろうか。
妻や息子の名を何度も呼んだろうか。
家族を私に託すことに不安はなかったろうか。
私のことをほんの一瞬でも頭の隅に思ってくれたろうか。
命がけで守った文子に最後に会った時、もっと増しな事が言えなかったのか。
”頭”は一人ですべてを済ませ旅立った。命と引き換えに。
私にも何かをさせてほしかった。そうすればこんな重い荷を背負わずに済んだろうに。
私は”頭”に完全に負けた。人間として、男として。
酒に溺れ頭が朦朧とした時には卑怯にも私は思った。
「もっと前に俺の手で”頭”を殺しその罪に慄くほうがどんなに楽だろう」と。
”頭”は残忍な犯罪者かもしれない。一人の人間を騙し事故に装い殺めた。
しかし、私は何十人もの無抵抗な人間をなぶり殺しにした。拷問と言う卑劣な方法で、国家の名の下に、軍の権力に守られ。
そういう時代だったと自分に言い聞かせ、深いところに押し込めていた記憶が蘇り私を責めた。
「お前だけがのうのうと生きている」
その罪の重さに押しつぶされそうに喘いでいるのに”頭”はその上にどさっと新しい荷を乗せた。
それでも妻の笑顔だけが背負い子の紐が食い込む肩の痛みを和らげてくれた。
「奥様と末永くお幸せにお暮らしください」
遺書の最後に書かれていた言葉だ。
私は誓った。
妻をそして民子とその息子の幸せのためにを私に出来ることの何一つ欠いてはならない。
俺がこの後のフォルダーの中身を全部見て、パソコンの電源を切った時には窓から朝日が射していた。俺は増設ハードディスクを外すと、その中身をバックアップしてある「ＣＤ、ＤＶＤ」を探し出しそれらを庭に持ち出した。 納屋にあった灯油をそれにかけると火を点けた。黒い煙が青空に吸い込まれるのをしばらく見つめていた。やがて見えなくなった煙が私の肩に圧し掛かってくることを私は覚悟した。
玄関を開け家の中に入るとおかあさんが食堂から出てきた。
「どこに行っていたの。ご飯ですよ」
「うん」
皆テーブルに着いていた。
お父さんは新聞を読んでいる。
舞は相変わらずのおしゃべりだ。
僕はおかあさんに小さい声で言った
「おかあさん」
「なーに」
舞いのおしゃべりが止み、父もこちらを見た
「…ううん」
「変な子ねー」
もんぺの上に真っ白な割烹着のおかあさんが笑った。
俺は皆様にまだまだお話しなければならない。
母が蘭子に変わる時に口にする「そーにゃーそーにゃー」の意味を。
母が父に語った子供時代から結婚するまでの話を。
”頭”が死んだ後もまだまだ続く父と母と蘭子と杏子の壮絶な物語を。
お気付きのとおり、母と解離性同一性障害(多重人格)との関係についても。
疑問を解く上の鍵が揃った時に明らかになる父と母の美しくもく恐ろしい運命。
しかし帰りの時間が迫っていますし、正直のところ私は今、話す気力もないほどに打ちのめされています。後日お話しするということで今日のところはご勘弁願いたい。
玄関で靴を履き立ち上がると後ろでまた母の声がした。
「純ちゃん、いってらっしゃい。早く帰るのよ」
「おかあさん、僕は、僕はおかあさんが今でも大好きだよ」
さっき言えなかったことを言って、思いっきり抱きつこうと手を広げ振り返った。
母の姿はなく障子越しのやわらかい光の中で家の中は静かさに満ちていた。
-完-
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