6　証拠

　俺はまぶたの上から目を押さえた。時計を見た午後一時だ。　二時間眼球の動きはディスプレーの範囲だけだった。父の葉巻を吸った。何年も禁煙しているが目まいは葉巻のせいだけではない。
　memo.txtと言うテキストファイルを閉じた。
「父の心を想像した」と書いたが実はこのmemo.txtの内容を書いていた。

　ハードディスクにいくつかあるフォルダの名前を見た。年月日をその名前にしているのがすぐわかった。一番古い”**-09-08”という名のフォルダを開けてみた。俺が初めて母の浮気を見た日よりも三ヶ月前だった。
　ここにもmemo.txtがあった。父の驚きと怒りとそして嫉妬が渦巻いていた。

　この年の七月のある日にこんなことがあった。
　父はその日役場で残業していたが電気設備が故障してやむなく家に帰った時があった。車を降りて庭に出ると居間が何時もより暗いような気がした。
　小玄関を開けると”頭”のぞうりがあった。
「来てたのかい」障子を開けた。居間はいつもの明るさだったがテレビの音が大きかった。
　”頭”が座るとこだった。ポケットから白い布が少し出ている。
　電燈から下がったスイッチの紐がゆれている。テーブルには酒が出ていた。

　子供部屋のほうの障子が開き母が入ってきた。
「お帰りなさい、早かったんですね。今、”頭”が来たって電話しようと思ってたんですよ」
　母の声は落ち着いていたが目はテーブルの下の何かを探していた。
「そうかい」父は奥に着替えに消えた。障子を閉め足を止め全身を耳にした。
　テレビの音が小さくなり押し殺したような母の声がした。
「どこ、…やめて！」
　疑惑の扉が開かれた。

　父は以後、テープレコーダをセットし残業のたびに居間の音声を録音した。
　しばらく何も起こらなかった。二人の間には何もないのか。それとも警戒してるのか。九月四日の夜に男が来たが妻は必死に玄関で追い返した。
　欲望は押さえつけられるとグツグツとたぎる。理性がそれに勝つことは難しい。
　母の中でも消せない何かに火がついていた。

　九月八日のスライドショーを見た
　誰もいない居間が映し出された。画面は動かない。音声だけが流れている。
　要するに映像のない音声だけのファイルだった。テレビの音がしていた。兄妹の声がした。３０年前の自分の声はくすぐったかった。
　小玄関の戸が開く音がした。
「辰です、お晩でやす。**山の伐採金額のことでご相談が」
「主人は今夜残業ですの」
「ご報告しときやすんで、奥さんからお話し下さい。上がらして頂きやす」
　バタバタと足音がした。兄妹の足音が男に抗議している。「もっとテレビ見たかったのに！」
　仕事の話が始まると居てはいけない事に以前からなっていた。

「帰って！」
「顔を見るだけでいいんだ。何もしねー、ほんとに何もしねーよ」
「貴方は自分のしていることがどういう事か判ってるんですか。私はもう嫌なんです。終わりにしたいの」
「俺だって止められるもんなら止めてーよ。だけど駄目なんだよ、気が狂いそうなんだ」
「いまならまだ間違いで済むかも知れないのよ。帰って」
「俺だってそうしてーよ。だけどこれが言うことを聞かねーんだ。見てみろよ」
「やめて！子供達ちまだ起きているのよ。離して、離してよ、痛い。卑怯よ」
「いっそばれた方がいいんだ。俺は何もかも捨てていいんだぜ、おめーもそー言ったじゃねーか」
　男は開き直った。しばらくテレビの音だけが流れている。
「うそだよ。なっなっ、あんたを泣かすようなことをするわけねー、大丈夫だって」
　男の声は急に優しくなった。が、余裕が出てきた。
「こっち向いてくれや、無理やりは好きじゃねーんだ、なー」
「駄目よ。よして、お願い」
「触ってくれや。こんなに硬くなってんだぜー」
「いや、いや」母の最後の抵抗の声がテレビの音にかき消される。

　戦いの勝負がついた。
「文（あや）、酒持ってきな」
　母が台所に立ってすぐに戻ると障子が閉まる音がした。おそらく玄関と縁側の障子を締めたのだろう。
　母にも酒を飲ませているようだ。
「少しよ」母の声の調子が変わった。
「もういや、酒臭くなると困るわ」
「こんなに濡れてるじゃーねーか。パンツ脱いじゃえよ」
「駄目よ〜まだ、駄目。あーあ…、もう悪いんだからー」
「あの晩はアセったよなー。今度はちゃんと仕舞っとけよ」
「脱いだ下着、てっきり主人に見られたと思ったわ」
「俺のポケットから引っ張り出してはく時の格好、色っぽかったぜ」
「信じられない。何であんな時にスカートの裾を上げたりすんのよ」
「お前のあそこがどうなってるか見たかったんだよ。土手がふくれててよー、内股まで汁が垂れてたぞ」
「嘘、嘘よ」
「危ない場面でかえって興奮したんだろ。ああいうのスリルって言うんだろ」
「あなたと一緒にしないで。あっ…」
　服が擦れる音がするが、声は聞こえない。
「あー、苦しい」口をずっと吸われていたようだ。
「おっぱいも出せ」
「駄目よ、駄目。あっ、あっ、ボタンちぎれちゃう。わかった、わかったわ」
　男に吸われる音に混じって、母の喘ぎ声が聞こえる。
「またスリルを味あわせてやるよ。雄一に電話だ」
「嫌、駄目よ。駄目」
　電話のダイヤルを回す音がした。母は声の調子を整えるように咳払いをした。
「”頭”が来てますがどういたしましょう」
「はい、はい」
　母は早く切りたいようだったが、父は別の用件もついでに話しをしているようだった。
「もー、いやねー。変な声が出そうになったじゃない」
「興奮するだろう。すげー、見ろ、ヒックヒックしてるぜ」
　母が電話している間、男は何をしていたのでしょう。
　想像できますよね。これは不倫の仲になると誰もが相手にさせたがるそうです。
　最高の快感だそうです。いえ、私は知りませんよ、人から聞いた話しですよ、本当に！

「何だって」
「遅くなるから帰ってもらってくれって」
「それじゃ帰るぜ」
「意地悪」
　畳に倒れこむ音がした。
「もっと舐めてやる」
「アッ、アー待って。子供、子供」
　母は出て行きすぐ戻った。
　テレビのボリュームが上がった。おそらく部屋が暗くなったろう。
「念のため帳簿も出しておけ」
　前回のことがあり慎重だ。男は父が帰ってきたときのためのつじつま合わせの仕事の話をした。
　身体を動かしながらの話し方だった。
　すぐに母の返事は喘ぎに変わっていった。
　父が帰ってきてこの光景を見たらはたしてつじつま合わせの話を聞いてくれるだろうか。
　父はこの前、帰りが十分遅かったらこの光景を見たことになる。
　その後のこの物語の展開はどう変わったろう。

　俺は古い順にフォルダを開け中身を見た。memo.txtが全部のフォルダに入っていた。
　九月八日以後「星座を楽しむ会」までの流れをかいつまんでお話しよう。
　父がいる時に男が来ることはもちろんあった。父の前で二人の演技は完璧だった。特に母は。
　父が留守の時、男が来ると母は必ず役場に電話を入れた。
　父は待つようにと言うこともあれば遅くなるから返すようにいうこともあった。いずれにしても男は帰らなかった。

　ある日、いつもなら母の喘ぎが始まる頃に障子が開く音がすると母の必死の声が聞こえた。
「駄目よ、そっちは駄目よ。お願い」足音が遠ざかり、居間はテレビの音だけになった。
　一時間ほどして母の甘ったるい声がした。
「すごかった、最後覚えてないわ。でも駄目よ、あの部屋は。二人とも本当に地獄に落ちるわ」
　男の返事はない。玄関の戸が開いて閉まる音がした。母の足音が遠ざかった。その夜、俺たち兄妹は親戚の家に泊まりで出かけ留守だった。

　テープを聴いた父は必死で証拠を探した。寝室だと直感した。
　シーツが何時もより早く変わっていた。しかし証拠にはならない。
　変わったところはなかった。最後にベッドの下を覗いた。塵ひとつない。その姿勢で顔の向きを変えたとき、格子戸の中の何かに目が留まった。立った位置からは見えない。
　母はきれい好きだ。家の中は何時もピシッと片付いている。
　しかし、まとまった時間をとって掃除をしたり、掃除にも追われるところを見たことがない。いつか母に尋ねたことがあった。
「忙しくてまとまった掃除の時間は取れない。汚れたり散らかっているとその場でささっときれいにするのよ」
　先日の日曜日、母が格子戸を開け中のものを出すのを父は見ていた。格子戸を開ければいやでもそれは目に入る。母が見逃すはずがない。それはに曜日以後に置かれたものだ。千代紙が丸められていた。開くと微かに湿り気の残るところに細かい皺が出来ていた。そして、縮れた毛が一本ついていた。

　男の来訪が一段と激しくなり母は毎回役場に電話を出来なくなっていた。もうブレーキは利かない。

　十一月のファイルを開いた。
　母はＰＴＡの会合で付き合い酒を飲まされて帰ってきた。今度の中学の校長は酒が好きだ。男がワインを持って来た。男の実家は甲州、ブドウの産地だ。
「今日は飲んでも言い訳ができるぜ」いつもより飲まされた。
　いつもより量が多かったからか、ワインだったからか（男はそう信じているようだ）母はいつもより乱れた。そして母は失神し、あの女が出現したが男は慌てなかった。俺は推理した。初めて寝室で交わった日にあの女が初めて出たんだなと。
　俺が初めて母の浮気を見た日も録音されていた。

　そして夜の時間の長い間、家に母が一人になる日がまたきた。あの「星座を楽しむ会」の日だ。
　父の車は点検に出してあり、部下に家まで迎えに来させ一緒に残業に出かけた。
　…と母に思わせた。
　しかし部下には書類を家に持ってくるように命じてあった。部下の車が来ると父は玄関を出て部下の車の所まで行き、書類を受け取り部下を帰した。そして、裏から寝室に向かった。
　あらかじめ鍵を開けてあった寝室の窓から脚立を使い寝室に入った。
　父は前日男を呼び当面の要件を全て済ませてあり男が家に来る理由が無かった。だからその夜、母は役場に”確認の電話”が出来なかった。

　ここでひとつ皆様の疑問にお答えしておこう。
　俺は柄にもなく小学校の頃から日記をつけている。今もパソコンの中でつけている。後日、自分の日記の日付とこのフォルダの日付とを付き合わせた。
　日記にはメモ的に書かれていた。
　　　十二月十一日　居間、やはり！！！！、
　　　星を見る会　　欠席、寝室でだ！、母さんどうしちゃったんだよー。

　ここまでのフォルダには現場を撮影したものが一枚もない。
　父はどんなにか写真を撮りたかったと思うが無理だったろう。
　居間は完全に母のテリトリーだ。隅から隅まで母の管理下にある。
　むしろ、よくテープレコーダーをセットしたものだ。マイクのコードを延長したのだろう。

　父は知っていた。俺より早く知っていた。そして何もかも。
　しかし知っていたならその後のあの平穏で幸せな生活が送れるはずがない。
　いくつもの「なぜ」が俺の頭の中を駆け巡っている。
　まだ開けていないフォルダの中にその答えがあるのだろうか。
　食欲は全然なかったが俺は妻が用意してあった食事を取った。いや、詰め込んだ。
　今夜はきっと徹夜になる。
つづく