＜おことわり＞
　この作品は以前『重荷』という題で投稿した作品を焼き直し、後編を継ぎ足したものです。
　よって、「十一　推理」までは『重荷』の筋書きと幹の部分は一緒です。
　おまけに表現も随分とヤワになってしまっています。(^_^;
　『重荷』を読まれた方は「十二　震災」から読まれると、退屈しないかも知れません。（殺果）




『鬼は内　福は外』　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　刹果　喜怒裡　作

　父の死が俺を変えた。
　元々、思い通りにならないのが人生、それでもささやかな願いを胸に、小さな花を咲かせようとがんばる。平凡に生きることが一番の幸せなんだと思っていた。人並みに山坂あったが、俺も妻と子供二人でそこそこ幸せにやってきた。
　毎朝七時半に家を出て満員のバスと電車にゆられ、都心の駅ではじき出されると、立ち並ぶビルのひとつに吸い込まれる。それなりの役職と部下を与えられ、やりがいのある仕事をこなし、一段上を見る気力もまだ残っている。
　父は俺のそのような日々の生活を大きく変えた訳ではない。人目に変わったことといえば、田舎にある実家を一人でよく訪れるようになったことくらいだろう。

　車は高速道路を下りると、大きな川沿いの道を上流へと進む。やがて、ゆったりとした盆地に入る。そこにある大きな町を通り過ぎ、北向きに開いた長いトンネルを抜けると景色は一変する。フロントガラスには急峻な山が迫り、ガードレールのはるか下に川筋が光る。
　故郷の村はそんな険しさが造るすり鉢の底にあった。

　一人住まいだった父が死んでから、実家はずっと空き家になっている。村に着くと俺はまず寺と神社に向かう。そして、長屋門をくぐると広い屋敷の掃除や庭の草取りに没頭する。夜はグラス片手に、この家にゆかりのあった人々に思いを巡らす。最高に贅沢な俺だけの時間だ。

「門に立つ旅のお人、この家に興味がおありですかな。古いだけの家ですが、どうぞどうぞ中へ入ってゆっくりとご覧下さい。私も今夜は妙に人恋しい、話がしたい。もしよろしかったら、こんな私のわがままに付き合ってやってはくれないだろうか」

一　居間

　敷居の溝をこする音が頑丈に出来た引き戸の重さを訴えた。一度開いたその戸がすぐに閉まる。母が俺たち兄弟の寝ているのを確かめに来た。
　俺は居間の障子が閉まる微かな音を聞くと、奥のドアを慎重に開けた。子供部屋から居間までは十二メートルほど離れている。六畳間を通り中廊下を歩いて一分と掛からない。ただ音が出る板戸を開けなければならないので、遠回りして足音がしないように慎重に来た。部屋を出てから七、八分は掛かっている。
　テレビの音が大きい。それよりも心臓の鼓動が俺の鼓膜をズンズンと震わせている。
　あらかじめ作っておいた障子の小穴から覗く。居間はいつもより暗かった。部屋の中央にコタツがあり、その上には酒と小鉢が載った盆と母のメガネがある。山仕事で使う水筒もあったが、それらは俺が居間を出る時にはなかった。

　うつ伏せに寝ている母を俺は横から見ている。俺が覗いている障子から三メートルと離れていない。母はセーターを着ていた。その背中に大きくめくれたスカートが裏返しに載っている。下半身は裸で膝から下は炬燵の中に入っていた。男も下半身裸で母の上に重なり腰を動かしている。その動きは驚くほどにしなやかだ。
　男の体の下で見え隠れする母の尻と太ももが白い。両手を重ね、その上に頭を乗せて顔は向こうを向いている。母の苦しそうな息づかいが大きくなると男の動きが止まった。
「ねえー」
　母の声がした。男は動かない。
　催促するように母は腰を振った。
「何だ」
　影になった男の横顔が笑っているように見える。
　母は黙っている。男が腰を浮かすと二人の間に少し隙間が出来た。
　母は慌てて何か言った。テレビの音がうるさい。
「何を」
　男がニタニタと笑っているのがはっきり見えた。
　母は何かを「ついて」と言ったようだ。
「聞こえない」
　男の体がさっきより離れる。母はすがりつくように振り向いた。
　今度は俺にもはっきりと聞こえた。男性の陰部をさす下品な言葉が母の口から出た。そして続けた。
「突いて。もっと突いて。お願い」
　母の顔が見える。泣いているような、笑っているような顔が見える。その表情は母の口から出た四文字の響きと共に今でも俺の脳裏に焼き付いている。

　母は普段メガネを掛けている。ひどい近眼だ。大人の表現を借りるとしよう。
　　母を好きな人は「冷静で理知的な女性」と表現するだろう。
　　嫌いな人は「お高くとまった冷たい女」と言うだろう。
　メガネを取ると印象が大きく変わる。彫が深く情熱を秘めた顔になるが、ほとんどの人は知らない。子供のころ、その顔が好きだった。

　男は銚子の酒を飲み干し、水筒を母の口に運ぶ。
　母は四つんばいにされた。道ばたで牡犬がするように男の腰が動いている。
　それに合わせ、母の頭が前後左右に動き口が大きく開く。だが、声はほとんど出さない。必死に押さえているようだ。畳に突いた手のひらの先が反ってきた。恥ずかしがる母を上に載せ、自分で動くように男が命ずる。
「帰るぞ」
　男が脅すと、母は男の言うままに動いた。
　セーターの裾から入った男の手が母の胸の辺りで動いている。
　母が仰向けにされた。
　障子をすり抜ける動物的な息づかいが、そこから離れる俺を引き留めようとしている。

　妹の寝息が聞こえる。体が震えている。今日は十二月十一日、体は冷え切っていた。しかしこの震えはそれだけではない。
　しばらくすると戸が開き、すぐに閉じた。やはり来た。母は男が来た時は、必ず部屋の様子を二回見に来る。だから早めに戻らねばならなかった。車のエンジンの音がして窓に明かりが動く。父が帰って来たのだ。男はまだいるのだろうか。

　俺は純一、中学二年、小学六年の生意気な妹、舞がいる。
　母は文子（あやこ）三六歳。家にいて山の経理の仕事を任されている。
　父、雄一は村役場の職員で四七歳。歳の離れた夫婦だが両方とも初婚だった。
　江戸時代に名主が世襲制のとき、俺の家は代々名主を務めており、この辺りでは裕福で名の通った家だ。「庄屋さん」と呼ばれる屋号のとおり、古い庄屋造りの形を残すこの家は県の文化財の話が出るほど貴重なものらしい。建てられて三百年以上は経っている。戦後の農地開放で田畑は家の周りだけになったが、山林は二百町歩以上ある。
　男はこの村に住み、妻も子もいる。歳は四十ぐらいだと思う。辰五郎といった。男はうちの専属で山林の仕事をしている。父はこの男のほかにも十五人の使用人を山の仕事のために雇っていた。男はそのまとめ役、責任者で「頭（かしら）」と呼ばれている。父に会って仕事の報告、指示を受けるために家によく出入りしていた。
　母は都会育ちで大学も出ていて頭がいい。普段はそれを表に出さず父に仕え、社会活動にも積極的だった。子供の教育にも熱心で、怒ると怖かったが、母の全身で愛されているという安心感が俺を包み込んでいた。

　人前では、他の使用人に接するのと変わらずに、あの男にも接していた。その母があの男と「何かある」という疑惑が少し前から芽生えていた。確信があった訳ではない。子供ながらも何かを感じ取った。

　俺たちが住むこの村は山々に囲まれた山村で、昭和に入り電車が走るまでは正に陸の孤島であり、生活は厳しいものがあった。戦後を二十年過ぎた今も、昔ながらの習いや掟の多くが居座っている。そんな村の中心を流れる川の両端には棚田と段々畑があり、その中に点々と人家があった。村の周りを里山が帯のように囲み、その上から覆いかぶさるように本山（ほんやま）が幾重にも連なっている。本山とは字のとおり本格的な山であり、大木は戦時中にほとんど切られたが、それでも鬱蒼とした森林が所々に残り、女子供だけで入るのは禁じられていた。
　里山には三椏（みつまた）などが植わり草刈り場もあった。春には山菜、秋には柿や栗が採れる。子供たちの格好の遊び場でもあった。暗黙の了解があるように本山にいる熊や猪、猿などの獣が里山から降りることはなかった。

　ひと月ほど前の夕方、母に山小屋へ酒の肴を持っていくように言われた。これは小学校からの俺の役目だ。他の山小屋は仕事のためだけの小屋だったが、この小屋は仕事にも使うが使用人の気の置けない集会場だ。頭の願いで父が建てた。
　母屋の西側にある倉の裏から山道を登り切り、下るとある。小屋の周りはすべて家（うち）の林で、よその人は入ってこない。尾根に囲まれた窪地にあり、いくら騒いでも村にその声が漏れることはない。
　小屋に近付くと使用人たちの酔っ払った声が聞こえた。普段は真面目なのだが、酒が入るといつも話題は女の話に決まっている。あそこの女がとか、旅行に行って女をどうしたとか。今日もまた同じことだろう。
　小屋に近付くと俺の足は止まった。母のことを話題にして、卑猥な言葉で盛り上がっている。俺は少し引き返し、口笛を吹きながら進むと小屋の戸を開けた。
「坊ちゃんのお母さんは上品でいいですね」
　使用人の一人がお世辞を言った。他の男たちも父や母をほめる。
　あの男は離れたところにいて、さっきの話には入っていない、いつもそうだ。ナタの手入れをしながら俺を見ずに頭だけを下げた。男は世辞を言わないが礼儀正しかった。これまでは俺の目をちゃんと見て挨拶をしたが、最近は目を合わせなくなっている。男は俺に後ろめたいことがあるんだと感じとった。
　男が夜家に来る時には、電話で父の在宅を確認してから来ていたが、最近は父が残業の夜に来ることが多い。男が家に上がると母は緊張しているように感じた。いつしか酒が出るようになる。

　　俺たちが蒲団に入ってしばらくすると、部屋の戸が開き母の顔が覗く。
　　薄目で見る母は、俺が居間を出る時の母ではないような気がした。
　　引き戸がすぐに閉まり足音が遠のくと俺は戸の隙間から覗く。
　　母のモンペやズボンが裾の広いスカートに変わっている。
　　居間に入ると、母は後ろ手でゆっくりと障子を締める。
　　居間はいつもより暗くなりテレビの音が大きくなる。
　　それ以外何も聞こえない。障子にも何も映らない。
　　しかし、間違いなく母と男はその部屋にいる。
　　しばらくして戸が開き、また母の顔が覗く。
　　さっきよりずっと母らしくない顔が。
　　俺の疑惑は段々に膨らんでいった。

　小学生の頃、両親のセックスを見たことがある。その時はショックだったが、それは淡白なものだとあとで知った。母の反応もほとんどなく、俺はこれが普通のセックスだと思っていた。両親のセックスを見たあとでも、母はやはり「おかあさん」だった。
　そして今夜、母の浮気の現場をはじめて見た。そこにいたのは母とはまったく別人のふしだらな女だった。今までの「おかあさん」と今夜の女が結びつかない。眠りについたのは明け方だった。

「起きなさい、時間ですよ」
　母が入ってきて窓のカーテンを開ける。笑顔の母が、友達がうらやむ母が、白い割烹着のいつもの母がそこにいた。
　俺はこのことを父には話さなかった、話せなかった。母とも何もなかったように接した、接することが出来た。そして、自分の中に別の人間がいるのに気が付く。母の浮気を覗き興奮する変態息子が。

　だが、ここまでのことは、その後、この家に起こることのほんの序曲に過ぎなかった。