二　寝室

　年が明けた。
　学校の先生がボランティアで「星座を楽しむ会」を年に何回か企画してくれていて、俺たち兄妹は毎回出席していた。
　父が残業する日はだいたい決まっている。「星座を楽しむ会」と父の残業が重なることが分かっていた俺はその日まで、母と男が二人きりにならないように行動した。勉強するふりをして遅くまで起きていた。男は目的を果たせず帰って行く。母がほっとした表情をするのがうれしかった。前日にも男は来たが、父が家にいて仕事の話をしていた。
　その日、父は夕食を済ませ出かけた。六時ごろ、厚着をした俺たちも出かける。父も俺たちも帰りは九時前後になる“予定”だ。
　「星座を楽しむ会」の会場となる分校までは、歩くと二十分は掛かる。妹をせかせ急いだ。会場に着くと、妹に「今夜は友達のところに行く、終わるころには迎えに来るから」と言い含めた。

　男はいつも堂々と表から来る。男と鉢合わせしないように裏から居間に近付くと、部屋は明るく、テレビの音も普通だった。居間を覗いたが誰もいない。玄関に男の履物がない。安心する俺とがっかりする俺がいた。だが母もいない。
　裏からここへ来た時、両親の寝室の窓が明るかったような気がした。裏に戻ると、やはり寝室から明かりが漏れている。
　寝室の窓に掛かったカーテンは横幅が狭いため、窓の両端から明かりが漏れていた。二、三日前、悪戯ざかりの従兄弟がここのカーテンを破いてしまい、応急的に別のカーテンを掛けてある。母は子供でも家族以外のものを寝室に入れない。しかし、あの暴れん坊はどこにでも入り込む。俺も手を焼く。

　小さいころ、俺はこの寝室が好きだった。いたずらをしてよく怒られたものだ。この家で唯一、洋風な造りの寝室は母の嫁入り道具であふれている。
「お母さんの希望どおり家具が納まるように、お父さんがこの部屋を改造してくれたの」
　以前、母がうれしそうに話したことがある。
　東側の壁を頭にシングルベットが隙間なく二つ並んでいて、父が窓側、母が奥に寝ている。その奥の壁には格子戸があり、中には今は使わない季節物が納まっている。南側にはこの部屋への入り口があり、壁にはたんすが並んでいる。
　西側の壁の真ん中には、母が自慢の大きな三面鏡が据え付けてあった。一面で縦一メートル以上、横幅も六十センチくらいはある。全開にすると部屋が倍の大きさに見える。鏡の回りには、棚や引き出しがあり、小物や人形、本がセンスよく並んでいた。北側は今、俺が覗こうとしている窓と、寒がりの母のために暖炉がある。性能が良く、すぐに温まり冷めにくい。

　窓に近寄り東側の隙間を覗くと、思いがけず、母の横向きの顔がアップで目に飛び込んできた。俺は慌てて顔を引っ込める。今度は慎重に覗く。母はベットのヘッドボードに背中をもたれ、目を下にしている。寝室で本を読んでいるときの姿だ。
　いや、違う。さっきまで頭にしていた白い手ぬぐいはなく、黒く長い髪ははじめて見る形に丸められ、黒い着物に着替えている。口紅も真っ赤だ。それに母は父のベットにいる。もっと下を見たいが、これ以上顔を出すのは危険だ。
　窓の西側に移動しようとすると何かが足に当たり、危うく倒しそうになった、脚立だ。それを避け、腰をかがめて窓の右側に行き、背中を壁に付け立ち上がる。
　頭が出っ張りに当たった。熱い、暖炉の煙突だ。勢い良く煙を吸い上げる音は暖炉が激しく燃えているのを教えている。
　カーテンの隙間を慎重に覗いた。父のベットの上に、寝そべった男の尻から下が見えるが動きはない、ズボンをはいている。こちらの隙間は顔を全部出しても大丈夫だ。奥の床に新聞紙が敷かれ、男の履物が置いてあった。この脚立を使って窓から入ったのだろうか。

　普通でない母の声が聞こえた。
　胸が一気に高鳴る。間違いない、始まっている。奥にある母のベットは全部見えるのだが、どんなに顔を熱い煙突に付けても、窓側のベットにいる母は見えない。元に戻り東側の隙間から慎重に覗く。母はメガネを外すと、あの忘れられない表情で頭を左右に振った。顔をこれ以上出せないもどかしさが募る。
　脚立を煙突の下に移動する。古くて重たい脚立は動かすと音が出る危険があったが、母の声が俺に冒険をさせた。脚立のあった位置から西側の隙間を覗く。レンガで出来た暖炉の壁が見えた。次に三面鏡が見えてくる。
　鏡は全部開いていて、三面の一番奥の鏡に父のベットが映し出されている。膝を立て股を開いた母の白い脚が見えた。その真ん中で黒いものが上下に動いている、男の頭だ。喘ぐような母の声が聞こえた。
「いや、いや。やっぱり駄目。こんなことしたらいけない。この部屋でこんなことしたらいけない。やめて、お願い」
「やめるぜ」
　男の動きが止まる。
　しばらくのあと、顔は横を向いたままの母の手が男の頭の上に乗ると、男の頭はゆっくり元の位置に戻っていった。
　天井を向く母の口からの苦しそうな声が窓の外に漏れてくる。何をされているのだろう。

　突然、鏡の中が大きく揺れ、男の背中が目の前に現れた。俺は急いで体をカーテンの陰に寄せる。男がこちら向きでなくて助かった。部屋が暗くなる。メインの照明を母が消したのだろう。
　注意深く顔を出した。男が乱暴に母の着物を脱がせている。帯が、着物が足元に落ちていく。母は薄い着物一枚になった。紅色の地に白い小さな模様が幾つもある。
「似合うぜ」
　母が抗議するように言う。
「何でこんなもの着せるのよ」
　ワインをラッパ飲みした男の口が母の口に重なる。吸い合っている口から、鯉が餌を食べるときのような音がした。男の手が襟元を拡げその中に隠れる。

　母は酒に弱い。家でも外でも飲まない。父の晩酌にたまに付き合うことがあったが、白い頬がポッと赤くなり、子供みたいに騒ぐ。
「心臓がすごい、頭がクラクラする」
　それ以上、父が飲ませると肌がピンクに染まった。
「体がジーンと熱くなる」
　母は頬を両手で押さえて言った。父は楽しそうだ。
「悪いお父さんよねー」
　母は俺の顔を見て言う。その顔がなぜか眩しかった。
「こらー」
　小さい俺は本気で父に向かって行った。俺だけのお母さんで無くなるような気がして。

　男はこちらに背を向け、抵抗する母を力尽くで跪かせると、ズボンのベルトを外した。男の陰で母の顔は直接見えない。鏡に映る母の顔を見る。
　一度目を閉じたがしばらくして目を開けた母は眉間にしわが寄り、悲しい時の顔をしている。首を左右に振ると、母の口はゆっくり開いた。牝犬でもこんな事はしない。
「お母さん、やめてくれ！」
　声が出そうになり、俺は自分の口を両手で押さえた。暖炉の揺れる炎が二人を照らす。誇らしげな男の顔が鏡を見ている。パチパチとマキの燃える音が聞こえる。やがて母の手が男の尻を鷲掴みにした。

　男は鏡台の椅子に母を座らせると、両足を大きく拡げさせようとしている。抵抗する母の動きが薄い着物の前をはだけさせ、一瞬だが逆巻くような繁みに囲まれた母の秘部を見せた。
「見てみろ、自分のを」
　俺の目と、鏡の中のいつもと違う母の目とが合った。

　男は鏡を見ながら言葉で嬲る。
　ワインを飲まされる度に、母の抵抗は小さくなり、最後は首を振るだけになった。体の力が抜けて、乱れた髪を傾け、だらしなく足を拡げた鏡の中の自分を見ている。口を開き、トロンとした目で不思議そうに見ている。
　最後のワインを口に注ぎ込むと母を立たせ、かんざしを抜いてから投げ出すようにベットに倒す。薄い着物がはだけ剥き出しになった白い太股を男の体が大きく裂いた。
　今は家の中に二人だけだ。母の声が大きい、居間の時より格段に大きい。男が母の着ている着物を指差す。二人の形は次々と変わっていく。

「全部脱がせろよ」
　俺は舌打ちのあとに出た自分の言葉に驚いた。男は母の着物がずり落ち、肌の露出部分が多くなると、それを肩に掛け直した。白い帯が緩み、前が大きくはだけると、帯を締め直した。
　男と女の全裸の交わりを見たい自分がいる。男はそんな俺の邪魔をした。

　母と男は、ベットを使い、壁を使い、格子戸を使い、椅子を使い、そして鏡を使いながら、部屋中を移動した。それにつれて、俺は窓の両方の隙間を移動する。この時、俺が現在知る限りの体位を見たような気がする。

　桜紙があちこちに散らばった部屋で二人は休みをとったが、二人の体は離れなかった。男は母に父とのセックスの様子を話させている。母は嫌がったが、「じゃー帰る」の脅しに、淡白な夫婦の営みを話し始める。
　結婚して三年ほどすると、父は全部硬くならないで果てるようになった。五年ぐらい前から全然交渉はないと。母は遠くを見るような目をして言った。
「あの時、あそこを通らなければ……」
「始めはあんなに抵抗したくせに最後は凄かったぜ。本当は犯られたくて来たんだろう」
「うそ、うそよ！」
　母は激しく男の胸を叩いた。その母を組み敷くと、男は自分とのセックスが最高だと卑猥な言葉で言わせた。母は男に抱き付いて叫ぶ。
「もう引き返せない。どうなってもいい！」
　俺はこの男を殺したいと思った。

　男は母の乳首を吸っている。大人が赤子のように“チュウ、チュウ”と音を立てて吸うのが俺にはおかしかったが、母は別の乳房をつかみ「こっちも」と叫んだ。
　男の両腕が母の上半身を挟んだ。筋肉が盛り上がる背中に汗が光る。その肉体が水泳選手のように動き出す。肩から背中、腰から脚へと母を組み敷いたまま力強くしなやかに上下左右に動いた。
　母の右足が男の足に絡み付いてくると、ダンスをしているように見えた。母の長い髪が生き物のように動いている。
　言葉はない。お互いの口は相手の口を飲み込むように重なっている。
　汗にまみれた体が動くたびに濁音が部屋中に飛び散った。体が離れ最後に口が離れると、母はやっと口がきけるようになった。
「いいー、いいー」
　同じ言葉を繰り返している。男は腰を強く押し付け持ち上げる。すると男の首に回した母の腕が曲がり上半身が持ち上がる。
　母は男の目を見ながら、うわごとのように言った。
「すごい、すごい」
　乱れた髪が頬にまとわりついている。その頬を涙が流れていた。汗ではない。

　男は今までで一番速く、激しく突いている。母の体は大の字になり、両手はシーツをつかみ全身が硬直してきたように見える。
　母はくぐもった声を絞り出すと、顎を上げた。その顔は眉間に皺が寄り、目はほとんど白目になっている。母が死んでしまうと思った時、母の体は弓なりに反り、首から足首までの間が一瞬ベッドから浮いた。男は跳ね飛ばされ、母の横に仰向けに落ちる。
　母の体から力が抜け動かなくなった。
　やっぱり死んじゃった。大変だ、どうしよう。男は葉巻に火を点けた。父が吸っているのと同じものだ。いつも男はタバコを吸っている。こんな時に、こんなことを気にしている自分が馬鹿に思えた。男は全然慌てていない、なぜだ。葉巻の煙が揺らぐ。異常に明るい寝室にそれ以外の動きはなかった。

　俺はいても立ってもいられず窓を叩き割ろうとした時、丸まった桜紙のひとつがわずかに動き、次に母の手がゆっくりと動いた。
「辰（たつ）、さー覚悟しな」
　母の声ではなかった。さっきの女の声でもない。
　女は男に跨がると、葉巻を取り上げ自分の口にくわえた。もちろん母はタバコを吸わない。女が腰を沈めると男が悶えだした。
「これだよ、これ！　動く、動いてる。アー、たまらんよー」
「さーどうだい」
　男は口を尖らせ叫んでいる。女は何もしていない。
「今度はどうだい」
　男の体が跳ねる。上に乗っている女の体が揺れる。乳房が揺れる。
「さー我慢出来るかい」
　女は下半身を動かさずに肩で水平な円を描いた。
　この男が女のように情けない声で悲鳴を揚げている。そして一際大きく叫ぶと、葉巻の灰が男の腹に落ちた。
「だらしないね、もうお仕舞いかい」
　女が跨がってから一分と立っていない。女は離れると男を足蹴にした。男は起きあがり、正座しなおして言う。
「もう一度いかせて下せー」
「しょうがないねー、特別だぜ」
　男の差し出す灰皿に葉巻を置くと、母が男にさせられたことをしたが、女は母とは違い男のように荒々しく攻めた。そして、瞬く間に蘇った男を押し倒す。
「覚悟しな」
　女の顔がはじめて正面から見えた。目が据わっている。
　女が跨ると、男はさっきと変わらず「あー、あー」と言うだけだ。
　女は両手を膝に当て四股を踏む格好で腰を徐々に高くした。
　男の悲鳴が揚がる。背が海老のように反り、腰が浮きそうになった。女が腰を沈めると、また気持よさそうに意味不明の言葉を叫んだ。
　今度は五分くらいで果てた。
　男を罵倒しながら女は気を失う。

　体は母に違いないが、顔の表情も体の動きも声もまったくの別人だ。俺は母の体が化け物に占領されたと思った。

　男は女のために使った桜紙を、草履の上にあるズボンのポケットに仕舞う。女と並んで男が寝ると、母が目を覚ました。
「また失神したのね。覚えていない」
　そして恥ずかしそうに母は男の胸に顔を載せた。
「私だけ……、ごめんなさいネ」
　さっきのことは全然覚えていないのか。男が時計を見た。
「もうこんな時間か」
　暖炉の上で暖まったお湯にタオルを濡らすと、母は黙って男の体を拭いた。
「おまえは俺の宝物だ。誰にも渡さない」
　男も母の体を拭きながら優しく言った。母は男の態度が失神する前とガラッと変わったのに驚いたようだったが、男に抱き付くと言った。
「ずっとこうしていたい。民ちゃんが憎い」
　民ちゃんは民子、この男の女房だ。二人は服を着始めた。
　慎重に脚立を元に戻し、俺はそこを離れた。恐がりの妹が一人で泣いていそうで、暗がりの中を全力で走った。間に合った。妹が今日教えてもらったことを一生懸命話してきたが、俺が黙っているので、妹も黙ってしまった。
　山の黒さがいつもより不気味に迫って来る。

　俺たちが家に帰ると母は奥から出て来た。父が帰ると母は言った。
「悪寒がするのでワインを飲んだのですけど駄目みたい。すみません、先に休ませて下さい」
　俺たちにもあれこれと指図してあの寝室へ消える。母の嘘をはじめて聞いた。