十　遺書

　頭は遺書とは書いてなかったが、封筒の中にあった便箋は「遺書」だった。私に対し、これまでの使用人としての礼の言葉があった。私の妻とのことに対し、心から詫びていた。
　山師の「東郷」のことが書いてある。うちと取引をしたがっていると、頭からだいぶ前に報告が上がっていた。
　この村の南側にそそり立つ山の尾根に沿って県境があり、尾根の向こう側は大きな盆地になっていて、人口二十万の町があった。その町に出るには、立ちはだかる県境の山を大きく迂回せねばならず、電車でもバスでも一時間以上掛かった。普段、村人の買い物は村の万屋（よろずや）か、何日置きかに来る行商で済ませている。村で出来ない買い物は県内の町よりも、都会的で活気のあるその町を皆が利用した。私と妻が楽しく過ごす町であり、純一が通う高校もある。
　その町に住む東郷は、抜き専門であこぎな商売をしていた。頭を金で釣り、女で釣り、駄目なら弱みを見付け強請った。ヤクザともつながりがある。女癖も悪い。昼間から酒の臭いをプンプンさせていた。
　私は端から付き合うつもりはなかった。そして、何よりも妻が東郷を嫌っている。妻は業者とは、どんな相手とも仕事と割り切り好き嫌いなく接した。が、東郷だけは玄関から上げない。この村でも泣かされた女がいた。東郷は諦めず頭に接近し、常套手段を使ったが頭には通じなかった。強請るべき弱みも無い。

　民子のことが書いてある。頭の女房だ。民子はだいぶ前から亭主と私の妻のことを知っていた。亭主のあとを付けた。行き先が旦那の家だったのを見て、民子は自分の取り越し苦労だと最初は思った。しかし、亭主が旦那の家に行く時は、旦那の車が無いことが多く、亭主が家に入りしばらくすると、障子が閉まり、そして居間が暗くなるではないか。
　民子は亭主に泣いて頼んだ。女の嫉妬ももちろんあったが、何より世間に知れれば、この安定した生活が土台から崩れる。亭主は耳を貸さなかった。

　民子は町に出たとき、何かに誘われるように一人で飲み屋に入った。はじめての経験だったが、悪い酔い方をする。東郷がそこにいて、女に隙を見た。こういう勘は鋭い、女の素性を調べた。
　東郷の筋書どおりに民子は落ちていく。田舎育ちで、山村に嫁いだ世間知らずの女房をたぶらかすのは訳もなかった。民子はいい男にちやほやされコロッと参った。亭主への面当ての気持ちもあった。
「私だって、その気になれば、このくらいのことは出来るんだから」
　一時の火遊びのつもりが、男に溺れ、ヤクザに輪姦された。

　東郷は写真を村にばら撒くと頭を強請った。
「やれるもんならやってみろ」
　頭は落ちなかったし、民子をも責めなかった。東郷は民子をヤクザから買い上げ、彼の性癖を満足させるオモチャにした。

　今は亭主が私の家に来る時は私がいて、妻と二人きりになることはなくなったので、民子はもう終わったと思っている。女の影は感じたが詮索する気もなかったし、もう出来る立場ではない。外出が多くなり、たまに亭主に抱かれた時は必死に取り繕おうとしたが、以前の自分とは全然違うことが分かるはずだ。しかし亭主は何も言わなかった。それが不安だったが、東郷から呼び出しがあると断れなかった。強請られているからばかりではない。もう断れない体になっていた。

　俺は改めて映像を見る。モザイクのかかった女が民子だ。そうして見ると記憶の中に微かにある。ガマ蛙の男が東郷だが、こちらは全く記憶になかった。
　どんなに激しい行為の中にも、母の映像には相手を認め求め合う気持ちがある。民子の映像には相手の人格など無視した、快楽だけを貪る陰湿さが充満していた。
　民子はそれなりに男好きのする顔立ちと体だったが、母の比ではない。母は子供を二人も生んだとはとても思えない体型を保っていた。民子の体の線は年相応に崩れている。それがかえって、卑猥さを強調していた。
　複数のプレーのとき、東郷は最初から写ってはいない。写っていないが声で部屋にいるのが分かる。自分は参加せず、民子を猫がねずみを嬲るように、男たちに虐めさせた。
　部屋もそういう部屋だった。破廉恥な形に縛り上げ女の羞恥心と苦痛を楽しむためだろう、パイプや木組みで出来た大げさな装置がある。向かい合う壁には鏡があり、天井からは鎖が下がっていた。音の反響から、壁のレンガや床の石は本物らしい。壁にドアのない昇り階段だけの部屋は地下室のようだ

　民子はその部屋に相応しい真性のマゾヒストだった。
「ここから音は絶対に漏れネー。もっと泣け、もっと叫べ！　」
　容赦ない責めが続く。
　苦悶に歪む顔、皮膚からは脂汗が噴き出している。
　やがて、呻き声に別の音色が混じり始める。目の表情はモザイクで消されていてもなお、被虐を歓ぶ性を伝えていた。
　散々いたぶられ、民子の中に潜んでいたマゾの火が燃え上がってから東郷が登場する。民子は人間として扱われていない。東郷の歪んだ欲望のはけ口であり、その欲望に反応するオモチャだった。こういう趣味のない俺には目を背けたくなるような画面が続き、テープには耳をふさぎたくなるような音が響いている。

　民子は文子を憎んでいた。
　　奥様は益々美しく華やいで、旦那様にも大事にされ幸せそうにしている。
　　私は何とか世間体は保っているが、ここまで堕ちている。
　　元はといえば奥様がうちの亭主をあんなに夢中にさせたからだ。
　　奥様だって十分に楽しんでいる。私が見付けた証拠を見れば分かる。
　　亭主の下着には女の悦びがこびり付いていた。
　　亭主の背中には赤いスジが無数にあった。
　　両方の尻には爪が食い込んで黒くなったところが点々とあった。
　　これらの証拠は女がどういう時に出来るか、今の私なら分かる。
　　なのに私の前で、旦那様の前でシャーシャーとしている。
　　今は終わっているかもしれないが許せない。

　民子が寝物語に話すと、東郷の目が光った。
　今は終わった、女はいるが別の女だと民子は言ったが、東郷の勘は違う。東郷の執拗な調査が始まったが、不倫の証拠は見つからない、興信所を入れたがカケラも出ない。頭と文子が二人だけになる一瞬すらなかった。
　天候が悪い日の昼間、頭が主人の家に長居することはあったが、その時は旦那もいた。山持ちの旦那と頭が月に一度か二度、仕事の話で長時間を過ごすのはよくあることだ。民子が言う今の女も出て来なかったが、さすがの東郷も諦め掛けた。

　日曜に東郷が車で村に入ると寺の鐘がお昼を告げていた。仕事着の頭が山道を登って行くのが見える。「ニヤッ」と笑うと、東郷は車の行き先を変えた。頭の家の前に止まった車を村人が珍しそうに見て通っていく。子供も集まりだした。この当時、乗用車が村の脇道まで入ることは珍しかった。
　昼日中、自分の家で犯される初めての経験、声を出せない状況、いつ玄関が開くかの恐怖。東郷には民子の本気の抵抗が面白かった。しかし、民子が泣きながら手拭いを口にくわえると、東郷も煮えたぎる快楽のるつぼに引きずり込まれた。

　柱時計がボーンとひとつ鳴った。ほつれ髪を直しながら身繕いをする民子に頭の行き先を聞くと、さっき頭が向かっていたのとは反対の方向を言った。
　東郷は表に飛び出すと、里山の登り口へ車を飛ばす。短い足で急な道を急ぐ。登り切ると、窪地に山小屋が見えた。転げるようにして下る。荒れた息を整え、注意深く山小屋に近付こうとした時、小屋の戸が開き女が出て来た、「庄屋」の女房だ。尻を振りながら自分の家に帰って行く。東郷の目が普段とは違うその後ろ姿をジーッと追う。
　小屋を覗くと、上半身裸の頭が布団に寝てタバコを吸っている。東郷が小屋の戸を開けると、頭はそのままの姿勢で首だけひねり東郷を見た。東郷の手にはひもが絡まり、その下でカメラが揺れている。東郷のはったり顔が言っている。
「もう、狙いは抜きのはした金じゃあない。庄屋の全財産と女房を奪い取ることだ」

　自分と組んだ頭に東郷は計画を話した。私の妻にも民子と同じ目に遭わせるつもりだったのだ。頭は私の山の権利を一つ東郷名義に変えて言った。
「全部任されている。少し時間は掛かるが、あんたと俺で思いどおりになる」
　そして頭は、東郷に妻の裸を風呂の覗き穴から見せる。二人はそのあと飲み屋で酒を飲んだが、あの饒舌な男がほとんど口を聞かない。女に目の肥えたこの男にも妻の裸は殊のほか素晴らしいものだったようだ。
　東郷は私の妻をヤクザなどは使わずに、自分の手で一から仕上げることにした。頭はその他にも幾つか手を打ち、東郷を信用させ、主人の家の「実害」を最小限に食い止めた。そして、他の人間をこの計画に入れさせないことに成功する。しばらくして、東郷は頭に妻を騙して地下室へ連れて来るように命じる。頭は条件を出した。
　　別の就職先。
　　自分への十分な分け前。
　　民子と縁を切り、写真やネガ、テープを全部渡すこと。
　東郷は条件を飲んだ。数字も妥当な線であったし、今や民子など、どうでも良かった。飛び切り上等な獲物が目の前に運ばれて来る。東郷は頭を「御身大事なただの男」と甘く見て、完全に油断をした、させられた。

　妻が地下室へ連れ込まれる日が来た。頭が死んだ前日の日曜日だ。その日、妻は町で私と楽しい一日を過ごした。妻の代わりに惨めな格好でパイプ椅子に縛られたのはガマ蛙自身だった。
　頭をただの男と見なしたことを、ガマ蛙はどれだけ後悔したことだろう。ガマ蛙は責められる側の立場に初めてなった。それは快楽目的の生半可な攻めではなく、責める側の恨みと怒りがこもっている。頭は言った。
「これは女房の分だ」
　ガマ蛙も負けていない。大声で罵倒する。
「そこに写真がある、録音テープもある。全部おまえのスケベ女房のだ。今じゃ呼ばなくても自分から押しかけて来てせがむぞ」
　悲鳴のあと静かになった。失神したのだろう。水が飛び散る音がする。
「これは俺の分だ」
　絶叫の間に、ガマ蛙の命乞いが繰り返され、何回も水音がした。
　最後に山小屋で撮った写真の在りかを言わされた。ないものの在りかはどんなに責められても言えない。絶望的な叫び声が部屋に響くが、そこの主が誰も助けに来ないのを一番よく知っていた。
　三十分程で録音は終わる。最後の言葉は弱々しかった。
「もういいだろう。……楽にしてくれ。頼む」

　頭は三つのことを私に詫びた。
　一つは風呂の覗き穴のことだ。頭はこれまで私に正直に告白していなかった。一連の出来事がこの覗き穴から始まったのは間違いない。
　一つは東郷に見られた山小屋の一件だ。そのころ、頭の立場は悲惨なものだった。杏子は完全に私の味方、同志だった。蘭子は唯一、頭の味方だったが、蘭子でいられる時間はどんどん短くなっていた。そして、蘭子の魅力だった甘え、恥じらい、艶かしさなどが文子に移ってしまっている。
　頭はもう分かっていた。文子だと思って抱いていたのは蘭子だった。禁じられていたが頭は以前のように妻と二人だけになりたかった。そうすれば昔の蘭子に会えるかもしれないと思い、私が出張中だったあの日、魔法の言葉で蘭子を山小屋に連れ出す。

「そーにゃーそーにゃー」

　頭は以前、抵抗する文子の耳元で、この呪文のような言葉をささやいてみた。途端に文子は蘭子に変身した。その言葉は、頭にワインと儀式で蘭子に変身させられる時、文子自身が虚ろな声でつぶやいていた言葉だったが、意味はまったく分からなかった。

　しかし山小屋で二人きりになっても、蘭子は以前の魅力的な女にはもどらなかった。苦い心がはじめて文子を抱いたときを思い出していると、そこに東郷が現れた。

　三つ目はそのときの証拠写真を回収出来なかったことだ。もし、出てきたら申し訳ないとある。あれだけ責めても白状しないのは、撮ってなかったと言う東郷の話が本当かもしれない。そのカメラが地下室にあったので、シャッターを押してみたら大きな音がした。この音なら撮られた時に気付くはずだと頭は書いてある。そして、カメラのメーカー、型式も書いてあった。それは一眼レフカメラで、シャッターが押されると内部のミラーが上がるのだが、その音は確かにすごかった、十メートル先でも聞こえる。私の仲間内では「獅子おどし」という名が付いていた。
　私も東郷は写真を撮っていないと確信した。

　いずれにしても、東郷があの録音の責めに耐えられるはずがない。私は戦争に行っている。触れたくない過去だが拷問の専門的な知識があり、それを中国で実践した。その経験から私には人間が少しは分かる。東郷はあの責めに耐えられる人間ではない。
　そして、人間には裏切るタイプと、死んでも裏切らないタイプがあることを知っている。頭はあとのタイプだ。だから山のことの一切を任せた。ただ今回のことで、男と女のことは別だと勉強させられた。東郷は女を見る目はあったかもしれないが、人を見る目はなかった。
　もう一つの封筒の扱いについてはこう書いてある。
「警察が容疑者として私を訪ねて来たら渡して欲しい。それまでは開封しないで下さい」
　内容は自分のしたことが正直に書いてあり、私たち夫婦までは影響が及ばない内容であるはずだ。最後に民子と子供のことについての願いがあった。
「夫を裏切り、雇い主の家庭を崩壊寸前まで追い込んだ女です。しかし、元は自分のしたことからの始まりです。親子が当座、困らないだけの蓄えは残してありますが、世間知らずの女ですのでよろしくお願いします。この地にいると民子の過去を弄ぶものも出るでしょうから、出来るなら離れたところに行かせてやって下されば有り難いです。そこで立ち直れるかどうかは本人の問題です。当然でありますが、その面倒までは求めません」