十四　解離

　建之介は悶々とした日々を送っていた。妻を、柴田を責められぬ自分が情けなかった。柴田は大恩人だ。この生活があるのは自分の努力だけでは不可能だった。柴田との出会いからすべての運が開けた。大学に行けたのも、雅子と結婚出来たのも、今の地位も、柴田の存在なしにはあり得ない。
「あなた、あなた」
　目を開けると、心配そうに覗き込む雅子の顔があった。
「大丈夫ですか、またひどくうなされていましたわよ」
「そうか……」
　寝汗がひどかった。あれから、いつも同じ夢を見る。あの絶壁の上に建之介はいる。あたりは不気味に暗い。下を覗くと海面で父と姉が助けを求めている。海の色はピンクだ。男たちに抱かれた母が大きな声で笑いながら見下ろしている。建之介には何も出来ない。

　建之介は公園のベンチに腰掛けている。文子が飽きずに滑り台で遊んでいる。
「帰るぞー」
「はーい、抱っこー」
　文子が飛びついて来た。
　土手を歩いている。
「おしっこ。いい、ひとりで出来るの……。アーア、濡れちゃった」
　建之介の手が裸の尻を抱いている。
　あれから文子の顔を見ると建之介は自分に問いかける。
「この子は本当に私の子か」
　登山サークルの名簿には血液型が載っていた。柴田と建之介は同じ血液型だ。建之介の指が文子の尻で動いた。
「くすぐったーい」
　文子が身をよじった。鉄橋を貨物列車が通る。
「いーち、にー、さーん……」
　文子が指差している貨車の荷はくすんだ灰色のシートをかぶった戦車だった。

　問題が何一つ解決しないうちに、戦争が建之介たちの日常を強引に変えていく。柴田には別の顔があった。共産主義者、反体制活動の経済的支援者。妻との逢い引きの家もアジトの一つだった。この家にも公安警察の手が迫ったが、妻のことが知れる前に、あの家の女性と一緒に柴田が消えた。
　国家は建之介の才能を見逃してはくれなかった。大学をやめさせられ、外務省の役人になっていた。ロシア語はもちろん、大学で習得した外国語が外交の舞台に耐えられるレベルに達していて、何回も外国に派遣される。ソ連では教授夫妻に会えたが、夫妻は別人のようにやつれ老けていた。ソーニャは遠くにいるということだった。ソ連に逃れたという柴田のことを調べていた建之介はスパイ容疑を掛けられたが、すんでのところで逃れられた。

　時代が軍国主義に占領されていくとき、我が家も欲望という鬼に占領されていった。
　あの日以来、妻とは夫婦生活がなくなっている。代わりに娘といる時間が長くなった。
　朝から厚い雲が垂れ込めていた。建之介は必死の抵抗を続けていたが、その日ついに鬼の誘惑に負けてしまった。乗り移った鬼の命令に娘が素直に従う。建之介はゆっくりと目を開け跪いている娘に言った。
「ありがとう、もういいよ。お母さんに急いで来るように言いなさい」
　妻が入って来るなり押し倒した。
「どうなすったんですか」
　妻が何年かぶりのとまどいと喜びを見せている。
　何回目かの時、呼ばれる前に妻が戸を開けた。
「何てことをするのですか！」
　妻は建之介から引き剥がした娘を抱えて部屋を飛び出した。
　後を追いかけ謝ろうとする建之介を鬼が止めた。彼は卑怯にも酒の力を借りて、あの手紙を妻の前に投げ出した。そして仰向けに寝ると乱暴に言った。
「上に乗れ！　見せろ」
　妻は泣きながら、震えながら告白し、必死で訴えた。
「文子はあなたの子です。そのころあの人とは会っていません」
　文子ができる可能性のあった時期に、柴田は中国に渡っていた。建之介も送別会、帰国祝いに参加した。しかし、その間に一時帰国したかもしれない。疑えば切りがなかった。

「ソーニャ、ソーニャ」
　建之介は目を閉じてつぶやくと暗闇にドアが現れる。鍵穴の向こうで、父親の前に跪いていたソーニャがこちらを向き、にっこりと笑う。
「おかーさまー」
　娘が口を拭いながら部屋を飛び出していく。
　妻が建之介の上にいる。節穴からは一部しか見えなかった妻が堪能できた。建之介の知らなかった妻も柴田から奪い取ったと思う一方で、こんなに乱れているのは、柴田を思い出しているのではないかとの思いが建之介を責めた。
　寝室を出ると居間で宿題をしていた娘が妻に言った。
「お母様、お父様にかわいがってもらった？　幸せ？」
「ええ……幸せよ。あなたのお陰よ」
「お父様、わたし偉い？　役に立ってる？　わたしのこと好き？」
　娘を抱き上げると建之介は言う。
「ああ、ああ、そうだよ。大好きだよ、あや」
　妻が横を向き袖を目にやる。建之介の中でも良心がのたうち回っていた。

　戦争が終わると建之介は大学に戻ったが、鬼は居座り、建之介を欲望の深みに引きずり込んでいく。呼ばれて書斎に入って来た娘が机の上のワインを、そしてズボンを下げた建之介を見て言った。
「今、お母様はお出かけです」
「いいんだ、来なさい」
　娘が建之介の顔を怖々見ている。酔ったその顔は赤鬼のようだったろう。
　閉めたカーテンから漏れる昼の光が顔に突き刺さると、建之介はその痛みに耐えられず、目を閉じた。いつものように鍵穴が現れる。
「ソーニャ、ソーニャ」
　建之介が呻く。ソーニャを組み敷いている教授がこちらを見ると、「ニャッ」と笑い見せ付けるように動く。
　建之介が教授の動きに負けまいとする。
　娘は悲鳴を上げながら抱き付いてきた。

　最近、娘は抵抗するようになった。背徳の行為とはまだ思っていないようだ。あくまで家族愛の一つの形と思いながらも、漠然とした不安、違和感に慄いているのだろう。建之介のわずかに残った良心も娘の幸せを訴えたが、その都度、鬼がささやく。
「本当におまえの子か？」
　建之介は娘への虐待の責任を鬼に押し付けている。中国に出張していた時、建之介は外務省が保管する柴田の記録を見たが、中国にいる間、彼は一度も帰国していない。文子は建之介の娘に間違いない。しかし、もう止まらない。

　今日は特に動揺が激しい。泣きながら意味不明な言葉を口走っている。全身が強ばってきた。テーブルのグラスに建之介が良心を酔わすために飲む赤ワインが残っている。建之介は娘の体を抱きしめグラスを震える唇に当てた。
「ソーニャ……、ソーニャ」
　娘は建之介がいつも叫んでいる言葉をつぶやくと、しばらくの間があって顔を上げた。
「お母様のようにして上げましょうか」
「文子！」
「文子なんかじゃない、あたいは蘭子よ。いつも覗いていたわ。普段はおしとやかなのに、凄い変わり様、お母様ったら。でも、あたいはあのお母様のほうが好き」
　打って変わった娘の振るまいと体の反応に、建之介の中で鬼が万歳をしている。娘を呼ぶ時、部屋にはワインとグラスがあったが、それはもう建之介のためだけのものではなくなっていた。

　蘭子がセーラー服のまま建之介の上に跨って、大きく足を拡げて母を真似ている。その時、廊下で「ドサッ」という音がした。
　障子を開けると妻が倒れている。それを見た蘭子も気を失う。建之介が妻を抱き起こし、おろおろしていると後ろで声がした。
「こっちに連れて来な」
　振り向くと裸の若い女がいる。髪を逆立て、腕を組み、仁王立ちで睨んでいる。娘がいない。
「だれだ！」
　女は面倒くさそうに言った。
「いいんだよ、だれだって。それよりもその女を布団に運んで裸にしな」

　建之介は仕事が終わると飛ぶようにして鬼の住処となった家に帰る。その家は休日の晴れた昼間でも雨戸が閉められていた。暗がりの中で雨戸の節穴から差し込む光に浮かび上がるものがある。女に犯され、のたうち回る建之介と妻の姿だ。夫婦は異常な世界に狂い、痩せ細り、髪は瞬く間に白くなっていった。

「酷い、酷い！」
　中学生の文子はそこまで読むと父の日記を壁に叩き付けた。それでも足りず足で踏み付けたあと、床に突っ伏して泣き叫んだ。
「汚い、汚い。私は汚れ切っている。あの人たちに汚された」
　信じ切っていた両親に裏切られていたのだ。両親の喜ぶ顔が見たい、ただそれだけを思い、尽くした。自分は愛されていると思っていたが、父の欲望の道具にされ、自分が気を失っているとき、母も加わっていたと日記には書いてある。文子は家を飛び出す。
「あーあー、死にたい、死んでしまいたい」
　橋の下を走る電車に吸い込まれそうな気がした。
「死ねるもんなら死んでみな」
　同居人、蘭子がせせら笑う。
「あなたは不潔よ」
「おまえは悲劇のヒロインのつもりかい」
　ひとり芝居のような会話をしている文子を、人々が怪訝そうに見て通る。

　文子が蘭子を意識し出したのは五年生のころで、そのころはこんな風に思っていた。父が喜ぶのがうれしかった。自分と入れ替わりに部屋に入った母が、しばらくして幸せそうに出てきた。そのあとは特に優しくしてくれた。
　しかし、父は喜んだが、口に含むところはおしっこの出るところで汚いと思った、男の子がおちんちんを触るとお母さんに怒られる。
「そんなとこ、いじるんじゃありません！」
　大人も子供もおしっこをすると手を洗う。

　父の前に跪くと、自分に代わって一生懸命に口を使う子が現れるようになる。まだ名前はなかったがその子が蘭子の始まりだった。
　父が自分の中に入ってくるようになると、文子は自分の体から逃げ出すようになった。出来れば自分の体から出たくなかったので、父が入ってくるのを拒むようになる。
　何となく子供がしてはいけないことだと思ったし、友達はこんな事をしないみたいだ。母にも悪い気がした。変な気持ちになり、変な声を出してしまう自分がイヤだった。
　ワインを飲まされるようになると、蘭子は自分とは別の存在とはっきり意識した。蘭子が自分を体の外へ押し出すようになったが何の抵抗も出来ない。死んだはずのソーニャが子猫になって現れた。その中に逃げ込んだ文子は蘭子と父のすることを他人事のように見ながら言う。
「私には関係ない、私はあなたみたいに喜んでそんなことはしない。早く終わって私の体を返してよ」
　母が廊下で倒れた時、ソーニャの中にいた文子は蘭子に吸い込まれるような気分になり、後は憶えていない。気が付くと両親の間に挟まれて寝ていたが、言いようのない疲れを感じた。それから、両親の自分を見る目が変わった。大人を、いや、恐ろしいものを見るような目付きをした。父が日記の中で「だれだ」と言った女のことが気に掛かる。