| 十九 別れ 最後のフォルダを開ける。母の命日の日付だ。曲が流れてくる。「タイスの瞑想」という曲で俺も聞いたことがある。曲をバックに母が映し出される。眼鏡をしていない母、大勢の前で挨拶をしている母。若い娘さんたちに囲まれている母。家で料理をしている母。いずれも蘭子が文子と杏子を飲み込んだあとの写真だろうが、俺には明るくなった母としか違いは分からない。その当時、舞がたまたま家に帰っていて、母の後ろ姿をじっと見つめていたことがあったが、舞は何か気付いていたのだろうか。 父と旅行に行った時の写真がある。全国を旅したようだが、母の好きだった伊豆が多い。当時、俺は旅先から母の絵はがきをよく貰った。次々と変わっていく写真の母は幸せそうで美しく気品に溢れている。 妻の試練は続いていた。子供たちが大きくなり以前ほどではないが、それでも妻は幾つかの役職に就いていて会議に出席し、意見を述べ、時には大勢の前に立たなければならないこともあった。蘭子に務まる訳がない。体調を崩したということで、人前に出ることはしばらく控えたが、憔悴し切って足元もおぼつかない妻の姿に世間も納得した。 家の中のことでも泣き通しだった。家事のすべてに悪戦苦闘していたが、何といっても問題は料理だった。指を切り、火傷をし、髪を振り乱して作った料理がテーブルに載ったが、食べられる代物ではなかった。 「あー、死にたい、もういや！ 何で私が残ったのよー」 文子の叱咤激励が飛んでいるのだろう、独り言が続く。 「あやちゃん、あんたを妬み、恨んだけどあんたはすごい！ このほかに子供を育て、経理の仕事をして、使用人の面倒も見て、いろんな奉仕活動もしてたんでしょ。本当に偉い！」 幸運なこともあった。子供たちのことだ。一緒にいれば知れてしまったろう。純一は休みになってもヒッチハイクで北海道一周だの、友達の家族とヨットで航海に出たりと青春を謳歌していた。舞は留学先でホームステイをしている。二人はたまに家に帰っても、すぐに青春真っ直中に舞い戻って行った。 半年の間に妻は素晴らしい適応力、順応力を見せた。元来の目立ちたがり、出たがりな蘭子の性格が表に出て、人前に出るのが苦にならなくなった。発言する文言は私が原稿を書き、漢字にはすべてふりがなを振った。はらはらさせ通しだったが、大きな綻びを見せることなく、見事に文子を演じた。華やかさが加わり、以前にも増して注目の的になり、その分多くなった同性の妬み、男性からの誘惑には杏子の助けを借りて隙がない応対をしている。 そのころには文子の指導よろしく家の中のことも難なくこなすようになっていた。一時は家中に張ってあった家事の段取りや注意事項を書いたメモが全て無くなっていた。普段の料理はレシピを見なくても出来るようになっている。 やがて文子や杏子の助けもいらなくなった、と言うより本来の妻という人間が自分の中で三人をコントロール出来るようになった。 週末は家の中が大勢の娘さんで活気付く。妻がボランティアで開いている花嫁修業の教室になる。文子が学生時代に京都で下宿していた大家さんは老舗といわれた料亭の女将だった。隠居するとその経験を生かして、家に娘さんを集め、礼儀作法の教室を開いており、文子はアルバイトでその教室を手伝うようになっていた。礼儀作法などは型にはまった古くさいものだという先入観が文子にもあったが、彼女の教えることは合理的、効率的であり、姿勢と動きに無駄がなく美しかった。 また、文子は自分が先生と生徒の間にいる客観的な立場だったので、教えがより自分のものになり、嫁いだこの家での振る舞いや大勢の使用人を使うのにも大いに役立った。この大家さんのお陰で当時苦しんでいたアルコール依存症からも立ち直れたのだった。 花嫁修業の教室でも妻は三人を演じ分けた。文子が元女将になり娘さんに優しく教え、厳しく諭すところは杏子の役目で、娘さんたちと一緒になってはしゃぎ、楽しむのは蘭子の役目だった。娘さんからはメリハリの効いた教え方だと人気があり、生徒の親や嫁ぎ先にも喜ばれた。 私たちはよく旅に出かけた。子供たちも大きくなり、気楽に家を空けることが出来た。私も役場で幹部の立場になり、ストレス発散の場が欲しかった。 当時はまだ珍しかった高級リゾートホテルの会員権を私は何口か持っている。その会員権で国内外の観光地、保養地にあるホテルが利用出来るというものだ。会員権は高かったがそんな贅沢も許された。 私は頭が亡くなった時、山林経営を不動産投資に切り替えていたが、列島改造を切っ掛けとした土地高騰により、資産は自分でも恐ろしくなるくらいに増えていた。会員権も投資目的で持っていたのだが、別荘でのあのような事件もあり、最近はもっぱら高級で安全なリゾートホテルを利用して、全国の観光地を楽しんだ。妻を日常の家事から解放してやるためにも、クラブの人たちと会うのにも、別荘よりホテルのほうが良かった。 幸せな時間は長く続かなかった。妻の心臓が急速に弱ってきた。たちの悪い不整脈が以前からあったのだが、医者も首を傾げるほどに悪化のスピードが速い。二ヶ月前には医者から余命を告げられるほどになっていた。 それでも久しぶりに一時帰宅が許され、家族も集まり妻は幸せそうだった。次の日、子供たちが帰り、病院に戻らなければならない時間が近付いてくると、妻は私の手を取った。 「今度病院に入ったら、もう二度とここには戻れない気がするの。お願い、抱いて」 私は妻の命に関わると思ったが拒めなかった。 「痩せたでしょ、でも忘れないようによく見ておいてね」 肌は以前の張りを失っていたが、透き通るように白く、やつれてもなお四七歳とは思えぬ体の線を保っていた。 私は一瞬、妻の目に吸い込まれるような気がした。気が付くと、裸の私はベットの上で、妻と一つになっていた。二人は動かずそのまま見つめ合っている。 「私の命を縮めたなんて悩まないでね、あなた。私、後悔なんか、これっぽっちもしていないから。神様には怒られるかも知れないけれど、何もなく長生き出来た人生なんかよりよっぽど幸せ。三人が一緒になってからのいろんな出来事も楽しかったわ。益々あなたを深く愛せたし」 妻の体がひんやりとしてきた。 「私もだよ……」 妻の体が急に強ばり、痛いほどに締め付けられる。 「雄チャン、お別れだ。おまえに会えてよかったよ。じゃーな」 杏子だ。 今度は体全体が柔らかくなり、優しく揉まれる。 「行くわよ、役立たず。やっと辰さんに会えるわ」 蘭子が悪戯っぽく笑う。 「最後まで意地悪ねー、蘭子さん。大丈夫わよ、私と杏子ねえさんがついているから。それよりも、あとを追って自殺なんかしちゃ駄目よ。いい人がいたら、再婚してもいいのよ。私たちの分まで長生きしてね。ありがとう、あなた」 文子が最後の別れを言った。長い時間、私はそのままの姿勢でいた。涙は出なかった。 俺は父との約束どおり、すべてのフォルダを見終えた。 集中砲火を浴びた軍艦がいつ轟沈してもおかしくない状態で大海原（おおうなばら）を漂流している。俺の脳はそんな状態にあったが、母の合体してからの日々、そして臨終の時がかろうじてそれを耐えさせていた。 最後のフォルダには、表形式のファイルがあり、マスターファイルやバックアップファイルが納められた膨大な枚数のディスク、写真やネガフィルムの在りかが記録されていた。それらを探し出し段ボール箱に入れていったが、表にない一枚のＤＶＤディスクが残った。 ラベルには母のポートレートが印刷されている。その意味深な微笑みが何とも気に掛かる。トレイに入れたが、全体が暗号化されていた。あのパスワードでも復元出来ない。ボリュームラベルは「club」となっている。俺の頭の片隅に引っかかっていた「クラブの人たちと会うのにも……」という父の言葉が暗雲のように重くのし掛かってきた。 思い付く限りの言葉と数字を暗号キーとして打ち込んだが駄目だった。俺は諦めて、そのディスクを段ボール箱に入れようとすると、後ろで小さな音がした。 「カタッ」 振り向くと壁に掛かった鬼の面が傾いている。直そうとその面に触れると、豆まきをしている幼い自分の姿が脳裏に浮かんできた。俺はキーボードに打ち込んだ。 「onihautifukuhasoto-鬼は内福は外」 海沿いの道路が写る。案内の看板が見えた。国道から外れるとすぐにホテル敷地内の道路に入る。道路の両脇にはゴルフのショートコースやテニスコートがあり、広い敷地を囲むようにサイクリングコースもある。さらに進むと手入れの行き届いたフランス様式の庭園の中に重厚な建物が現われた。俺も何回か行ったことのある、伊豆のリゾートホテルだ。 私たち夫婦はチェックインを済ませロビーでコーヒーを飲んだ。ロビーからは大小のプールが見え、子供や若者たちが楽しそうにしている。木立に囲まれたドーム型の建物は温泉プールだ。その向こうで、青い海が三時過ぎの太陽に照らされて眩しく光っている。私は一本の電話を入れてから妻と部屋に向かった。 部屋は暗かった。カーテンがすべて閉められている。突然、眩しい照明が当てられて、私は何者かに羽交い締めにされた。照明の中で妻も別の男に押さえ付けられ、手足を縛られている。妻を縛り終えた男は私の足首を縛り、腕も後ろ手に縛った。さらに猿ぐつわをされた私は床に転がされる。三人の男たちはプロレスの覆面レスラーのようなマスクをしている。照明はビデオカメラを撮影するためのものだった。 三十畳ほどのこの部屋は中央にソファー、テーブルがあり、左側には、内風呂というには広すぎる温泉の出る風呂への入口がある。右側には並んだ植木鉢を間仕切りにしてベットがある。その奥一段上がったところに八畳ほどの和室があり、障子で仕切られている。 その和室に二人の男が妻を連れ込み、ビデオカメラを持った男が和室に入ると障子戸が締められ、私一人が取り残されてしまった。和室からは妻の抵抗するくぐもった声が聞こえる。障子に照明の光が揺れ、時々人の影が映った。しばらくすると、漏れてくる妻の声の調子が微妙に変わってきた。 妻を責める男たちの卑猥な言葉が続く。それに答えるかのように喘ぎ声が重なる。私は芋虫のようにその部屋ににじり寄った。突然障子が開いたが、段差があるので中が見えない。上から見下ろしている男が言った。 「見たいのか」 私は部屋に引きずり上げられる。 妻は私の目の前で、建之介が納戸の隙間から見た母、キクに変身した。 妻の口から次々と出る嬌声に遠慮するかのように電話のベルが鳴る。腰の動きを止めずに男が電話を取ると、妻は必死で口を押さえた。 「メシの支度が出来たってさ。腹が減ったぜ」 男たちは妻を放り出すようにしてベットから離れた。妻は両足を大きく拡げたままの格好で、腰をガクガクとさせている。部屋に入ってから二時間以上が経っていたのだ。 私たち夫婦は協力して危機を乗り切ってきたが、私の中で大きな問題が起きていた。三人が合体していろんな問題が一度に起きた時、唯一、夫婦生活は何の問題もなく素晴らしいものだった。はじめ文子のように恥じらいを見せる妻の肉体は、私の愛撫に応え、最後には蘭子そのままに燃えた。ときに杏子のように私を責めた。 だが、妻が普段の生活で素晴らしい適応力、順応力を見せていくにつれ、私はノーマルなセックスでは飽き足りなくなっていった。私は自分を叱る。 「自分が不能だったころを思い出してみろ。分裂した妻のあの苦しみを忘れたのか。おまえも妻と頭のことで十分苦しんだろう」 そのとおりだ。しかし、もう一人の私は格子戸から見たように妻を見たがっている。 「治った妻にキクや雅子のような思いをさせるのか。己の欲望のために妻の人格を踏みにじることになるんだぞ」 そのとおりだ。しかし、社会活動をしている妻、娘さんに囲まれる妻、家の中で家事をこなす妻、そんな妻がキクや雅子、民子のように、男たちの執拗な責めに狂わされていく姿が網膜に映し出される。それは白昼夢となり仕事中にも現われるようになった。 一ヶ月ほど前、私は医者になっっている旧友と料亭で会った。細君が亡くなっての長いやもめ暮らしだったが、最近、若い奥さんをもらっていた。酒も入り、話しも本題に入る。 彼はある会員制のクラブに入っていた。妻に若い男をあてがい、夫公認のセックスをさせる。そしてそれを見る。つまり、トラブルや病気などの心配のない相手を提供してくれるという、金持ち相手のクラブだった。 そのための施設をビルやマンションの中に、また、別荘などのかたちで何カ所か持っていたが、会員の希望する場所にスタッフを派遣してもらうことも出来た。私は彼の紹介でそこの会員になろうとしていた。 クラブのオーナに会いに行く私を、もう一人の私が必死に止める。 「やめろ、今の幸せな生活を台無しにするのか！」 これまでの経緯を話し、妻を説得しながら徐々に始めたいと言う私にオーナは言った。 「はじめにバンと行きましょう。もし奥さんの拒否反応が強いならそこでやめましょう。経験の少ない方が、修復も簡単ですから」 さっき襲われた時、男たちは私の腕の紐を自分でほどけるように縛っていた。妻の抵抗があまりにひどかった時は、縄を解き、妻を助ける段取りになっていたが、妻は私の望んだ姿を見せた。男たちが部屋を出ると、私は自分で縄を解き、息も絶え絶えな妻を抱え、内風呂に向かった。空と海は夕焼けに染まっている。すべてを話すと、妻は静かに言った。 「私、あなたが最近、何を考えているのか何となく分かっていた。そして今日、車の中でのあなた、電話しているときの横顔、あなたの緊張と興奮が伝わってきたわ。あなたの中にも私の中にも、以前にも増して凄い鬼が住み着いたのね。地獄の底まで行くのかしら、……私たち」 夕日を浴びている妻は、朱色に復元された阿修羅像のようだった。 レストランのテーブルはほとんどが埋まっている。家族連れ、カップル、いろんな組み合わせで週末のレストランは活気にあふれていたが、ゆったりしたテーブルの配置、バンドの生演奏、給仕をする人たちの洗練された動きが高級感を醸し出している。私たちはその雰囲気に浸りながらワインを飲み、ゆっくりと食事を楽しんだ。しかし男たちもこの中にいた。部屋に戻ると、男たちの罵声が飛んだ。 「人前じゃ上品ぶりやがって、この変態夫婦が！」 妻はまた二時間たっぷりと責められ益々乱れ狂った。男たちが帰った部屋で二匹の鬼がビデオを見ている。画面の中の自分に陶酔する女鬼と、嫉妬に狂う男鬼がおぞましい姿でいつまでも交わっていた。 クラブにはＳＭプレイのための部屋があり、それは東郷の地下室とは比べものにならない本格的なもので専属のスタッフもいた。スタッフに本人と分からぬように処理をした民子の一連の写真を見せ、テープを聴かせた。今度は妻をスタッフが時間を掛け育て上げていった。 あの時、頭が命がけで守らなければ、東郷の地下室にいたであろう妻が今、私の目の前にいる。民子になった妻がいる、いやもう民子を凌いでいる。四十を過ぎてなお、色香を放つ豊満な肉体は爛熟という表現がぴったりだ。その白い肌が被虐の色に染まった。 やがて私たちは仮装パーティーに参加するようになる。くじ引きで当たりくじを引き当てた妻に、突然、明るい照明が照らされる。たじろぎ逃げ出そうとする妻が男たちに組み敷かれ、見せ物にされ、あらん限りの辱めを受けた。羞恥と快楽が吐き出す熱風に晒されながらも妻の目は、群がる好奇の視線の中から仮面の奥で陶酔の極にある私の目を捜し出していた。 度重なる異常な興奮は妻の弱い心臓を確実に壊していった。医師の遠回しの注意もあり、私は過激な行為を控えようとしたが妻は聞かなかったし、か弱い私の理性は凶暴な欲望にいとも簡単に負けた。 妻が強い発作を起こすと、さすがの私も妻をなるべく入院させるようにした。看病のために役所も辞めた。しかし、退院して家に帰ると、ビデオの中の自分とワインに酔った妻は鬼になった。 俺は信じていた。母と頭とのことは、その当時は病名こそなかったが、多重人格、今は解離性同一性障害といわれる病気のためであり、自分ではどうしようも出来ないことだったと。だから、病気が治った母は本来の明るく理知的で魅力溢れる女性になったんだと。しかし人格が合体したあとに、より異常な世界に父とのめり込んでいった、明らかに自分の意志で。 蘭子は性に放蕩であったが、男との間に情の通い合いを求めた。男であれば誰でもいいという訳ではなかった。なのに……。画面の母に俺はあらん限りの罵声を投げ付けた。 「鬼のせいにするな！ 変態、異常者、色魔、背徳者、二重人格、ケダモノ……」 クラブの女王となった母にその言葉はむなしく跳ね返され、俺の神経も自分の中の鬼に狂わされていく。鬼は母を俺の妻の姿に、そして妹の舞に変えて見せた。その幻影を見ながら俺の右手は股間で激しく動いている。 何かの気配に振り向いた。壁に掛かっている鬼の面が祠にいる鬼に変わって、あの凄い眼孔が俺を睨んでいるのだ。パソコンの電源をやっとのことで切り、俺は居間に逃げ込むと倒れこんだ。口は動いていたが、何を喋っているのか分からない。やがて意識が遠のいた。 「おふくろ！」 自分の大きな声で目が覚めた。一時間ほど経過している。先ほどの段ボール箱に、あのＤＶＤと増設ハードディスクを入れる。それを庭に持ち出し、納屋にあった灯油を掛け、火を点ける。黒い煙が夜空に吸い込まれるのを、俺は長い間見上げていた。 起きてからの俺は落ち着いていた。と言うよりも、父の死から五日、書斎に入ってまだ一日も経っていないのが信じられなかったし、その間のことがすべて夢のようであった。 夜明けの色に星たちが次々と塗り込められていき、今は明けの明星だけが残っている。その下に大きな家が黒くそびえ立っていた。 父の生前、この建物を県の文化財にとの話があり父は断っていたが、その話が何回も繰り返されたのには訳がある。この家は明治、大正、昭和とその時代時代に住み良いように改修がされていたが、そのときに外された古い材が倉にすべて保管されていた。改修されたものを取り除き、これらを再構築すると江戸時代そのままの建物になるはずだ。 古く住みにくいこの家に父がこだわるのが、俺は不思議であり、内心は不満だった。半年前にも普通の家何軒かが立てられるだろう費用を掛けて、茅葺き屋根を葺き替えた。 「俺の代になったら県の文化財指定の話を進める。勤めの関係で俺はこの家には住めないし、老後も住むつもりはない、妻も望んでいない。舞の夫も転勤族で今も遠くで暮らしている。この家を良い状態で保存するためには大変な維持費が掛かるだろう。それに今は県境の山にトンネルが開いて、村の脇を交通量の多い国道が通っている。多くの人に見学してもらったほうが村のためにもなり、世の中の役に立つのではないか」 俺は昨日までそう考えていた。今は違う、出来る限り手放さない、見せ物にして他人などをこの家に入れない。父母への思いも、もちろんあったが、二百年以上ここに立っているこの家には、俺に連なる名もない人々の喜びと悲しみの歴史が刻み込まれているはずだ。恵まれた生活を平凡に送ったと信じていた父と母、仲の良い普通の老夫婦だと思っていた祖父母、そのまた親の人生を思うと尚更だった。 これはすこし後の話になるが、何年か前に書かれた父の遺書が見つかった。遺書を書いた時点の財産を四等分に分け、俺と舞が一つずつを受け取る。それでも父が祖父から引き継いだ財産より多いはずだ。残りの内の一つをこの家の維持管理に当てる。屋根の葺き替えの費用もここから出ていた。最後の一つはもう無かった。 中国の砂漠が拡大していて、それを食い止めるための緑化プロジェクトが日中合同で進められており、そこに寄付されていたのだ。当時、多額だった匿名の寄付がニュースになったのを憶えている。戦争中に、中国でしたことへの贖罪（しょくざい）の気持ちからだろう、俺は父に拍手を送った。 日の出間近になった空をもう一度見上げた。明けの明星も消え、父の存在はもう感じられない。黒い煙と共に安心して母たちの待つところに旅立ったのだろう、俺の背中に重い荷物を置いて。 玄関の戸を引き家の中に入ると、お母さんが食堂から出てきた。 「どこに行っていたの。ご飯ですよ」 「うん」 皆テーブルに着いていた。 お父さんは新聞を読んでいる。 舞は箸を振り回しての歌とおしゃべりだ。 僕はお母さんを見上げ、小さな声で言った。 「おかあさん」 「なーに」 舞は箸を宙に置いたまま、こちらを見た、お父さんも見ている。 「……ううん」 「変な子ねー」 もんぺの上に真っ白な割烹着のお母さんが笑った。 玄関で靴を履き、立ち上がると、後ろでまた母の声がした。 「純ちゃん、行くのね。……また来てね」 突然、熱いものが込み上げてきた。 「おかあさん、僕は、僕はおかあさんが今でも大好きだよ」 さっき言えなかったことを言って、思いっきり抱き付こうと手を拡げ振り返った。 母の姿はなく、家の中は障子越しのやわらかい光と静けさに満ちていた。 完 |
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| 2008.2.6掲載 |
刹果 喜怒裡さんの作品集→ |