四　書斎

　俺は父の書斎に入った。壁に鬼の面がある。以前は居間にあったものだ。この村ではどこの家にも鬼の面がある。
　父が退職してからは、書斎といっても書籍類はほとんど消えてしまっている。父の唯一の趣味は写真だった。全国的なコンテストに何回も入選している。
　撮った写真をスライドにして、録音した音と同時に自動的に映すスライドショーを子供のころに見た記憶がある。小鳥の鳴き声が流れ、巣の中の雛と親鳥が白い壁に次々と映し出される。映画とは違う不思議な臨場感があったのを覚えている。俺や妹を主役にしたものもあったはずだ。当時、映し出す機械は幻灯機といった。
　カメラとレンズ、撮影機材。アルバム、スライドが所狭しと置いてある。カメラは最高級品からバカちょんカメラまで何十台もあり、レンズの数もすごい。専用のケースに入っている。機材は、水の中を撮影するためのケース、動物を近くで撮る時にシャッター音を消すカバー。遠くからシャッターを押すケーブル、一定の間隔で自動的にシャッターが切れる装置、フイルムを何本も連続して撮影する装置。三脚、ストロボ、録音機器。あらゆるものが揃っていた。そして極め付けは現像室。小さな写真屋さんだった。いつからか、カラーも現像出来た。ひと月の給料がすべてこの部屋に消えた時、さすがに母は文句を言ったが、この家の経済はそれを許した。
　ビデオカメラが出るとそちらにも手を出した。ここに三台残っている。パソコンまである。六十の手習いで始めたが、すごいレベルになっていた。今までに貯めた写真やスライドをハードディスクにも保存して、パソコンで管理しているらしかった。
　倒れていた父の手には、このパソコンの電源コードが握られ、そのプラグがコンセントから外れていた。

　パソコンの電源を入れ、ファイルを管理するソフトで内臓のハードディスクを閲覧すると、一番新しい変更日は父の倒れる何日も前だった。趣味で撮影された画像がフォルダごとに整理されている。サウンドファイルもあった。「ｓｈｏｗ．ｅｘｅ」というプログラムを実行すると、スクリーンセーバーにサウンドが合体して、あの現代版スライドショーを上演した。
　三連の蒸気機関車が汽笛を鳴らして近付き、蒸気の音を響かせ遠ざかっていく。詳しくないが、今ではこの機関車の写真も貴重なものなのだろう。ハードディスクには昔の村の懐かしい風景とそこに生きた人々の写真であふれていた。

　増設のハードディスクが接続されている。開けようとしたらパスワードの要求画面が出た。そこにあのメモのアルファベットと数字を打ち込むと見事に開いた。俺は自分の勘に拍手を送る。大容量のハードディスクだが、やはり満杯状態だ。父の倒れた日でファイルを検索すると幾つかのファイルが出てきた。俺の腕時計とパソコンの内部時計は一分と違ってはいない。
　父が倒れてから発見されるまで五時間以上経っていた可能性があることをそのファイルの更新日時は告げていた。父の望みだったが、一人住まいをさせたことが悔やまれる。
　そのファイルのあるフォルダもやはり画像ファイルとサウンドファイルで一杯だ。その中の一つを開いてみる。男と女の結合部分のアップが映し出された。しかも無修正。
「いい歳をして、こんなものを見ていて倒れたのか、親父は」
　最近のあの気難しい顔を思い浮かべ俺は思わず笑ってしまった。笑ったあと、それが父の急変を知らされてから、初めての笑いだと気づいた。こんなときに見るものではないと思い、画像を閉じようとマウスを動かしたが、指先が勝手にスライドショーのプログラムを実行した。ディスプレーの画面が青から黒に変わる。

　真っ暗闇の中に足音が近付く。ドアが開く音がして、部屋の電気がついた。閉じた母の三面鏡がある。男が先に入り、女がそのあとを追いかけて来た。男女の言い争いが画面の中で始まる。
　俺の体を衝撃が走った。月並みな言い方だがほかに言いようがない。子供の頃、コンセントをいたずらしていて感電したことがある。あの指先から腕への感覚が全身を貫いた、と言ってもはるかに物足りない。
　母とあの男が現れたのだ、三十年前の若さで。俺は事態が飲み込めない。画面は容赦なく切り替わる。必死の声が聞こえる。
「ここはだめよ。一度だけだって言ったじゃない、この前。絶対いや！」
　男はワインの瓶とグラスを棚に置く。母を抱き寄せると母の手を自分の股間に持っていった。抵抗する母の耳元で何かを言い続けている。母の抵抗が段々に弱まる。男はワインを何回にも分けて母に飲ませた。
　完全に抵抗しなくなった母は一度部屋を出ると、男の履物を持って入って来た。暖炉に火を点けた男は紙袋を母に渡し、着替えるように命じる。

　はじめは演技かと思ったが、役者でもない二人にこのような迫真の演技は無理だ。男と母は写真を撮られていることを知らない。写っている角度から見て、格子戸の中からの隠し撮りだ。そして撮っているのはやはり三十年前の父、俺はやっとそこまで理解した。

　母は男から受け取った包みを開け、目の前に広げた。派手な赤に近い朱色の長襦袢だった。点々と白い模様がある。
「いやねー」
　その言葉と甘えたイントネーションは切なさと苦さをない交ぜにして、強引に俺を三十年前に引き戻した。

　母は普段「いや」という言葉を滅多に使わなかった。使う場合でも「です」を付け「いやですねー」と言う。しかし、男との密会の時にはこの「いや」という言葉づかいが溢れていた。拒否の言葉とは裏腹にその響きには、これから起こることへの剥き出しの期待が充満している。
「いやっ」
「いいから着ろ！」
「強引なのね」
　母は男をにらみながら長襦袢を羽織り、上手に肌を隠して着ているものを脱いだ。男は鏡台の鏡を全部開くと、母に濃い化粧をさせ、袋の中に入っていた毒々しい赤の口紅を渡した。鏡の中に娼婦がいる。
　母は髪をアップにまとめて、かんざしを挿すと、衣紋掛けにあった黒留め袖を着る。今度はめったにお目に掛かれない高級クラブの美人ママが現れた。母は半身に体を反らせて、満更でもなさそうに鏡を見ている。その母を男の手がベットに引き入れると、二人がカメラの視界から消え、鏡に映る二人が撮影されている。男は母を父の枕の上に座らせると、膝をつかみ大きく開いた。

　ここからの母とあの男が繰り広げた狂宴をあなたはもうご存知のはずだ。そしてあなたと俺の推理はそんなには違わないと思う。
　父は母と男の間に疑惑を持ち、周知に準備をした。季節物を格納する部屋に消音装置のついたカメラ、三脚、テープレコーダ、フィルムを前もって運んだ。消音装置の付いたカメラは遠近の操作が出来ないので三台用意した。フィルムは二時間分撮れる本数を揃え、すぐ使えるよう箱から出し、ケースのふたを外しておいた。そして、寝室からは見えないよう、寝室が見えるようそれらをセットする。この日、父は食事を済ませ残業に出かけると見せて、窓から脚立を使って寝室に入りこの部屋で待った。
　白状しよう。以前、聞いてもらったあの寝室の描写はこのスライドショーに多分に影響されている。つとめて十四歳の記憶を話そうとしたが、これを見た大人の視線が混じっているのはお許し願いたい。
　音声はテープレコーダの音が元になっており連続している。映像は動かず一秒から一分くらいの間で変わる。間隔は一定ではない。父が手動でシャッターを押して写した写真だからだろう。しかし音声と映像は連動している。母の口の形と叫び声が一致している。
　男と母の動きの中から切り取った最高の場面を母の嬌声が追いかける。圧倒的な臨場感だ。どのように映像を変える時間をコントロールしているのだろう。コンピュータがいちばん苦手な作業のはずだ。技術の確かさと鬼気迫る執念が伝わってくる。

　影響されてなお、スライドショーは俺の記憶を一新させるものだった。あの時は十四歳、今は四五歳。少しは知っている。セックスを、男と女を、そしてその表と裏も。俺は外から見た。父は中から間近で、大人の目で撮っている。いや、夫の目で。自分たち夫婦の寝室で使用人に弄ばれる妻を、同じ空気の中で撮った。
「このスライドショーに影響されて、父が撮った日と俺が窓から覗いた日を一緒にしているのではないか」
　あなたはそのようにお思いでしょう。俺と父は同時に見ていました、間違いなく。

　父の心を想像した。

　確かに私は準備をしたが、間違いであることを願っていた。その願いを残酷な現実が打ち砕いた。何をしている。飛び出ろ。止めさせろ。しかしシャッターは次々押された。瞬く間にフィルムが無くなる。どんなに狭くても、暗くても苦もなくフィルムは入れ替えられる。だが、今は慎重にやらねば、指先が震えている。
　ベットで私の枕を尻に敷いて散々責められた妻は、鏡の前でさっき着たばかりの着物を脱がされる。
　鏡の前に立たされた妻は下を向いていた。男は妻の顔を鏡に向けさせ、二人はその中で見つめ合っている。嫌がる妻が力ずくで跪かされた。男のたくましい上半身は山で何度も見ている。しかし下半身は一段と迫力があった。尻から太腿への筋肉がすごい。ギリシャ彫刻のようだ。

　妻は横を向いて下唇を噛み、拒絶の態度を示している。私もそれが続くように願った。
　妻の顎に男の手が掛かり、正面に向けられる。一度閉じた目がゆっくりと開く。
　妻の表情が変わっていく。その表情の変化が私の必死の願いをあざ笑う。
　妻の肉体を支配しようとする欲望が理性を負かす時がついに来た。
　妻の目が再び閉じると、その顔がゆっくり近付いていく。
　妻の唇からのぞいた舌が、赤い口紅を左右に舐める。
　妻の濡れた唇が触れる。口が段々に開いていく。
　妻の頭が前後にゆれる。唾液が光る。

　嫉妬が、怒りが沸き上がる。そして絶望的な屈辱感が刃となり、私の心をえぐる。
「飛び掛かれ、殴り倒せ。首にしろ」
　その声に答えず、私はカメラをアップ用に変え、シャッターを押し続けた。

　覗き込むように男が言う。
「本当にうまいぜ。どこで覚えたんだ」
　息づかいと目の色が、奉仕している妻の興奮を伝える。唇と舌が自分の意志で動いている。その動きは男が言うように、男を知り尽くした極上の技を持っていた。

　処女のしるしは分からなかったが、初夜の妻は正しく処女だった。
　妻は私にオーラルな行為をするのもされるのも拒否した。一度疲れて寝ている妻のスカートを捲り眺めていたが、我慢出来ずに顔を近づけた。妻は飛び起きて「変態」と叫んだ。その妻がさっきはベットで大きく足を拡げ、今は自分から奉仕している。奉仕しながら見上げる顔に男のいたぶる声が飛んだ。その言葉に妻の本能が燃え盛り焦がされていく。ファインダーの中で、アップになった妻の目に暖炉の炎が映って揺れる。男が俺の気持ちを代弁する。
「お高くとまった奥様はどこへ行った。厭らしい顔で何を考えてんダ、言ってみろ」

　男は鏡の前で股を大きく開かせた妻を嬲った、言葉だけで嬲った。妻はどこも触られていないのに、肉体は激しく反応した。
　私も知らないこのマゾの気質をこの男はなぜ知っている。
　それにしても妻の酒の量はどうしたことだろう。一本開いてしまった。台所にワインがあるのは知っていたが、寝酒に飲む程度だと思っていた。

　ベットに移っても、妻を男は弄んだ。長襦袢を着たままの妻と交わる男の魂胆が分かった。普段は理知的で上品な人妻、雇い主の奥様を商売女のように扱う快感を男は味わっている。事実、朱色の長襦袢を着た妻と男の交わりは、四畳半の褥（しとね）のように、爛れた色と匂いを撒き散らしていた。
　二人が格子戸の前に来た。前かがみに立って格子戸を掴む妻を男が後ろから責める。私の顔と妻の顔との距離は三十センチもない。カムフラージュになっている布一枚が夫婦を分けている。妻の吐く息と嬌声でその布が揺れる。はだけた長襦袢から見える乳房には薄く血管が浮いている。その形のいい乳房は男の手につかまれると、無残に変形した。
　格子戸が、外れることを恐れるほどに激しく音を立てている。二人の形が長襦袢を見ると変わる訳が分かった。長襦袢の白い小さな模様は男と女の交わりだった。いわゆる四十八手が浮世絵風に刺しゅうされている。

　男によって部屋が明るくされ、長襦袢が剥ぎ取られる。
　妻はベットで明るさを異常と思えるほど嫌い、私とはほとんど暗闇の中だった。それが今、寝室のすべての照明が点けられている。二人から格子戸の奥のレンズが光って見えないか心配するほどの明るさだ。
　妻の裸を見るのは何年ぶりだろう。「太った」と気にしているがそんなことはない。乳房の張り、腰のくびれ、尻の形、脚の線、見惚れた。妻は全裸にされ、上品さが戻った。
　交わる妻を撮る。喘ぎを、悦びを、叫びを撮る。ふと男の姿が消える時がある。実際に消える訳ではない。妻の体の線が美しさの極致を見せる時、シャッターが押される。ファインダーから男が消え、卑猥な言葉も消え、瞬間、妻だけが残って見える。

　妻が横向きに寝て、上になった足をくの字に曲げ、肩を開く。顎から首筋の線、少し反った背中のカーブ。興奮のためか、それともワインが染めたのか、ピンクに染まった体の中で特に胸が濃く染まっている。
　とがった乳首を薄紅色の小さな円が囲む。その外側に、なぜか白い肌のままの細い輪。その外をピンクの色が柔らかい乳房の曲線を描く。
　腹のなだらかな線の上に曲げた太ももが横たわり尻の曲線が豊かに揺れる。ふくらはぎから締まった足首への線が綺麗なカーブを描く。その下ではもう一つの足がすらりとした美しさを誇るように一直線に伸びていた。
　上の足を持ち上げて、男の腰が食い込み責める。妻の胸は仰け反り、開いた口が親指を噛む。別の手が男を探す。その手を男が引くと、下の乳房がベットから浮き上がった。男の卑猥な言葉を妻が繰り返す。
　ファインダーの中では天女になった妻が沈黙の中でひとり舞う。

　ふたりは松葉くずしの形で休んでいる。私たちの夫婦生活を妻に話させ、男として如何に私が劣り、自分が優れているかを嫌がる妻の口から言わせようと、一時も硬さを失わない男が脅す。
「抜くぞ」
　妻の言葉が私をなぶる。微かに残っていた私の理性が冷たく言う。
「今ここから跳び出なかったら、あなたたちは大変なことになりますよ」
　しかし、私はフィルムの残りを心配した。
　ワニのようにゆっくりとねっとりと動く男の背中で汗が褐色の肌を光らす。
　妻の悦びがレンズを突き抜け私の網膜を焼く。白い腕が抱きつきのたうち回わると、男の背中に不規則な赤い筋を何本も残した。涙の粒が頬を伝う。押し寄せる絶頂の極みに妻が泣いている。失神する顔のアップを写すとフィルムがなくなり、私の中の悪魔がささやく。
「オマエハ、アノオトコヲコロス」

　妻の体に乗り移った恐ろしい女が男を責めている。
　私は震えながら、フィルムの入っていないカメラのシャッターを押し続けていた。