五　証拠

　俺はまぶたの上から目を押さえた。午前十一時だ。二時間の間、眼球の動きはディスプレーの中だけだった。父の葉巻を吸った。何年も禁煙していたが、目まいは葉巻のせいだけではない。memo.txtというテキストファイルを閉じた。
　ここ・「遅くなるから帰ってもらってくれって」
「それじゃ帰るぜ」
「……」
　畳に倒れこむ音がした。
「もっと、こうして欲しいんだろが、こうして」
「アッ、アー、待って。子供、子供が」
　母は出て行きすぐ戻った。
　テレビのボリュームが上がった。おそらく部屋が暗くなったろう。
　見えないはずの二人の姿がさっきから画面に見えている。

　俺は古い順にフォルダを開け中身を見た。memo.txtが全部のフォルダに入っている。
　父が留守の時、男が来ると、母は必ず役場に電話を入れた。父は待つようにと言うこともあれば、遅くなるから返すように言うこともあった。いずれにしても男は帰らなかった。
　事のあとに父が帰っ来ても、母はまるで何事も無かったように振る舞っている。
　俺がはじめて母の浮気を見た日も録音されていた。

　ある日、喘ぎ声が止み、障子が開く音がすると、母の必死の声が聞こえた。
「どこへ行くのよ、そっちは駄目だったら」
　争う足音が遠ざかり、居間はテレビの音だけになった。

　二時間ほどして、母のいつもにも増して甘ったるい声がした。
「すごかった、最後は覚えてない。……でもあそこは駄目、二人とも地獄に落ちるわ」
　男の返事はない。玄関の戸が開いて閉まる音がした。母の足音も遠ざかる。その夜、俺たち兄妹は父と親戚の家に泊まりで出かけ、家には母一人だった。

　テープを聴いた父は必死で証拠を探した。寝室だと直感した。シーツや布団カバーなどが変わり、いつもより強めに香のかおりがするが、証拠にはならない。他に変わったところはなかった。最後にベッドの下を覗いた。塵一つない。その姿勢で顔の向きを変えた時、格子戸の中の何かに目が留まった。立った位置からは見えない。

　母はきれい好きだ。家の中はいつもピシッと片付いている。しかし、まとまった時間を取って掃除をしたり、掃除に追われるところを見たことがない。俺が以前母に尋ねた答えはこうだった。
「忙しくてまとまった掃除の時間は取れない。少しでも汚れたり散らかると、ひどくならないうちにササッとその場できれいにするのよ」

　先日、母が格子戸を開け、中のものを出すのを父は見ていた。格子戸を開ければ、いやでもそれは目に入る。あの母が見逃.すはずがない。それは、母が格子戸を開けて以後に入り込んだことになる。
　千代紙が丸められていた。開くと微かに湿り気の残るところに細かい皺が幾つも出来ている。そこに縮れた毛が一本あった。

　夜の長い時間、家に母が一人になる日がまた来た。「星座を楽しむ会」の日だ。
　父の車は点検に出してあり、部下に家まで迎えに来させ一緒に残業に出かけた……と母は思った。しかし部下には、書類を家に受け取りに来るように命じてあっただけだ。部下の車が来ると、父は門を出て部下の車のところまで行き、どうでもいい書類を渡して部下を帰す。そして裏に回り、脚立を使って寝室に入った。
　父は前日に男を呼び、当面の要件をすべて済ませてあり、男が家に来る理由がない。だからその夜、母は役場に“確認の電話”が出来なかった。

　ここで一つあなたの疑問にお答えしておこう。俺は柄にもなく小学校のころから日記を付けている。今も付けている。後日、自分の日記とフォルダの名前になっている日付とを付き合わせた。日記にはメモ的に書かれていた。
　　十二月十一日　居間、ついに見た。
　　　一月一五日　星を見る会　欠席、寝室でだ！
　　　　　　　　　どうしちゃったんだよー。
　　　　　　　　　お母さん、どこへ行くの。

　ここまでのフォルダには現場を撮影したものが一枚もない。父はどんなにか証拠写真を撮りたかったと思うが無理だったろう。居間は完全に母のテリトリーで、隅から隅まで母の管理下にある。録音に使ったマイクはコードを延長したのだろうか、天井裏だろうか、録音だけでもよく出来たものだ。
　父は知っていた、俺より早く知っていた。そして何もかも。しかし、知っていたなら、その後のあの平穏で幸せな生活が送れるはずがない。幾つもの「なぜ」が俺の頭の中を駆け巡っている。
　まだ開けていないフォルダの中にその答えがあるのだろうか。食欲は全然なかったが、妻が用意してあった食事をとった。いや、詰め込んだ。今夜はきっと徹夜になる。