六　取引

　俺はほっとしていた。どのフォルダの録音もはじめは同じパターンだった。母は最初、激しく抵抗して男をてこずらせている。あの男の力ずくの脅しと、飲まされる酒のせいで母は淫乱な女に変わっていった。幾つかの疑問はあったが俺はそう思いたかった。父の思いも同じだったろう。「星を楽しむ会」の日のmemo.txtの続きに戻ろう。

　妻が横で軽い寝息を立てている。あの時と同じように、強めの香が聞こえる部屋は片付いていて、ついさっきの出来事が嘘のようだ。
「何としても、この文子を失いたくない」
　自分でも理解しがたいが正直な気持ちだ。その上で、これからどのように行動すべきかを考えた。男の絶倫さ、テクニックには絶望的に圧倒されていた。為すがままに弄ばれ、自分からも貪欲に快楽を求める別人のような妻。今、妻とあの男との間を無理に引き離すことは、私たち夫婦の崩壊をも予感させた。
　もちろん、打算的にあの男のいない山の経営のことも考えた。普段の妻は以前とまったく変わりがない。良き妻であり、母であり、家のことも帳簿も完璧だ。なのにこの裏切りの仕打ち。何回となく繰り返される不貞、そして今夜の有様、あやまちとは言わせない。
「怒れ、怒れ、怒れ、妻を叩き起こせ！」
　しかし、心まで裏切られているという感情がどうしても湧いてこない。男へのどす黒い怒りに比べ、不思議と妻への憎しみは大きくならなかった。

　そして、自分の中には二人の男がいた。男に抱かれる妻に怒り狂う自分がいる。しかしその横には、異常な興奮にしびれるもう一人の自分がいた。興奮しても私の男は硬くならなかったが、微かなうずきがあった。
　今夜、男と妻を間近で見ていてそれは確信になった。最後に妻があの凄い女に変身して男を責めた時には、握り締める手の中でうずきが脈動に変わった。もう一度、妻とセックスがしたい。あるかないかの脈動は凍り付いた絶望の塊に少しずつ赤い血を送り込んだ。
　そして、私はあの男も気付いていないだろう妻の性癖を見付けた。妻には「見られたい」という欲求がある。男に恥ずかしい姿を見られ益々と燃えた。それを確かめたい。

　これは純粋な願いだった。妻のヌードを撮りたい、最高に美しく撮りたい。あの男に邪魔をされず、妻の納得ずくで、心ゆくまで妻の美しさをフィルムに収めたかった。

　親として、母の秘密を知ったときの子供たちのことが心配だった。純一は奥手で年より幼いので心配ないだろうが（俺、苦笑）、舞は心配だ。マセているし、子供とはいえ女の勘は鋭いだろう。それに妻と男の最近のこの頻繁さと行動の大胆さは何とかせねば。いずれ噂になる。

　私は男と取引をした。妻が留守の時、単刀直入に切り出した。男は悪びれなかったし、開き直りもしなかった。
「いつかこうなると分ってやした。こんな半端モンを拾って一人前にしてくれた先代の恩、信用してすべてを任せて、良くしてくれる旦那への恩。あっしの一生を掛けても返せねーと思ってやした。
　一方で何の苦労もなく、いい生活をしている旦那が、なんちゅかうまく言えんですが、面白くありやせんでした。ほんのはずみで、あや、いえ奥様を……。そうしたらもう虜になっちゃいやした。申し訳ない。やめるんだ。何度も自分を叱りました。駄目でやんした。あっしん中に、こんな下衆野郎がいたかと思う反面、正直、旦那の上に立ったと勘違い致しやした。覚悟は出来ておりやすんで、いかようにも」
　しばらくの沈黙のあと私は言った。
「いつからだ」
「昨年の五月でやす」
「どこでだ」
「裏の山小屋でやす」
　文子は山小屋へは近付かないはずだ。自分から行ったのだろうか。男はその表情を読み取り、
「日曜の昼間でして、奥様は花を摘むために山小屋の近くを通ったようで、あっしもちょうど月曜の段取りで小屋に行きたかったんで、断りにお宅に寄ったですが……」
　日曜日なら山小屋に男たちはいない。
「なぜそうなった。妻は抵抗しなかったのか」
　重要な点だ。
「花を摘む奥様がたまんなくきれいでしたんで、つい。いえ、すごい抵抗でやんした」
　男は半分は嘘を半分は自分の立場の悪くなることを正直に言った。
　去年の五月だ、思い出そうとしたが、文子の様子がおかしかったという記憶はない。
「それがなぜ今まで続いた」
「その、奥様は酒が入りやすと……、変わりやした」
　男は言いにくそうに言った。

　私には男の話に腑に落ちない点があったが先に進んだ。
「さっき、『いかようにも』と言ったな」
「へぇ」
　かしこまる男を前に、私は主人の立場を取り戻し、落ち着いた声で言った。
「私の前で妻を抱くように」
　男は私を見上げた。この男の間抜け面をはじめて見た。間があって、
「しかしそれは……。でーいち奥様がご承知を」
　遮って言った。
「そっちは俺がちゃんとやる」
　“俺”という言葉が久しぶりに私の口から出た。畳み掛けるように言った。
「ただし、俺のいないところでは駄目だ」
　男の目に「そういうことかー」という色が浮かんだ。
「それでいいなら、これまでどおりだ。嫌ならやめてもらう、決めろ」
　男はもちろん前者をとった。明後日は締め日だ。

　おって分かる事件のあらましはこうだ。男は前から妻の裸を風呂で覗いていた。そのころの風呂、便所は母屋ではなく納屋にあるのが普通だった。水を使う場所は痛みが早い。痛みが母屋に及ばないための知恵である。母は風呂も便所も母屋の北側の下屋に持ってきたかったが、スペース的に無理だった。とりあえず、便所だけを水洗にして母屋の北西にこしらえてあった。
　納屋は通路を挟んで母屋の東側にあり、風呂はその一番北側にあった。風呂の母屋側に燃し口があり、南側は脱衣所で、東側には鍵の掛かった倉庫部屋があって、肥料や危険な農薬、測量機器など高価なものが保管してあった。北側には曇りガラスの窓があり、窓の外は一段下がり田が広がりその向こうに隣家があった。納屋の東側に沿って道路が通っていて、夜でも人の往来がある。よって、この風呂を覗くのは難しい。だから妻は安心して風呂に入れた。

　男は知っていた。妻は地味な服装で隠しているが、いい体をしているだろうことを。倉庫と風呂との壁に小さな節穴があるのを見つけた男は、誘惑に勝てずに倉庫の合鍵を作る。納屋の中は、倉庫の南側が通路になっていて、道路と家の庭をつないでいる。通路の南には鍵のない道具部屋、外（そと）便所、車庫などがありそちらへの通路もあった。つまり、納屋の中でそれらの通路が交差していて、誰かが納屋に入り、入った入口から出なくても不自然ではなかった。別の出口から出たと思うだけだ。事実そのほうが多い。鍵の掛かる倉庫は、男に安全で覗きに集中できる最高の条件を提供した。

　奥様は大抵、舞と一緒だった。舞のおしゃべりを聞いたり、一緒に歌を唄ったりしている。想像を遙かに超えた素晴らしい奥様の裸に、男の爪が壁に食い込む。山小屋で事件の起きる二ヶ月ほど前のこと、舞が先に上がると奥様は脱衣所をいったん出たが、すぐにコップを手に戻ってきた。それを一気に飲み干すと、男が覗いている前に座った。奥様の前には鏡があるはずだ。
　男の目の前で、奥様は足を開き左足を立てた。
　表情が見る間に変わっていく。男は好色な女の顔になったと思った。
　メガネを外したその表情にはゾクゾクするような色気があった。息が荒い。
　男は声に出さずにつぶやいた。
「あや」

　顔が左右に揺れ、口が開き、閉じていた目が半分開いてくる。
　男はその顔を見て、直感的に思った。
「イクぞ」
　期待通りに、あやは絶頂を迎えた。しかしその時、男は予想もしない言葉を聞いた。
「オトコー」
　押し殺した声で、その言葉を何度も絞り出すのを男は聞いた。以後、妻の秘め事を何度か見る。コップの中身はワインだと分かった。

　男はこう理解する。
　　旦那にも隠しているが酒が飲める。赤ワインを水のように飲む。
　　酒が入ると人が変わったように好色になる。
　　欲求不満だ。肉体はオトコを欲しがっている。
　男の前で、妻はこれまでと変わらなかったが、男の妻を見る目が変わった。

　その日は日曜で、夫と子供たちは町に出かけた。文子も一緒に行くつもりだったが、婦人会の共同作業が急にこの日に変更になり、そちらに参加した。共同作業が午前中で終わると、皆と別れて、山小屋の脇を通る道を帰った。
　山小屋のそばには今、文子の好きな花が咲いている。
　小屋には男がいて、坂を下って来る奥様を窓の向こうに見つけた。休みの日には、許可がなければ小屋は使えない。男が主人の家に許可をもらいに行くと留守だったが、明日の仕事にどうしても必要な道具が小屋にあった。
　この時、男はまだ真面目な使用人であった。「奥様」と、男は挨拶をするつもりで戸に手を掛けたが、小屋の手前で奥様の足が止まり、しゃがむと花を摘み始めた。鼻歌が聞こえる。男は見惚れた。
　しばらくすると奥様は回りを見回してからメガネを外し、それを摘んだ花の上に置いた。首の手ぬぐいを取ると片膝立ちになり、上着の胸元をゆるめ汗を拭う。胸の谷間が見える。その日は夏を思わせるような暑さだった。手をかざし、目を細めて空を見上げた奥様の顔が、男には節穴から見たあやの顔に重なった。そして、使用人は狼に変わった。

　男は飛び出し奥様を小屋に引きずり込んだ。激しく揉み合いながら二人は床に倒れこむ。男が誰か分かっても奥様は声を出さない、出さないが激しく抵抗した。それは男にとっても予想外の力だったが、所詮女の力だ。やがて男に組み敷かれる。奥様の目が男をにらむ。目だけはまだ奥様が勝っていた。男は一瞬ひるみ躊躇したがもう後には引けない。
　部屋の隅にある中身がほとんど減っていない一升瓶が男の目に入った。男は瓶を片手で抱き寄せ、口でふたを開けると、奥様の頭を抱え鼻をつまんだ。奥様は男の意図を見抜き、口を固く閉じたが、開けねばならない時がくる。男がその口に酒をつぎ込む、奥様は激しくむせながら首を振る。それが何回か繰り返された。酒のほとんどは口の外にこぼれたが、それでも二合以上は飲まされたろう。
　奥様は組み敷かれながらも抵抗した。自由になった右手で男の胸、顔を叩いた。男はその手をつかみ、自分の股に挟もうとした。その時、奥様の手が硬いものに当たると、奥様の体が「ピクン」と反応した。
　それを見逃さなかった男は自分のズボンを下げ奥様の手を持っていく。奥様は激しく抵抗したが、手が触るたびに力が失せていった。抵抗が止まり、うつろな表情になった奥様の口がつぶやくように動く。一瞬の間があって、奥様の顔は「あや」の表情に変わった。

　男はもんぺの紐をほどく。あやは両手で顔を覆い「イヤ、イヤ」と言ったが、それは覚悟した女が出すときの声だった。
　男があやの上に乗る。男は一度離れると手に唾を付けた。
　あやの顔が大きく仰け反り、口も大きく開く。
　男はすぐに果てた。久しぶりに男は女を手込めにした。結婚してからはやっていない。女は人妻であり、雇い主の奥様だ。だが、あっけなく果てたのは、その興奮のためだけではない。
　あやの反応は尋常ではなかった。受け入れた男の感触を確かめるように、少しでも奥に呑み込もうとするかのように蠢いた。肌も触れたところから、溶けるように柔らかくなり吸い付いてくる。反対に硬くなった乳首が男の胸をつつく。
　目眩がして男は背中を反らせると、たまらずに果てた。その時、女の本能が搾り出す悦びの声が長く伸びたがケイレンのために震えた。

　外では鳥のさえずりが聞こえる。激しく上下している乳房を見ながら、男はあやの首筋に耳を当てた。「ジン、ジン」と血の流れる音が男には「もっと、もっと」とせがんでいるように聞こえた。
　汗と酒にまみれたあやの体を裸にすると、男は瓶（かめ）の水で濡らした手拭できれいに拭き、自分の体も拭く。残った酒を茶碗に入れあやの口に運ぶと、奪い取るようにしてあやは飲み干した。男衆が酔った時に寝る粗末な布団を男が敷く。
　男は風呂場で見た奥様の秘め事を真似ねた。目を押さえていたあやの両手が自分の頭にいくと、上体がよじれ下腹が波打ってきた。その様が男に余裕を与えた。
　男はあやの足を大きく拡げた。あやは目を閉じ覚悟したが、男は来ない。自分の荒い息づかいだけが聞こえる。
　あやは目を開け、助けを求めるように男の顔を見つめている。自分の頭を抱えていた両手を開かれた足の間から男の首に回しあやは言った。
「来て」
　涙が目尻からこぼれ落ちた。

　男の命ずるままに動き出した自分の体に戸惑い、なじる声が屋根の小鳥を飛び立たせた。
　その声は言葉ではなく、絶叫であり、悲鳴だった。
　普通の女なら決して口にしないだろう言葉を発し、普通の女なら決してしないだろう姿態を晒し、商売女もしない奔放な体の動きで男を求めている。
　ついさっきまでは別世界に住んでいると思っていた賢くて上品な奥様が男の意のままに動いている。男は征服感に体が震えた。その震えはもしかすると恐ろしさのためだったのかも知れない。
　閉じこめられていた野獣が狭い檻を破り睨み牙をむいている、女の激しさにはそんな迫力があった。

　野獣がほえる声は屋根を突き抜け青空に浮かぶ雲には届いたかも知れぬが、昼下がりののどかな村には届かなかった。
　小屋は静かになったが逃げた小鳥はまだ戻らない。そこはまだ、ただならぬ気配に支配されていた。今、誰かが小屋を覗いたとしても中にいるのが人間とは思わないだろう。じっとりとした空気とすえた汗の臭いの中で白と黒の得たいの知れない化け物が蛇のように絡まり蠢いているとしか見えなかったはずだ。

　小屋の戸が開く。西日を背に歩いて行く女の胸には摘んだ花が大事そうに抱かれていた。その後ろ姿に男はもう一度女を小屋に引きずり込みたい衝動に駆られた。
　その時、戻った小鳥が一斉に鳴き始めて、男の興奮を急速に冷まし現実に戻した。
「俺のしたことはどう見ても犯罪だ。とんでもないことをしでかした」
　これからのことが急に心配になった。奥様は旦那に言うだろうか。当然だ、あれだけ抵抗したのに強姦されたのだから。しかも使用人に。
　しかし、その後の自分の乱れ方を思うと言えないかもしれない。言わなくても奥様の動揺した態度に旦那は気付くだろう。奥様の白い体には、抵抗した時の傷や打ち身の跡があり、口で吸われた跡や歯形もあちこちにあるはずだ。そのうちの幾つかは何日も黒く残るだろ。男は絶望的になり、酔えない酒をあおった。

　男は拍子抜けした。何も変わらない。摘んだ花がきれいに玄関に飾られていた。奥様は何もなかったように振る舞った、まったく無理なく自然に。体の証拠も服や髪でうまく隠している。夫婦生活がないから裸も旦那に見せる必要がないんだ。あの乱れようが物語っている。世間で言われているとおりだ。
「女は魔物だ」
「いざとなったら女のほうが度胸が据わる」
「男の浮気はすぐにばれるが、女の浮気はばれない」
　チャンスが来た。旦那は残業で子供もいない。奥様はもう自分にぞっこんだと思い、玄関で奥様を抱きしめる。次の瞬間、男はもんどり打って倒れ、呻き声を揚げた。
　男の股間を膝で思いっきり蹴って、奥様は台所に消えていた。二週間使い物にならなかったが男は学習した。手続きを踏めば何の問題もないと。

　　強く抱きしめ、体の自由を奪い、女の手を俺の股間に持っていく。
　　酒を飲ませる。量が多くなればどんどん乱れる。特にワインで。
　　その後は、強く出れば出るほど、嬲れば嬲るほど激しく燃え上がる。

　自分の立場をわきまえ、控えめながら誰からも一目置かれる賢い女性。その貞淑な人妻が、名家の誉れ高いこの家の中で使用人の俺に組み敷かれ淫らに変身する。しかも、回を重ねるごとに好色の色が増していった。そんな自分に戸惑い恥ずかしがる様が男を最高の気分にさせた。
　そして、寝室でのあの女の出現。男はこれまでの女性経験に照らし、あやは十分に「名器」だと分かっていた。しかし、あやが失神したあとで変身するあの女はけた外れだった。一度に二人の極上の女を相手にしているようで、男を益々にのめり込ませた。
　仕事で旦那に呼ばれ、奥様がその場にいる時の旦那への優越感は男を有頂天にさせた。だが同時に、男は自分の中で不気味な何かが成長しているのを感じていた。旦那との“取引”で、男は覚悟する。
「もう自分では止められない」
　男は「鬼の神」の祠でひとり鬼と対面するのが好きだった。若いときは一晩中睨めっこをすることもあった。頭になり、業者からの誘惑に負けそうになると鬼に叱られに来た。男は、自分が一人前になれたのはこの鬼のお陰だと思っている。しかし、今はもう祠に近付くことさえ出来なくなっていた。