八　変化

　俺はファイルの日付に疑問を持った。自分の日記と照らして分かることだが、これらの日の夜、俺は家にいた。こんなことは出来ないはずだ。ある予感から写真をもう一度見る。座敷の場面で障子の外が明るく写っているのがあった。寝室の窓には修理されたカーテンが隙間なく掛かっていたが、延びた母の足がカーテンを動かし、明るい外がわずかに写っている写真もある。
　間違いない、昼間の出来事だ。しかし、これらの日はすべて普段の日だ。休日ではない。父も男も仕事をさぼって、こんなことをしていたのだろうか。これは父と男の名誉のために考えた俺の推理だ。

　俺の日記で分かることだが、それらの日の天候はすべて雨か雪だった、それも大が付く。頭は天気予報の天才だった。山仕事は小雨ぐらいでは休まないが、山の天気は急変する。植林したばかりの山は、何年間か、真夏に下草刈りをする。大きな木があれば雷はそちらに落ちる。だが、丸坊主の山に大鎌を持った人間は雷の格好の餌食となる。そこでは雷が地震よりも恐ろしい。また、大雨は小さな沢を瞬く間に濁流に変え、山道を寸断し、人を焦らせて事故に誘う。凍死は一番苦しい死に方だそうだ。
　この山の男衆は当時の天気予報など端から信じなかった。頭は空を見、風を測り、匂いを嗅ぎ（頭はそう言った）決断した。
「この雨は上がる」「午後から荒れる」「雷が来る」「明日は大雪になる」
　時間的なずれが出ることはあったが、一年のうちで十日と大外れすることはなかった。
　父は役場内の部署が変わって、休日には地域の集会、イベント等に出席した。その代休が普段の日に取れた。頭の天気予報に父の代休を合わせた、それが俺の推理だ。

　テキストを見てみよう。話が紛らわしくなるので、淫乱で男好きで父に残酷な母を蘭子（らんこ）と呼ぶことにしよう。

　普段の妻、文子に変化が出てきた。文子は妻として私によく尽くしてくれていた。しかしそれは、よそよそしいというと文子に申し訳ないが、頭で考えてから行動するようなところがあった。情動的に接するのを避けていた。
「こうせねばならない」「こうすれば喜んでくれるだろう」
　不満はなかった。が、知、情、意の情に硬さを感じた。文子は女性が涙や甘え、色気を使って人に接することを軽蔑し、そういう目で見られることを極端に嫌っていた。
　そんな文子が変わってきた。私がある時、純一の進学の件を蒸し返した。
「世間体や親の見栄より、もっとあの子の立場に立って考えて下さい」
　文子は強い口調で言い、泣き出した。これまで、正面切って私に反論したことはなかったし、私の前で文子が泣くのも、ここの生活に慣れていなかった新婚のとき以来だ。確かに私は同僚に対抗心があった。彼にも純一と同級の出来のいい子がいた。

　文子の買い物に町へ付き合わされる。以前は一人で行っていた。洋服店に入る。文子にしては派手やかな服を選び、楽しそうに鏡を見てポーズをとり私に評価を求めた。大きく開いた胸元、腕と足の白さ、体の線が眩しい。その洋服を着て店を出ると、文子は腕を組んできた。すれ違う人が振り返る。私は振りほどこうとしたが離さない。男の目が文子を見てから私を見る。私は優越感を隠すのに苦労した。
　食事をした。文子の笑顔とおしゃべりが、おいしい料理に一層の味付けと満足感を提供してくれた。映画を見る。当時評判の恋愛ものの洋画で、見ている間、ずっと私の手を握っていた。帰りの車の中で映画の話を楽しそうにしていたが、そのうち眠ってしまった。

　都会育ちの文子は肌を刺す虫が大の苦手だった。自分で塗れない背中などに薬を塗るのは、これまで子供の役目だったが、ある時、私に頼んだ。私はシャツを上げ、背中の赤いポツポツに薬を塗った。ブラジャーを最近付け始めている。そのブラジャーに隠れたところも刺されていたので、ホックを外して薬を塗ったが、大人しくしている。私は調子に乗り、ゆるくなったブラジャーの間から胸に手を伸ばす。指の先が柔らかい。力を入れると弾力が心地よかった。
「イエローカード」
　文子は息子に教えてもらった、サッカーの審判が使う言葉を真似る。構わず乳首を摘んだ。
「レッドカード」
　文子は自分が部屋から退場した。杏子の時とは違う恥じらいの感触を私の手に残して。

　晩酌に「ワインを飲もうか」と言うと嬉そうにテーブルに座る。私にワインとグラスを用意させ、つまみまで私に作らせもした。酔って甘えるようになった文子は本当にかわいい。心底、私の宝物だと思った。子供たちがいないと、宝物が私の膝の上に乗ってくる。私は不甲斐ない息子を呪った。これで立派な息子を握らせれば、あの男がいなくても杏子に会えるかもしれない。
　そこに子供たちがばたばたと入って来たことがある。私は慌てたが、文子は首に強く抱き付き、膝から降りない。純一は何も言わず、冷蔵庫から欲しいものを取ると出て行ったが、舞はそばに来て腕を組み、「教育上、問題あり」と頬を膨らませた。
　使用人の前でも構えるところがなくなり、自然に振る舞った。男衆の冗談に身をよじって笑うこともあったし、年の若いもんをからかって、顔を赤くさせたりもした。文子の笑い声がいつも家の中で弾んでいた。

　今まではっきりしていた文子と蘭子の境目があやふやになってきた。文子の中の女っぽい部分が多くなったようでもあり、蘭子の中で色っぽい蘭子とひねくれた蘭子に別れたようにも見えた。ひねくれた蘭子は益々意地悪なメス豚になり、時にはあの男にも楯突いた。しかし杏子に会うために、私は蘭子の残酷な仕打ちに耐えなければならなかった。

　杏子は私の良きカウンセラーになっていて、どんな弱みも見せられた。彼女は私の話に意見をしたり、否定をしたりはしない。
「ふーん」「そうかい」「そんなことがあったのかい」
　私の頭を胸に抱いて、ただ話しを聞いてくれていた。そして男にしてくれた。私は杏子に文子にないものを求めていたのかもしれない。彼女がそんな愛人のように思え、文子に対して、本当に浮気をしているような気持ちにさえなった、同じ肉体なのに。

　文子は女としても変身していった。ついに一緒に風呂に入ってくれた。ただそれだけだったが、私は幸せだった。
　暖炉にたくさんの薪を入れ、部屋の電気をすべて消す。文子のパジャマを脱がせていく。寒さのためではなく、恥ずかしさのために震えている新婚時代の文子を、大事な宝物を暖炉の揺れる明かりの中で私はやさしく抱きしめた。
　私の目が知っている蘭子の性感帯を文子に試した。文子もワインの助けを借りて協力してくれたが、体は私の愛撫に拒否反応を示した。反応はあるのだが、すぐに体が震え、次に強ばる。文子の時の体は快感を感ずることを、積極的に振る舞うことを拒否した。
　私は焦らなかった。それどころか、十分に幸せだった。文子のあるかないかの反応は私の愛情に答えている。私も文子の愛情を全身で感じた。そのときは分からなかったが、蒔かれた種はつるを伸ばし、たくさんの蕾を付けていた。

　しかし、私の息子は「親の心子知らず」、相も変わらず非協力だった。私は出張の時、いかがわしい雑誌に載っていた広告の地図を便りに必死で店を探し、文子への土産を買った。ベットの上で文子は顔を真っ赤にして正座している。私と文子の間には土産の電動こけしがあった。こけしは茶色のゴムで覆われていて、その腰の辺に小熊が上を向いて抱きついている。
「私は使いません。絶対に嫌です。死んでも使いません」
　私は三日三晩拝み倒し、ついに文子が折れた。
「一度だけですからね。済んだらすぐに処分して下さい。子供に見られたらどうするのですか」
　文子はその晩、ワインを一本近く空けたが、それでもうなだれ、私に手を引かれ寝室に向かった、市場に運ばれる仔牛のように。

　入念に前戯をする。ここまで文子が許してくれるのにはお互いの涙ぐましい努力があった。こけしを取り出しスイッチを入れる。
　私は真っ暗な中で悪戦苦闘した。真っ暗な中でするのが文子の条件だったのだ。こけしが触れると、文子はじっとしていられず、部屋中を逃げ回る。私は作戦を変え、こけしのスイッチを切る。こけしの丸い頭が少し埋もれた。
「もういいでしょ、お仕舞いにして、お願い、ね、ね」
　私は手首を前に突き出した。
　文子は私の腕をつかみ引き出そうとする。私はスイッチを入れた。
「いや、やめて」
　文子は腰をよじったが、しばらくすると、抵抗が弱まってきた。文子が両手で顔を隠しているのが暗がりの中でも分かる。私はそのままの姿勢で片方の手を伸ばし、ようやくのことで照明のスイッチを入れた。文子は気付かない。
　私は文子の足の間を少し拡げる。手が自由に動くようになった。

　文子の抵抗がなくなり、私には少し余裕が出てきた。ふたつあるレバーをスライドさせるとこけしは複雑な動きをした。文子の足が少しずつ開いてくる。腰が微妙にそしてゆっくりと動き出した。
　目を隠していた両手が拝むような形で口を押さえる。見開いた目は天井の一点を見つめている。
　私は右手にすべての神経を集中させた。
　文子の顔が左右に揺れる。口から離れた両手が横に真っ直ぐ延びてシーツをつかみ、体が反り返る。目をかっと開くと、頬が膨らんだ。
「フォッ」
　思い切って息を吐き出すと、こけしが私の腕を強く揺すった。
「このまま失神して杏子を呼び出して欲しい」
　そうは問屋が卸さない。

　二人とも汗びっしょりだ。文子の胸が上下に揺れている。部屋が明るくなっているのにようやく気が付いた。「キャッ」と言って毛布を取ると、その中で丸くなる。私はそれを剥ぎ取り文子を抱きしめた。
「恥ずかしいわ。でも……すごかった」
　文子も思い切り私の首に抱き付いてきた。
「さー、捨ててこなけりゃ」
「もー、いじわるー」
　そして二回目の時間もあっという間に過ぎた。
　二人は抱き合って寝た。私が夢住む町の入り口に着いた時、誰かが私の肩を揺する。
「ネー、もう一度」

　次の日、私の右手は腱鞘炎（けんしょうえん）寸前で、ペンも持てなかったが、私は天にも昇る気分だった。こけしの助けを借りたとはいえ、文子ははじめて拒否反応を起こさずに、最後まで上り詰めた。そして積極的に振る舞った。
　この日を境に文子はセックスに対してだけではなく、あらゆる面が変わっていく。彼女をがんじがらめに縛っていた鎖が一気に緩んで、蕾が色とりどりの花を咲かせた。普段の生活に現れた変化も、セックスの変化と互いに影響し合っていたのだと思う。
　電動こけしが何回か活躍して、一月二十八日を迎える。頭の予報どおり、朝からの雪で山は真っ白だ。文子はこの日の計画を知ると私に言った。
「もういいの、あの人とはいいの。あなたがかわいそう」
　こんな言葉を文子から聞ける幸せ。そうしたいが、私はまだ杏子を必要としている。

　文子ははじめから蘭子の存在を、そして彼女の行動を知っていた。

　話は少し前にさかのぼるが、町からの帰りに車の中で文子が急に泣き出したことがある。その日は出かける時から元気がなかった。私は車を路肩に寄せる。動揺が激しくなり気を失ってしまった。脇を通った男性が親切に声を掛けてくれた。
「救急車を呼びましょうか」
「いえ、持病の発作ですから、大丈夫です」
　私は丁重に礼をいい、車をゆっくり発進させる。
　予感があった。
　今度は人気のない側道に車を止める。はたして、杏子が出た。
「何で急に引っ張り出すんだよ。用もないのに呼ぶんじゃないよ！」
　最高に不機嫌だ。自分の着ているものを見て、気持ち悪そうに肩を揺すった。
「ヤダよ、気持ち悪い」
　裸でないと落ち着かないらしい。
「なぜ出てきたんだ」
「こっちが聞きたいよ。俺だって自分で勝手に出られる訳じゃないんだから」
「文子から直接変わったみたいだよ」
「知らないよ！　最近おかしいんだよ、こいつら」
　吐き捨てるように言うとまた気を失った。
　しばらくして、文子が静かに言う。
「私は地獄に落ちればいいんだわ。ごめんなさいね、あなたをあんなに傷付けて」
　私は黙って文子の肩を抱いた。
「頭とのこと恐ろしい。あなたまで巻き込んで、人間のすることじゃないわ」
　肩が震えている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「そんなに自分を責めるなよ。俺にだって大きな責任が……」
　私は文子の手を優しく握ったが、乱暴にその手が払いのけられた。
「雄一、あんたなんか目じゃないのさ、役立たず！　辰さんが一番なのよ」
　蘭子だ。
「あのカマトトが、このごろ大きい顔してさー。やりにくくて、しょうがないんだよ」
　散々文子をなじり、私に悪態をついた。
　突然、声がやみ、うつむく。膝に置いた手に涙が落ちた。
「悔しいけど、あの人に私は何にも出来ないの」

　こんなことがまた起きたら病院に連れて行こうと思った。幸いなことに続けてはこんなひどい状態にならなかった。子供たちや使用人の前では順調だったが、私の前では時として非常にナーバスになり、自分では制御出来ないほどに感情の起伏が激しくなった。

　こうした文子の変化、精神の混乱と同時に進行していることがあった。というよりも、このことがあったから、文子にいろんな変化が出てきたのかもしれない。
　それは文子に対して、私が杏子の役目をすることだった。文子は私の腕の中でこれまでの胸の痞えをはき出した。私が反論したり、自分を擁護したりすると、文子はくるりと背を見せ、その晩は二度とこちらを向かなかった。
　私は杏子に習い、ただ相槌と肯定の言葉だけを繰り返したが、少しでもお座なりな返事になると、文子はやはり背を向けた。

　私は改めて杏子の忍耐に感謝した。文子のすべてを受け入れるこの忍耐の時間は、途中から私の大事な勤めとなる。私は杏子に会い、自分が文子に対して如何に冷たい、自分勝手な人間だったかを泣いて詫びた。きっと、私自身も変化していったのだ。二人は影響し合い、助け合い、そして苦しんだが、その分、夫婦の絆は強まっていった。

　文子の話は、娘時代、学生時代、子供時代へと遡っていき、父母、祖父母の話にも及んだ。休みの前の晩は空が明らむころまで続いた。文子は私の前で小猫にもなった。
　その話は混沌として脈絡がなく、時代は前後し、空白部分も多かった。文子自身も突然湧き出るように蘇る自分の記憶に弄ばれていた。私は、ぶちまけられたおびただしい数の写真を分類し、何冊ものアルバムに順番どおりに張っていくような作業を何ヶ月にも渡って続けた。