九　滝壺

　俺は書斎を出た。窓の外はすっかり暗くなっている。台所に行き、水道の蛇口に口を当てて渇きをいやし、頭から水を浴びた。廊下で屈伸運動をした。居間に入り電気を点ける。そして、座敷に行き、最後に両親の寝室に行った。格子戸の中にも入ってみた。
　俺は言葉に出さずに返事をする。
「大丈夫ですよお父さん、最後までちゃんと付き合いますから」

　父の存在をはっきりと感じている自分がいた。自分の意志で行動しているつもりだったが、俺は今、父に動かされているのが分かる。
　　俺が家に帰るのを一日延ばしたのも、
　　書斎に直行しパソコンの電源を入れたのも、
　　増設のハードディスクが簡単に開けられたのも、
　　スライドショーのプログラムをすぐに見つけられたのも、
　　はじめに、寝室の場面が納められたフォルダのファイルを見たのも、
　すべてに父の意志が働いている。父の姿が見えたり、声がしたり、ましてや俺に触れたりすることはなかったが、パソコンを操作している時、家の中を移動している時、振り返れば父の何かが見えると思った。
　だが、それはしなかった。恐怖心からではない。そうすると父が寺に帰ってしまう気がした。葬儀のあとは家に誰もいなくなるので、父には申し訳ないが、お骨は寺にあり住職に守ってもらっている。まだ父にそばにいて欲しかった。
　あなた、笑わないで下さいよ。俺は現実屋で理系人間のつもりです。今まで死後の世界などと言う輩（やから）は軽蔑してきました。しかし俺は今、父の存在をはっきりと感じます。感ずる存在を幽霊とは言われたくないが、霊と呼ぶのなら、俺は信じる。

　父が安心して書斎に戻ると、俺は急に空腹感を覚えた。また台所に行き、冷蔵庫を開ける。ハムとバターがあったので、食パンにそれを挟み、牛乳で胃に流し込んだ。帰る時、これらを全部処分するようにと、妻から言われていたことを思い出した。

　居間に戻ると横になり、葉巻に火を点けた。
　俺は記憶をたどっている。中学三年になってから、母と頭とのことに疑いや不信感を持ったことはない。完全に終わったと思っていた。
　三者面談のことは覚えている。この時、母はニコニコしていた。俺は母が父を説得してくれたのを感謝していたが、父がどうだったかは思い出せない。しかし二回目の面談の時に、俺は父の望んだトップ校の名をあげて母を驚かせる。模試の結果も良く担任も喜んで賛成してくれた。高校の入学式には両親が出席し、アルバムには満面笑みの父の顔がある。

　希望校の変更についてだが、その夏、予備校の夏期講習を受けた。そこに来ていた娘に一目惚れする。その娘の志望校が父の望んだトップ校だった。そういうことだ。その娘もめでたく合格する。甘く切ない初恋だったが、当然のごとく失恋に終わった。
　志望校変更の動機もそんな次第で、一年間、勉強漬けだった訳ではない。発散する時は発散した。母の浮気を知り、凄い場面を何回か見ていた。その俺が、一つ屋根の下にいて、この家でそのあと起こったことに気付かなかった。そんなことがあるだろうか。
　俺が母は明るくなったと感じた一年近く前から、母は変化し出したと父は言っている。父が言うように、俺は元来が奥手で鈍かったのだろうか。舞に聞いてみたいがそれは出来ない。勘の鋭い妹に俺は父と母の秘密を隠し通す自信がない。父の立場で時の流れをなぞってみた。

　俺が中学二年の七月に父は母と男の間に疑いを持った。
　九月には決定的な現場を録音した。
　年が明け、夫婦の寝室で繰り広げられた母と男の行為を写真に収めた。
　何日かあとに男と取引をする。
　締め日には、父も男も何もなかったように、例年のごとく振る舞った。
　父は目の前で母が男に抱かれるのを見て興奮した。やがて自分も参加する。これは歳の離れた夫婦によくある話だと聞いたことがある。
　しかし、父は母の中に、本来の母以外に二人の女がいると言っている。最近、その力関係、境界が変化をきたしている。そのために母の精神が不安定になってきた。そんな母のすべてを父は受け止め支えている。そのことが夫婦の絆を強くしている。父はそう思っているようだ。
　父が待つ書斎に向かった。次のフォルダは六月、前のフォルダとの間が半年もあった。
　映像と音声のファイルがあったが、これまでのようにスライドショーは出来ない。父は編集をしてなかった。写真と録音テープを別々に収録してあるだけだ。俺は仕方なしに画像ファイルだけを見るソフトを起動する。
　全裸の男と女が何枚も写っている。
　女に比べ、男は若くて美男子だった。
　女が男に夢中なのが分かる。
　女はもちろん母ではない。
　音声ファイルを開いてみた。人妻が若い男と浮気をしている現場だった。女は写真を撮られていることも、録音されていることも知らないようだ。女の目にはモザイク加工がしてあり、音声が所々途切れている。女を特定出来ないようにしてある。
　俺は写真と音声のファイルを交互に開く。

　部屋が変わった。女は同じだが、男は五人以上いる。一見して素人でないと分かる男たちに必死の形相で抵抗している女が埋もれていく。侮辱する聞くに堪えない罵声に女の悲鳴がかき消される。
　きつく閉じていた口が苦しそうに開き、汗と粘液にまみれた身体が女の意志とは違う動きを見せてくると、快楽が一人歩きをし出した。
「亭主に見せるか！　このザマを」
「いやー」

　部屋が変わった。床に浣腸の器具がある。男は二人か、多くても三人くらいだ。
　肛門を責められている。女の顔は苦痛に歪み、戸惑いの混じった悲鳴を上げる。
「我慢しな、すぐ良くなるぜ」
　しばらくして、呻き声に微妙な変化が出てきた。
「よし、サンドイッチだ」
　男二人の間で女がもがいている。
「癖になるぜ」
　耳元でささやく男の声に、女とは思えない低く動物的な声が重なる。

　このころから同じ男が必ず加わるようになる。この男が部屋を支配していた。男たちは「だんな」と呼び、女には「ご主人様」と言わせている。女はこの男のために調教されたのだろうか。
　ご主人様は女よりも背が低く太っている。色は黒く、手足が短い。首も無いかのごとく太く短い。腹は三段にも四段にもせり出していて、角刈り頭はてっぺんが禿げている。顔はギョロ目で、鼻は潰れたように低く、口は裂けたように大きかった。その男が女の上に被さる写真は、ガマ蛙が交尾している姿そのままだ。
　このフォルダーの写真は父が写したものではない。俺のような素人にもカメラの違い、腕の違いが分かった。父はどこから手に入れたのだろう。買ったのだろうか。しかし、こんなものをこのハードディスクに保存する必要があるのだろうか。俺はテキストファイルを開いた。

「昼間、頭が来て置いていきました」
　月曜の夜、家に帰ると文子が使い古したカバンを渡してよこした。頭と私の間で山の書類をやり取りする時のカバンだ。私は風呂に入り、食事をした。
「頭ったらおかしいのよ。カバンを渡したあと、『奥様、本当におきれいになられましたね』なんて言うのよ」
　文子はその場面を思い出しているのだろう、テーブルの向こう側でさも楽しそうに笑う。
「ねー、あの人が言うかしら。私、言ってやったの『それじゃー、前は何だったて言うのよ』って。そうしたら、頭ったらどぎまぎしちゃって『いえ、そういう意味じゃねーです』って本当に困った顔して」
　文子は頭の口真似をすると、また笑った。

　私は書斎に入りカバンを開けた。山の取引の書類があったが、いつもは入っていないものがある。旦那様と書いた袋があり封筒が入っていた。そのほかに、テープレコーダのテープ、フィルムと写真が多数あった。封筒には便箋と、更にもう一つの封筒が入っていた。
　頭は学校を出ていなかったが、私の父が読み書きを教え、しっかりした字を書く。

　私は頭の家に電話するために居間に向かった。文子が受話器を下ろすところだった。
「頭が家に帰っていないんですって。こちらに来ていないかって」
　二番頭からの電話だった。
「民ちゃんがすごく心配してるらしいの。どこに行ったのかしら」
　文子は独り言のように言った。私は声を出さずに、自分に言った。
「頭はもうこの世にはいない」

　翌日、頭を除いて男衆が全員、家に集まった。頭は夕べ家に帰らなかった。男衆は山に向かう。頭はすぐに見つかった。滝つぼで死んでいた。駐在が息を切らせて登って来る。あちこちに打撲、裂傷があったが、致命傷ではなく、死因は溺死だった。警察の事情聴取に対し、男衆は私に報告したことをそのまま話している。

　十日ほど前に豪雨があり、山林に被害が出ていた。三日前の土曜日は被害箇所を保全するために皆で山を回った。滝つぼの上には銘木の部類に入る木があり、今回の雨でその下が崩れ、根元から滝つぼまで絶壁になっていた。今度崩れると、その木も落ちてしまい流される可能性が大であったが、今切るのは惜しい。生かすことが出来れば、将来何倍もの価値が出る木だった。
　頭は、崩れても木が一気に落ちないための手当を男衆二人に指示をして、別の現場に向かった。皆が戻ると作業はまだ完了していなかった。終了時間を過ぎており、皆も疲れている。その仕事を残し山を降りた。

　昨日の午後、頭は皆と別行動を取り、滝つぼの上に向かうことにした。二番頭は補佐を付けようとした。頭なら、一人でも半日あれば十分にこなせる仕事だったが、今は危険な場所になっている。頭は「大丈夫だ」と笑った。事実、仕事は完璧に仕上げてあった。

　警察が唯一疑問に思ったのは、滝つぼの深いところは真ん中だけで、そこに落ちても、水の流れで自然に浅いところに行けたのに、ということだった。しかし、他に不審なところは無く、落ちる時に頭を打ち、気を失ってしまったのだろうということになった。
　この疑問もすぐに解けた。頭の幼馴染が葬式に来てくれた。
　頭はまったく泳げなかった。
　水に入ると体が硬直して、そのまま動けなくなった。小さいころに溺れかかり、それ以来どうしても水に入れなかった。幼馴染が夏の苦手なガキ大将を語った。
「ある時、年上のワルが冗談半分に辰ちゃんを川の中に投げ込んだ。立てば足が付くところだった。辰ちゃんは背中を見せ動かない。皆はふざけていると思ったが本人は動こうにも動けなかった。すぐ引き上げられたが、水をたらふく飲んでいて危うく死ぬところだった」
　頭は幼馴染が言った通りの格好で死んでいた。
「そういえば夏場の休み時間、皆はふんどし一つで川に入ったが、頭は入らなかった」
　男衆の一人が言った。