良妻賢母は二度ベッドインする
保留守人 作
１１．

　夫の代理で参列した葬儀から戻った夜、渡辺絵美子は夫の愛弟子、斎藤孝太郎と自宅で二人だけの時間を過ごした。
　だがその翌日の午前１１時頃、東京へ戻ったはずの孝太郎から絵美子に電話が入いる。
　またすぐに会いたいと言うのだ。
　電話口の彼の様子に、絵美子は緊迫した気配を感じ取り、何か深刻な事態でも発生したのかと心配する。
　そして孝太郎が絵美子との待ち合わせに指定してきた場所は、市内中心部にある高級ホテル内、ランチタイムのスカイレストランだった。
　メディアに露出する機会が増え、すっかり有名人になってしまった孝太郎が、プライバシーが保たれ、少しでも人目に付きにくい場所をと選んだのだろう。
　絵美子自身も夫と共にテレビのインタビューを受け、その美貌は広く世間に知れ渡っている。
　とにかく孝太郎に会うべく、絵美子は身支度を急いだ…………

　…………目を開けた時、壁にかかった時計がぼんやりと目に入っていた。
　長針と短針が真上を向いて重なろうとしている。
（え？…　今日は何曜日？　まだ夜中？）
　窓の方へ目をやるとブラインドの隙間から光が漏れている。
　ボーっとした頭の中で、じわじわと時間の感覚を取り戻してゆく。
　そこへ昨夜の記憶、落書きされたママのお尻が鮮明な画像となって脳裏に浮かび、翔太はガバッと、ベッドで跳ね起きた。
　そして、条件反射か、枕元のスマホを手にしていた。
　ママからのラインが入っている。
　　〝ママ
　　　　　急にお友達と会うこと
　　　　　になったの。ハンバー
　　　　　グ、テーブルに用意し
　　　　　ておくわね！
　　　　　帰ったら食べて　　　　　午前１１：４０〟
　ようやくママもスマートフォンに慣れてきたのか、　
　実質それがママからの初めてのラインメッセージということになる。
　“いいね”のロゴが入った見当違いなスタンプが、妙に切なくなる。

　ママはもう出かけたのだろうか？
　翔太は念のため、足音を殺して階段を下りる。
　物音ひとつしないリビングルームは綺麗に掃除されていた。
　どうやら自分が深夜帰宅していたことには気づかれていないようだ。
　食卓の上にはラップのかかったハンバーグも用意されている。
　ママの寝室に向かい、ドキドキとしながら扉を押し開けたが、この部屋もいつも通り、きちんと整頓されていた。
　でもダブルベッドを眺めていると、ママと孝太郎にぃちゃんが裸で重なっている妄想が浮かび上がってしまい、それを打ち消そうと何度も頭を左右に振った。　
　決して心の整理ができたわけではないが、少し気持ちを落ち着かせると、風呂に入っていなかったことを思い出し、バスルームへ向かう。
　脱衣場では洗濯機のふたが開いたままになっていて、ネット状の袋の中に入った黒いブラジャーが目にとまった。
　どうやら洗濯機は水が張られた段階で、ふたが閉じられていないのを検知して、自動的にストップしていたようだ。
　シャワーを浴びようと下着を脱ぐ。
　すりガラスの扉を開けるとわずかにムッとした熱気と湿気を感じた。
　ママがバスルームを使ってから、まだ間もないのかもしれない。
　シャワーを手にしたとき、クリーム色の洗い場の床に、一本の黒くて短い、縮れた毛が落ちているのを見つけた…………

　…………１０月中旬、天気のよいその日は汗ばむほどの陽気だった。
　先に到着した絵美子はリザーブされた席へと案内される。
　落ち着いた柄の装飾が施されたパーテーションで仕切られたブース席。
　３３階の窓からは、丘陵地帯の裾野に広がる自分たちの住む住宅街が、遠くに霞みながらも見渡せていた。
　落ちつかない気持ちで待つこと１０分、突然ひとりの男がパーテーションから姿を現した。
「渡辺…絵美子さんですね？」

　驚きのあまり席を立つ絵美子。
　浅黒い肌の顔、スキンヘッドにちょび髭をたくわえ、丸いフチなしレンズの眼鏡をかけたその男は、どうみても常識人には見えない。
　顔立ちの脂っこさは俳優の竹○直人を彷彿とさせる。
　黒一色のタートルネックのセーターに白いスラックスも異様に映っていた。
「失礼しました。神崎泰正と申します」

　絵美子は状況を把握できず、声も出ない。
「まぁまぁ、どうぞお掛け下さい。
　わたくしは下手な写真を撮って、生業としている者でございます」と、男はフリーの写真家であることを記した名刺を差し出した。
　その人物は知る人ぞ知る写真家で、ヌードを撮らせれば、日本においては彼の右に出るものはいないと言われている。
　事実、本屋の店頭で偶然手にした週刊誌のページをめくれば、すぐにわかることだ。
　目に付いた巻頭グラビアの撮影者が神崎泰正である確率は非常に高いのだ。
　とはいっても、一介の主婦である絵美子が彼の名声など知る由もなかった。
　再び着席した絵美子がようやく頭を頷かせる。
「は…はい……」

「今日は斎藤孝太郎くんに代わりまして、お話ししたいことがございます。
　こんな形で、急にお呼び立て致しましたご無礼を、どうぞお許しください」
「そうなんですか？　こうた…斎藤さんは――」
「――彼はもう東京へ戻りました」と、絵美子が言い終える前に男の声が被った。
　そしてさらに続ける。
「それにしても、やはり綺麗なお方だ。
　お洋服の着こなしにもセンスがある。
　とても中学生の息子さんがいらっしゃるようには見えませんな。
　スプレ～ンディダ！」

　矢継ぎ早に話す男に絵美子は返事もできず、当惑したように右手でセミロングの髪を押さえた。
　今日の絵美子は秋を意識したブラウン系のスカートスーツに、襟なしの白いブラウスを身に着けている。

　――――実は絵美子は家を出る直前、知らぬ間にイタズラ書きされた自分のお尻のことを思い出した。
　勿論それは昨夜の入浴時に気が付いて洗い落としていたのだが、それとは別に、今朝、トイレを済ませた後のウォシュレットだけでは何となく不安に感じた。
　これから孝太郎に会うのである。
　“もしもの成り行き”が頭に思い浮かんだとしても、けだし当然のこと。
　絵美子は慌ててパンプスを脱ぎ、玄関からバスルームへと駆け込んだ。
　風呂用防水スリッパを履いて浴室でタイトスカートを捲り上げ、パンストとショーツを膝までズリ下げてからしゃがみ込む。
　そして衣服が濡れないよう気を使いながら、石鹸をまぶした手でヴァギナとお尻の穴を入念に洗った――――

　孝太郎に会えないと悟った瞬間、そんな自分の姿が頭の中でよみがえり、絵美子は恥ずかしくなった。
　そしてなぜか夫と息子の顔までが浮かんでしまい、情けなくなる。

　そんなところへ予めオーダーされていたのか、ウェイターがロゼワインを運んできた。
　男がテイスティングを済ませると絵美子のグラスに注がれる。
　絵美子が慌てて手を振り、飲まないと意思表示したつもりだったが、それも中途半端なものとなってしまう。
　ウェイターは、やや戸惑を見せたが結局最後まで注ぎきり、それから本日のランチコースのメニューを説明して席を離れて行った。

　男が話を再開させる。
「私はね、仕事が立て込むと、よく、長期間ホテルに滞在するんです……」
　しかし絵美子は男の話を遮り、毅然とした態度で男に聞き返した。
「……あの、斎藤さんに、何かあったんでしょうか」
　だが、男も負けていない。
「そう、去年の２月もそうでした。パーク・タワーホテル……」
　言った男の顔は気持ち悪いほど、にやけている。
　絵美子がハッと顔を強張らせたのが対照的だ。
「あそこは２階がエントランスロビーになっておりましたでしょ？
　そこのラウンジでコーヒーを飲んでいるとき、初めてあなたがたをお見掛けしたんですよ」
「…………！」
「あなたのあまりの美しさは、遠目で見てもまるで女優のような存在感でした」
「……」
「それで、写真家なものですから、つい、画像に収めておこうと思いましてね」
「…えっ！」
「学生服を着た、高校生の息子さんと一緒にお泊りなんだと、……その時は思いました」
「…………」
「でも、最初から、なんとなくお二人の関係に違和感も感じておりまして……。
　私はそのへんの嗅覚も、よく利くもんですから…オッホホホホホッ……」

　絵美子は自分の身に何か深刻な事態が降りかかろうとしているのを直感した。
　気が動転しているところへオードブルとして、ほうれん草のキッシュが用意された。
　写真家・泰正は、それぞれ一番外側に並べられたナイフとフォークを手にすると、顔に似合わず、流れるような手さばきで口元へ料理を運ぶ。
「ワインを少し、口にお含みになってはいかがですか？　落ちつきますよ」
「あ…いえ……」
「……１４時にチェックインされてから翌日１１時にチェックアウト。
　その間、お部屋を出られたのは地下の和食店でお食事をされた一時間だけ……」
「そ…そんな……」
「わたしも連泊する宿泊客としては古株でして、客室係とも、懇意にしておりましす」
「はい？」
「翌日お二人がチェックアウトされた後、係が清掃に入ったとき、ゴミ箱の中に何が入っていたかを白状させたんです」

《ふぃーッ！》
　音をたて、絵美子が息を呑んだ。
　その驚き様とは、尋常なものではなかった。
「しっかりと結んで封をされたビニール袋から、１１個、出てきたそうです」
「…………！」
　拳を握り、ただうつむいている絵美子。
「何のことだか、おわかりになりますね？」
「………」
「お答えください。１１個あった物とは？」
「そんな……」と、既に涙目の絵美子。

「私が申し上げましょう。それは、使用済みの……」
「や…やめてください。お願いです」
　泰正は絵美子の狼狽ぶりを楽しむように続けた。
「……コンドーム…でした」
「……おねが…い…」
「ご記憶は、ございますね？
　私も世界水泳をテレビで見ていたときには、気づかなかったんです。
　全身で喜びを表している金メダリストが、あの時、私がカメラに収めていた斉藤孝太郎くんだったとはね。
　一年ちょっとで随分と肉体が成長したもんですな。
　先日のテレビで、あなた方ご夫婦と斉藤くんを見た時は、本当にびっくりしましたよ」

　絵美子のオードブルは手付かずのまま、その横に茄子のポタージュが配膳される。
「ところで、成長した彼の肉体はいかがでしたか？」
「えっ？……」
「昨夜、彼とお会いになったことは存じ上げております」
「ど…どうして……」
「あなたは喪服のまま、ソファで彼に抱かれた。シャワーも浴びずに……」
「…………！！」
「まるでアダルトビデオのような光景ではありませんか。ホッホッホッ」

　目頭を赤く染めた絵美子は堪らず立ち上がった。
　だが泰正はそんなことにも動じず、続ける。
「彼は私との取引に応じたんです」
「……？」
「ご主人と息子さんがお留守の間に、あなたの所へ行くようにと……。
　そして今でもあなたが斎藤君を受け入れるという証拠として奥様の裸、いや、陰部を盗撮するようにと申し付けたのです。
　あの日、奥様が遠方でのご葬儀に出席されるというのは想定外でしたが、お陰様で、彼にも、いい“エ”が撮れましたよ……」
「……ど……？！」
「……彼が寄こした画像がこちらです」と、泰正は自分のスマホに保存された一枚の画像を絵美子に向かって見せつけた。
「きゃっ！！……」
　悲鳴を上げた絵美子が顔をそむける。
　女性器と肛門が“どアップ”で捕らえられた画像。
　脱がされようとしている黒い下着の汚れまでが写っている。
　それはとても直視できるようなモノではなかった。
　顔面蒼白となり、立っていることさえ困難になる絵美子。
「お顔は映っておりませんので、直ちにこちらが奥様、あなたであるという証拠にはなりません。
　しかし、どうでしょう。
　もしこの写真をご主人のケータイへ送ったとしたら……。
　やはり、ご主人であればこれが奥様だと、お判りになるものなのでしょうか？　……ゥオッホッホッホッ」

　膝を震わせている絵美子に、尚も泰正はお構いなしだった。
「これを脅迫……と、お取りになるかどうかは、ご自由です。
　私やホテルを訴えることも可能でしょうが、未来のある斉藤君のことを考えると得策ではありませんな。
　渡辺さんのご主人も、息子さんも傷つくことになる。
　まぁ、お掛け下さい……さぁ、奥さん……」
　
　白身魚のポワレが運ばれてきたとき、泰正は手付かずの皿は下げるようウェイターに指示した。
「そこで、ご相談です。奥様も私と取引きなさいませんでしょうか？」
「…どういう…ことでしょうか」
「あなたをモデルに、ヌードを撮らせて頂きたい」
「そんなこと…できるわけ…ありません」
「現在私は、“妄想と現実の融和”という作品群で、様々な男女のペアヌードを題材にしておりまして、そちらの創作のほうに食指が動いております。
　そこでぜひ、あなたをモデルにしたい」
「…………」
「わかっています。あなたがモデルの作品は、一切公開しないとお約束します。
　私は、わたしの芸術に対する本能を満足させることさえできれば、それで結構。
　逆に、あなたを撮らなければ、私の写真家としての意味がなくなってしまう気がするのです。
　受け入れてくだされば、奥様と斎藤君の秘密は墓場まで持っていくつもりです」
「……そんな」と、声を振り絞る絵美子。

　メインの締めくくりは、鶏肉のポワレ。
　香ばしく、皮のかりっとした焼き上がりが泰正の食欲を誘う。
「秘密保持には細心の注意を払わせて頂きます。
　ただ、撮影には半日ほど、お時間を頂きたい」
「すみません。やっぱり、わたしにはヌードは無理で――」
「――都内のはずれに、個展を開くための小さな写真展示館を個人的に所有しております。
　そこには宿泊用のゲストルームがございますので、そこで撮影いたします。
　一泊するおつもりで、お越しくださればいい」
「ですから、それは……」
「何なら、息子さんも同伴なさいますか？
　そうすれば、ご主人に妙な心配をお掛けすることもないでしょう。
　あ、いえ、もちろんお母さまがヌードモデルになることは、息子さんには分からないように段取りさせてもらいます。
　いろいろと“シナリオ”がございますので、ご安心を……」
「む…無理です……」
「ご都合のいいタイミングが見つかりましたら、その日取りをご連絡ください」
「…そんなこと――」
　絵美子は一口もワインを飲んでいなかったが、鼻頭と瞼は真っ赤に染めていた。

「――そうだ……」と膝を打ち、意味深な笑みを浮かべた泰正が畳み掛ける。
「……１１個の使用済みコンドームの中のひとつですけど……」
「……？」
「……微量の人糞が付着していたそうです」
「はっ！！……」
「お心当たりが……おありですね？」
「…あ！…えっ？…そ……」
「いけませんね～、こんなに可愛いお母さまが……。ウォッホッホッホッ……」
「っ…………」

　絵美子はこぼれ落ちそうになる涙を堪えながらも、テーブルの下では、ひたすらスカートの裾を引っ張り、膝を隠そうとしていた。

「下にお部屋をご用意しております。
　そちらで、もう少し打ち合わせを致しましょう。
　もっと、あなたと孝太郎君との事もお聞きしたい」

　ナプキンで口を拭った五十代半ばの“アーティスト”に笑みは無かった…………


…………つづく
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あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。
2015年12月26日掲載
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