聖女失格～処女妻・６０日調教～

　七月十七日（月本涼子監禁十日目）

　午前七時、時計のアラーム音で杉田拓海は目覚めた。
　私室に隣接する洗面所で顔を洗い、Ｔシャツとジーパンに着替えてから、窓のカーテンを開けた。まだ早朝だというのに、陽射しが強い。
「今日も暑くなりそうだなァ……」
　拓海は、衣類や携帯ゲーム機で散乱した部屋をあとにした。
　玄関ホールの階段をおりて、リビングダイニングへと向かう。屋敷内はどこもかしこも豪奢な造りで、間取りもひろい。まるで小さな宮殿だった。十年ほど前まで外国人の老夫婦が暮らし、ペンション経営をしていた時期もあったという。
　キッチンでは、すでにミサが朝食の準備をはじめていた。
「おはよう、拓海くん」
「すみません、すぐに手伝いますから」
「こっちはひとりで大丈夫よ。それより、涼子さんのほうをお願いできるかしら」
　パソコンデスクには柳沢の姿があった。膝を丸めて椅子に座るのが彼の癖だった。
「着替えを忘れずにね」
「あ、はい」
　拓海はいったん身につけかけたエプロンを外し、ソファの上に折りたたまれた女物の着衣を手に取った。
　つき添いの柳沢とともに部屋を出て、玄関ホールを横切った廊下の奥にある鉄扉を開ける。そこはペンション時代に物置として使用されていた部屋で、今も日用品のダンボール箱の山が置かれている。
　屋敷内のほかの場所とは違い、床も壁も年季を感じさせる古さだが、部屋の奥にある扉だけは見るからに新しい。屋敷を買収したさい、南雲泰治が増築させた拷問部屋の入口である。その地下室には、二十二歳の若妻が監禁されている。
　拓海は、鉄格子の扉をくぐってなかに入った。
「おはようございます、涼子さん」
　月本涼子はベッドの上で上体を起こした。眠そうな顔だった。スリップの肩紐が腕までずり落ち、乳房の半分以上が露見している。
　角度によっては乳首まで見えそうな危うさだというのに、彼女は胸元を隠そうともしない。スリップの紐を肩に戻すそぶりさえない。寝起きのために思考が働いていないのだろう。あるいは、連日のように繰りかえされる辱めによって、羞恥心が麻痺しているのか。
「身体の調子はどうですか、具合は悪くないですか？」
　毎朝の健康診断は義務だった。
　何を尋ねても涼子は言葉を発しない。無言のまま頷いたり、首を横に振るだけだった。それでも、監禁当初にくらべたら進歩はある。最低限の受け答えはするし、トイレだって自分から要求するようになった。
「それじゃあ、ええと……その」
　短い質問と検温をすませたあと、視線を斜めに落としたまま拓海は告げた。
「……ふ、服を脱いでもらえますか」
　照れと遠慮の混ざった声だった。
　男に卑猥な指示をされても、涼子は顔色ひとつ変えない。しかし、動じていないわけではなさそうだ。目線の揺らめきがそのことを裏づけている。
　常に怯えたような表情の娘だから、心情の変化が読み取りづらいのだ。それ以上は特に拒むこともせず、彼女はのろのろとした動作でベッドからおりた。
　白いスリップの肩紐に指がかかる。
　サテン地の衣服が重力に従って肌を滑り、ブラジャーなどつけていない生の乳房が、白いパンティが、次々とあらわになった。顔は横にそむけたままだ。
　パンティを脱ぐときは、拓海に背中を向ける。さすがに前を見られるのは恥ずかしいのだろう。しかし、どのみちすべて見られることに変わりはないし、見せるために脱いでいることにも変わりない。手で隠すことさえ許されない。
　拓海は立場も忘れて魅入った。豊満な肉体の若妻が、裸で彼と正対している。
　いやでも喉が動いた。この身体を持つ女が処女だなんて、今さらながら信じることができない。彼女に一度たりとも手をつけなかった夫の心理が理解できない。それほどまでの猥褻さであり、顔立ちや内面性との落差が大きすぎる裸身だった。女の肉体に実をつけたふたつの白いスイカのような乳房が、緊張のために震えている。
　もしも状況が状況なら、今すぐ押し倒していたことだろう。豊かな乳房に顔を埋め、心ゆくまで白い肌を貪り、裸身じゅうが精液まみれになるまでペニスを挿入したに違いない。調教という名目がなければ、柳沢の目がなければ、そうしただろう。
　だが、今の拓海に彼女を抱く権利はない。性交をするために裸にさせたわけでもない。
「拓海くん」
　鉄格子の外の柳沢に促され、拓海の心が現実へと戻った。涼子が、脱ぎ捨てた衣服を手にして途方に暮れている。
　拓海はそれを彼女から受け取った。布地に女のぬくもりがまだ残っている。それから彼は替えの衣服をベッドの上に置き、改めて幼な妻の裸身を観察した。
「少しだけ我慢してくださいね」
　乳房に視線が落ちる。尻や背中にも当たる。
　長期にわたる監禁調教において、健康面、精神面でのケアは最重要課題だった。衰弱や栄養失調。運動不足による骨折。過度のストレスから湿疹を起こすケースも多い。
　それを未然に防ぐためにも、こうして定期的に肉体を調べる必要があった。何も劣情にまかせただけの視姦ではない。また、男に肌を見せることは、彼女にとっても性的な訓練の一環となる。
「ベッドに座って、足をひろげてください」
　拓海がそう言うと、涼子の頬に朱がさした。性的調教の対象者である以上、淫裂も点検しないわけにはいかない。
　自ら股を露呈させたはしたない姿のまま、涼子は両手で顔を覆った。しかし、彼女以上に緊張しているのは顔を寄せている拓海のほうだった。
　事務的な作業だと頭では理解しているものの、目の前の現実は彼に平静を与えてはくれない。男の言いなりとなって股を開く全裸の若妻、鉄格子で仕切られた薄暗い密室という異様な状況。ふとすると自分の立場を忘れそうになる。男としての肉体の変化も防ぎようがない。
　ズボンの下の男根が否応なく隆起してくる。それを彼女に悟られないために必要以上に前屈みの姿勢を作って、拓海は首を伸ばした。ペニスを挿入するための女の穴を熱い目で観察する。
　ようやく顔を離して、拓海は短く息をついた。
「ありがとうございます、服を着てもいいですよ」
　涼子も息をした。指一本も触れていないというのに、もう疲弊した顔である。たとえ性的な交渉がなくとも、裸身や淫裂を見られた時点ですでに辱めだった。
「あとで朝食を持ってきます、それまで休んでいてください」
「あ、あの……」
　着替えを終えた涼子が口を開いた。内気な幼女の声音である。
　拓海は驚いた。彼女のほうから声をかけてきたのは、これがはじめてのことだった。
「なんです？」
「……今日って何日なんでしょうか」
　さんざんに躊躇したはての質問だった。
　拓海は、檻の外の柳沢に視線を向けた。この手の受け答えには細心の注意が必要だからだ。安易に情報を与えてしまえば自我が戻り、自我から反抗心が芽生える危険性がある。
「七月十七日です」
　そう答えたのは柳沢だった。
「もうよろしいですか？」
「え……は、はい」
　涼子が身につけているのはピンクのＴバックショーツだった。上半身も薄いキャミソール一枚だから、ひどく扇情的な姿である。ベッドの上に戻ろうとする彼女の尻に自然と視線が向いた。
　リビングダイニングで朝食をすませると、拓海は、モップとバケツをかかえて玄関ホールへと歩んだ。屋敷内の家事全般が彼に与えられた役割だった。
　階段の前に初老の女が立っている。
「山内さんは二階の西側をお願いします」
　背中を丸めたまま家政婦の女は頷いた。五十すぎの年齢にしてはやや老けて見える。
　敷地がひろいぶん、屋敷内は部屋数も多い。一日ではとうていすべてに手がまわらないので、リビングダイニングや玄関以外は三日に分割して清掃している。
　ようやく一階が終わったころには、もう正午をすぎていた。裏庭でバケツの水を取りかえて、拓海は、二階へ向かおうとする。
　階段の途中で背後から声をかけられた。上畑だった。
「これから二階の清掃かい？」
「はい」
「悪いが僕の部屋もお願いできるかな」
「いいですよ。……あ、でも。それなら山内さんが」
「拓海くんにやってほしいんだ」
　彼にしてはめずらしく歯切れの悪い口調だった。
「苦手なんだよ、あのばあさん」
　顔を寄せて上畑は耳打ちした。
　掃除が終わると、拓海は、ダイニングで遅い昼食を摂った。室内には常に静淑なクラシック曲が流れている。滝の趣味だ。
　その滝が、キッチンで鍋をかき混ぜている。
「なんですか、それ」
　食器をシンクに戻しながら、拓海は鍋を覗きこんだ。やたらと巨大な鍋だった。
　なかには黒い液体が満ちている。色といい強烈な匂いといい、まるで、泥水を煮こんでいるような感じだ。漢方薬か何かだろうか。
　滝は、鍋の中身をトングでつまみあげた。
「うどん……じゃないですよね」
　そのことは拓海にもわかった。麺類にしては太すぎるし、見栄えからして違う。
「試食してみるかい、坊や」
「え」
「ハハ、冗談だよ。これはロープさ」
「ロープ？」
「うん、ＳＭ用のね。上畑くん、こんなもんでどうだい？」
　上畑がキッチンに入ってきた。
「いいですね、完璧だ」
　ヒュウ、と口笛を吹いて彼は鍋の火を落とした。
「ありがとうございます、滝さん。あとは僕がやりますよ」
「ああ、頼むよ」
「拓海くん、手伝ってくれるかい？」
　ふたりで協力して縄を取りだし、水切り網の上に乗せる。
「おいおいこいつも必要になってくるだろうしね」
「でも、なんで煮こむんですか？」
「縛ったときに縄が肌になじむんだよ、新品をそのまま使うとザラザラするんだ」
「へえ……」
　上畑は鍋の水を入れかえると、そこに別の麻縄を浸した。
「何度か繰りかえし煮詰めて、二、三日陰干しにする。そのあと馬油を染みこませれば、ほぼ九割がた完成だ」
「九割って、まだ何かするんですか」
「最後にとっておきの秘薬を使うのさ。それがなければ本物の縄は完成しない」
「秘薬？」
「女性の汗と体液だよ」
「あ……」
　月本涼子の裸身が拓海の頭に浮かんだ。
「あとでこいつを陰干ししておいてくれるかい？」
「わかりました」
「直射日光は避けるようにね」
　拓海はエプロンを身につけ、水道の蛇口を捻った。
　食器を洗ってから裏庭に出て、物干し竿に麻縄の束をかけた。その場所からは、山間地帯の壮麗な景色が見渡せる。深い森林に囲まれているので、外からは屋敷が視認できない。秘密裏に女を調教するには恰好の立地だった。
　午後三時。一台のトラックが屋敷にやってきた。南雲泰治の手配した車である。
　乗りこんでいる三人の男もみな彼直属の部下たちだ。彼らは、トラックの荷台からダンボール箱の山をおろして、玄関の横に積みはじめた。中身は食料と日用品である。
　週に二回の物資供給によって、たいていの生活必需品は揃う。それ以外のものは、車で一時間ほどの山村まで買いだしに出向かねばならない。空の荷台にごみ袋の山を押しこんで、車は屋敷から去っていった。
　すぐに拓海はダンボールをかかえ、一階奥の倉庫へとはこびはじめる。肉や魚介といった生鮮品は、キッチンにある業務用の冷蔵庫におさめる。
　ダンボールの半分ほどをかたづけて倉庫から戻ると、玄関先に豊田の姿があった。ワイシャツの袖を捲り、彼はダンボールをかかえあげた。
「大丈夫ですよ、僕がやりますから」
　けれども豊田は何も答えず、無言のまま廊下の奥へと歩んでいった。その背中を、拓海は不思議な目で見つめた。
　午後八時。陽が落ちたあとのリビングダイニングは薄暗さが目立つ。
　夕食のあと片づけをすませ、キッチンまわりの清掃をしたあと、拓海は、三人ぶんのコーヒーをカップに注いだ。地下室から戻った豊田と上畑が柳沢と話をしている。
「とりあえず、少しは従順になってきた印象ですね、涼子ちゃん」
　パソコンモニターの前に座りながら、上畑は煙草に火をつけた。
「素直に肌を見せるようになったし、軽いペッティングにも応じてきてる」
「応じるというより我慢してるだけ、って感じだけどな」
　豊田は鼻で息をした。
「男のイチモツを見ただけで泣きだすくらいだ、先が思いやられる」
「それでも順調なほうですよ」
　彼らは日に十数回、地下室の月本涼子のもとへと足をはこぶ。三度の食事と、数時間おきの定期巡回。別室で風呂やトイレを与えるときも、扉の外で待機する。
　そうして観察した月本涼子の様子は、巡回が終わるたびに柳沢に報告される。会話の内容、食事や入浴の所要時間、身体的な接触時の反応。表情や態度の些細な変化もこまかく説明する。それらの情報を柳沢がパソコンでデータ化し、当面の接しかたや調教の方針が決定されるのだった。
「拓海くん、これを滝さんの部屋に届けてもらえますか」
「はい」
　プリントアウトされた報告書を柳沢から受け取って、拓海は、リビングダイニングをあとにした。玄関の扉が施錠されているのを確認してから、階段をあがる。
　吹き抜けのホールを見おろせる廊下沿いに滝の私室はあった。
「すみません、失礼します」
　扉をノックしてから、ドアノブを押した。
　滝はベッドの上にいた。裸の背中に汗が光っている。中腰の彼の下には女の足があり、豊満な乳房があった。
「ミルクちゃんの報告書かい？」
　少しの動揺もない声で滝は言った。
「ありがとう、机の上に置いといてもらえるかな」
「え、でも」
　ベッドの上のミサと一瞬だけ目があった。情交の痴態を見られたというのに、シーツで裸身を隠そうともしない。両手で顔を覆ったりもしない。
　女の美貌が色っぽい茹で色に染まり、汗ばんだ頬や首筋に黒髪が張りついている。息づかいも重い。さんざんにペニスで突き通されたあとだから、拓海が部屋にくる直前までそれをしていたから、こんなふうになっているのだ。
「頼むよ、手が離せないんだ」
　数秒ほどの躊躇のあと、拓海は、性交の濃い匂いが充溢した部屋に入った。
　机の上に書類を乗せて、足早に扉のほうへと引きかえす。視線はずっと足元の床に落としたままだ。そこにはミサの着衣が散乱している。ベッドからはみ出た彼女の白い足も、視界の隅に映った。
「……し、失礼しました」
　音をたてて扉が閉じた。
　足音が廊下の奥へと遠ざかる。滝は短く息をした。ペニスは女の膣内に刺さったままだ。
　数回ほど腰を前後させてからそれを引き抜き、彼は、四つん這いになるようミサに指示をした。勃起が、湯気だつほどの愛液で濡れている。
「変わった刺青だね」
　白い臀部を指でなぞりながら滝は言った。
「坊やには悪いことをしたかな。彼、仔猫ちゃんに惚れてるんだろう？」
　ミサは何も答えない。かわりに、丸い尻を左右に揺さぶった。
「ほしいのかい？」
「……はい、ほしくって仕方ないんです」
「仔猫というより牝猫だね」
「ねえ、お願い。突いて。突っこんで。ズブズブ刺してッ」
　滝は、濡れた淫裂に亀頭をあてがった。ミサが話をそらしたがっているのは、彼にもわかった。
　挿入と同時にミサは大声を発した。
　淫裂の強い抵抗を勃起で味わいながら、滝は感心した。抱けば抱くほどに魅惑を増す裸身だった。膣の感応も、喘ぎ声の艶っぽさも、並の女をはるかに凌駕するものがある。
　いくら性的な訓練を受けた娼婦といえど、ここまで淫に順応する女を滝は知らない。かといってただの色情狂いというわけでもなく、恥じらいの心や理性も持ちあわせているし、理性の裏側には陰湿な闇も隠し持っている。ふとした会話のなかに、性交中の表情に、それが垣間見えるときがあるのだ。
　彼女とて男に抱かれることを生業とする娼婦だ、人に言えない過去のひとつやふたつはあるのだろう。尻の刺青が、杉田拓海との微妙な空気が、そのことを如実に物語っている。けれども、それ以上の詮索をする気など滝にはない。
　女にとっての秘密とはいわば肉体の一部であり、隠し持つこと自体が魅力だからだ。暴いたところで何が変わるわけでもないし、何も生まれない。だから、滝は言葉のかわりにペニスを突き入れた。彼が過去に抱いたなかでも一、二を争う美女を、腰振りの動きだけで泣かせた。
「あーン、いい……ッ、す、すごいィ」
　ファッションモデルばりの肉体がベッドのきしむ音とともに揺れる。刺青の尻も揺れる。それは、鳥の頭と漆黒の翼を持つ裸婦の刺青だった。

　　☆

　リビングダイニングに入りかけたところで、拓海はふと足を止めた。パソコンデスクの前に黒髪の女が座っている。
「あら……」
　ミサは、文庫本に落としていた視線をあげた。
「今日の当番は柳沢さんだと思ったけど」
　夜間は常時二名で地下室を監視する決まりとなっている。
「少し遅れるそうです、豊田さんと話があるって言ってました」
「そう」
　拓海は、ミサのとなりに腰を落とした。
　室内にはふたり以外に誰もいない。リビング側の電気を消してあるせいか、部屋がいつもより狭い印象がある。昼間とは違う静けさがあった。
「あの、ミサさん」
　長い沈黙のあとの声だった。
「ミサさんは、どうして寺崎さんのところで働くようになったんですか」
「え」
　ミサは顔をあげた。古典文学の小説を机の隅に置く。
「……どうしてそんなことを聞くの？」
「ずっと気になってたんです。前から、ずっと」
「昔のことだもの、もう忘れたわ」
「忘れただなんて……」
「拓海くんこそ、どうしてここにいるの？」
　美貌の顔立ちが拓海を覗きこんだ。アームライトの強い光が水色のスカートを照らしている。その奥には、女の匂いたつ性器がある。
　彼女の淫裂がどのような形状と味なのか、絶頂時にどのような伸縮をするのか、拓海は知っている。彼自身のペニスが知っている。その淫裂が、つい数時間前まで別の男の玩具となっていた。
「どうして寺崎さんの下で働いてるの？」
「僕は、自分の意志で」
「そんなの嘘」
　探るような目で見つめられ、拓海は、顔を横にそむけた。
「わたしのせいなんでしょう？」
「え」
「寺崎さんに何か言われたのでしょう、だから断れなかったのでしょう？」
　小声なのは気後れがあるからだ。
「……わたしね、前に寺崎さんに尋ねたことがあるの。どうして拓海くんがここにいるのかって。あの人は答えてくれなかったけど」
「そ、それは」
「だめね、わたし。自分だけじゃなく、あなたの人生までめちゃくちゃにしてる」
「違います、そんなの関係ありません」
「本当にだめな女」
　自嘲気味にミサは笑った。
　拓海もつづく言葉を失った。時計の音だけが部屋に響く。すでに十一時をまわっているというのに、柳沢がやってくる気配はない。
「僕は」
　先に口を開いたのは拓海のほうだった。
「……僕は、自分の意志でここにいるんです」
「拓海くん」
「先生の……真穂さんのそばにいられるのなら、僕はなんだっていい」
　その名を拓海が口にしたとたん、ミサの肩が小さく揺れた。
　一瞬、彼女の表情に険しさが浮かんだ。けれども、すぐに本来の柔らかさが戻り、ミサは苦笑した。
「ばかな子」
　できの悪い息子を見守る母親の顔だった。
「……本当、拓海くんって昔のままね。小学生のころと少しも変わってない」
「僕だって少しは成長してますよ」
「そうやってすぐ真に受けるところもおんなじ」
「……苛めないでください」
「怒らないで、褒め言葉なんだから」
　不意にミサの顔が近づいた。
　気づいたときには、もう唇が重なっていた。声をもらす暇もなかった。
　甘い香りに包まれながら、彼は目を閉ざした。ふたつの舌が自然と絡まる。
「この屋敷、二階の部屋にピアノがあるんですよ」
　拓海はつぶやいた。唇は触れあったままだから、ほとんど吐息に近い声である。
「普段は鍵がかかってるけど」
「そう……そうなの」
「先生のピアノ、また聴きたいなあ」
「それは無理よ」
「どうして？」
「もう昔のわたしじゃないの」
「先生は先生だよ。家でピアノを習ってたときも、あの公衆トイレのときだって……」
　そこで拓海は言葉を切った。涎の細い糸とともに唇が離れる。廊下の奥から足音が聞こえたのだった。
　すぐに柳沢がリビングダイニングに入ってきた。
「すみません、お待たせしました」
　たぶん風呂あがりなのだろう。妙にさっぱりとしている。しかし、ボソボソッとした口調と猫背の姿勢は普段と同じだ。
「ありがとうございます、拓海くん。もう休んでもらってけっこうですよ」
　年下の拓海にも彼は敬語を使う。
「ミサさんも休んでください、もうすぐ豊田さんもきますから」
「はい」
「明日もよろしくお願いします」
　拓海はミサとともに部屋を出た。一階に私室のある彼女と玄関ホールで別れて、階段をあがる。
　ペンション時代の客室をそのまま流用しているため、部屋はすべてバストイレ完備だった。浴室で軽くシャワーを浴びたあと、拓海は、Ｔシャツにトランクスだけの姿でベッドに身を投げだした。
　床の携帯ゲーム機を片手を伸ばして取りあげる。就寝前のわずかな時間が唯一、彼に与えられた自由な時間だった。
　睡魔はすぐにやってきた。
　ゲーム機をサイドボードに置いて、部屋の灯を消した。上掛けを腰まで引き寄せて身を丸める。目を閉じると、ミサの顔が自然と脳裏に浮かんだ。
「明日、またあえる。あさってもあえる……」
　無意識の声から数秒もしないうちに、彼は深い眠りへと落ちた。安らかな寝顔だった。

あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。

2011.7.18掲載

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