９

――伯父に怒られても、相変わらず僕は…――

　僕は、伯父にどなられていた。
「馬鹿野郎！、おまえは教師失格どころか、社会人としても失格、人間としても失格じゃ」
　僕は、伯父の家に行き、学校を辞める、と言ったのだ。
　伯父は、納得しなかった。
　だから、僕は、真理とのことを伯父に話したのだった。

伯父は真っ赤な顔をして怒っていた。それでも、伯母が、とりなしてくれている。
　伯母とは血のつながりはない、しかし、ありがたかった。
「おまえは、その女の子のおやごさんの気持ちを考えたことがあるのか！」
　確かに、いくら、愛人をつくっているとはいえ、娘がかわいくない父親なんているはずはなかった。
「妹は、悲しむだろう。こんなことは、妹には、とても言えんことじゃ」
　実際、生命保険の外交の仕事までして、僕を大学まで出してくれた母親だった。母親を泣かせるようなことをしまった自分が、情けなかった。
「ともかく、おまえは、停職処分を受けろ。そして、自宅謹慎をしておれ。その真理とかいう女の子は、わしが、聖心女学院高等部の理事長に話をして、そこへ編入させてもらうようにする」
　伯父に逆らえないまま、僕は、黙って、うなだれていた。「もう、その子とは会うなよ」
　伯父が、そう、念を押すように、僕に言った。

　僕は、伯父の家を辞した。
　伯父には、新庄真理の父親の会社の名前と住所は話しておいた。
　伯父が、真理の父親に会いに行き、父親を説得し、父親が真理を説得して、真理は聖心女学院高等部に編入学をすることになるだろう。
　もう僕としては、伯父の力にすがる以外にはなかった。真理が復学することを心から願っていた。
　僕は、伯父の家から自分のアパートに帰る道々ですら、真理のことを考えていた。歩きながらでも、僕の下半身の分身は、おっ立ってくるのだった。僕の分身の先っぽが疼く。そして、それは、真理のお○ンコの襞肉の締め付けを求めているのだった。
　僕は、真理の心が欲しいのか、真理のお○ンコが欲しいのか、わからなかった。いや、真理の心など、どうでもよかった。真理のお○ンコだけあれば、真理とやっていけそうな気がした。

　僕は、伯父に会いに行ってから、ずっとアパートにいた。そして、ケータイの電源を切って、一日中、布団の中に、もぐり込んでいた。
　実際、僕は、辞表を出すことができなかったのだ。
　伯父の恩情にすがっている自分が卑怯に思えた。真理に合わせる顔がなかった。僕は、布団の中で、手を合わせながら、真理が心を入れ替え、聖心女学院高等部に編入してくれることを祈っていた。
　伯父の家に行ってから４，５日は経ったような気がした。僕は、急に真理に会いたくて、会いたくてたまらなくなった。
　僕は、久しぶりにケータイの電源を入れて、タクシーを呼んだ。そして、真理のマンションに向かっていた。
　僕は、タクシーの中で、頭がボーッとしていた。何も考えられなかった。タクシーを降り、夢遊病者のような足取りで、真理の部屋まで歩いて行った。
　インターホンを押すとき、急に胸が苦しくなった。
　何度、押しても返事がなかった。部屋にはいないかもしれない。
　僕は、あきらめて、帰ろうとした。しかし、あきらめきれず、僕は、玄関のドアのノブに手を掛けていた。そして、ひねった。開いていた。
　僕は、口を開け、驚いていた。ドアを引く。目の前に、乱雑に置かれた靴が一足ほど目に入った。それは、男物であった、しかも若者が履くような。僕は、血の気が引いていた。
（ああ、まだ、真理はあの少年たちの一人と付き合っているのだ！）
　僕は、玄関のドアを半開きにしたまま、ドアと壁の間に体を挟まれたまま、膝から崩れ落ちた。自分でも顔が青ざめているがわかった。僕は、力を亡くし、玄関先のコンクリートの上にべったりと座り込んでしまっていた。
「てめぇー、なんだ！」
　僕は、見知らぬ少年に、胸倉をつかまれ、引きずり上げられていた。その少年は、ズボン姿ではなかった。上に、白のバスローブのようなものを羽織ってはいたが、下半身は、トランクスのみであった。
　うつろな目をしたまま、僕は、その少年に顔をなぐられたようだ。僕は、うずくまる。
「アッー！」
　僕は、何か、女の子の悲鳴を聞いたような。僕は、蹴り上げられ、そして、玄関から外へ投げ出されていた。僕は、手を支えにして膝から立ち上がりながら、口びるがヌルヌルとした感じがしたので、手でぬぐってみた。右手の甲を見遣ると、べっとりと血がついていた。
　僕は、これ以上、あの少年と喧嘩をする気力が、全くと言っていいほど沸いてこなかった。あまりにもショックが大きかった。僕は、自分が目から涙を流しているような気がした。
　真理のマンションから、とぼとぼと、歩み去っていく。
　やっと、アパートに帰った。布団にうつ伏せになったとき、僕は、はじめて、自分が熱い涙を流していることに気がついた。
　僕の脳裡には、僕が、真理のマンションで真理を抱いたときの真理の裸身が焼きついていた。それは理性の力ではとても消し去ることができないものだった。僕は、布団をかき抱いていた。そして、あのトランクス一丁だけの少年の姿を無理矢理消し去り、千切れるほどに布団を抱き締め、下半身を押し付け、熱いものをほとばしらせていた。

　僕は、それから、何日間か、アパートの部屋で寝ていた。
　少しでも気がつくと、僕は、自分を責めた、勇気のない自分を。そして、真理を救う勇気もないくせに、まだ、真理のことをあきらめきれない自分が情けなくて、泣いていた。
　しかし、僕は、それでも、真理のことが気になった、いや、真理のことを忘れることができなかった。
　そして、真理が、あの少年にのしかかられ、いたぶられ、あえいでいる姿が脳裏を掠めるのだった。

　昼間寝ている僕は、夜中に起き出していた。夜、１０時頃になると、僕は、自転車に乗って、２５分ばかりかけて真理のマンションまで行った。むろん、マンションの中に入る勇気はなかった。真理の部屋は４階だった。その部屋の明かりを、僕は、木陰に立って、見上げていた。
　その明かりは、１２時過ぎに消える。僕は、真理が静かに眠りに就いたことを確認し、ほっとしながら、また、自転車をこぎながらアパートに帰るのだった。
　一度、真理が３人ばかりの少年たちとマンションに向かおうとしているところを見た。心臓の鼓動が大きくなった。しかし、マンションの前で、３人の少年たちは別れて行った。
　やがて、真理の４階の部屋に明かりがともる。僕は、ほっと安心し、涙を流すのだった。
　僕は、そんなことを毎夜繰り返していた。
　たぶん、それは、僕自身が安心することでもあり、また、せめて真理が夜遊びをせず、更生してくれることの願いでもあった。実際、僕は、木陰の土の上に座り込み、手を合わせ、真理の健康と、真理が高校へ再び通ってくれることを祈っていた。
　僕にとっては、真理の部屋に明かりが点っていることが、真理が安全であることの証しに思えた。

　ある日、伯母がやってきた。
「真一さん、どうしたの？、顔色がわるいよ」
　僕は、せっかく伯母が心配してアパートを訪ねてくれたのに、頭の中がぼーっとして働かず、伯母の質問に、ほとんど答えられなかった。
　そして、そのあくる日、僕は、伯父に連れられて、市内の総合病院に行った。
　内科から、精神神経科に回された。
　僕は、ベッドの上に寝ていた。目を開け、顔をちょっと傾けてそばを見ると、医者と伯父が向かい合っていた。伯父の横顔は深刻そうであった。
　僕は、あわてて、頭を元に戻し、寝たふりをした。
　そして、聞くともなく、医者と伯父の会話を聞いていた。
「どうも、甥ごさんは、抑うつ状態のようですね」
「そうですか。ちょっと、甥には、最近、気を病むようなことがありまして」
「何か？」
「つまり、その、女が好きになって、そして、その女に振られたとでもいいましょうか。しかし、そういうことで、そんな病気になるものですか？」
「ありうることですよ。仕事を一生懸命やっていた方が、急に地方に転勤させられることになり、そのショックで、うつ状態になられたりですね。また、女の方では、これまで恋人と仲良くやっておられたのに、急に相手が冷たくなって、それがきっかけで、抑うつ状態になられる、とか。色々なケースがあるんですよ、この病気には。そして、この病気は、直りかけのときが一番、あぶないんです」
「先生、これは本人のつらい経験から来るものなんでしょうか、それとも、遺伝的な要素もあるんでしょうか？」
「それは、一概には言えませんね。遺伝的な素因があって、何かの拍子に、それが出てくるということもあるでしょうから」
「そうですか。いやなに、この甥の、真一の親父のお兄さんという人が、躁鬱病の気があったと聞いたことがあるものですから」
「いや、そういうことは、気になさらなくてもいいですよ。この病は、直る病気なんですからね。肉体だって、無理をすれば、風を引いたりして病みます。精神だって、使いすぎれば、病になりますよ。甥ごさんは、何かに関わりすぎて神経の休まるときがなかったのでしょう」
「そういえば、真一のやつ、悩みごとを自分ひとりで抱え込むようなところは、昔からありましてね」
「人間、気分転換をしながらやっていけばいいのですが。のめり込んでしまうタイプだと、そうはいかないことがあります」
「そうですか。で、先生、通院でも、よろしいんでしょうか？。できれば、わたしのところから、こちらに通院をさせたいのですが？」
「うーん、まぁ、入院なさった方がよろしいと思いますが…」

　僕は、ベッドに仰向けになって、寝たふりをしていた。からだを揺すられている。
　目を開けると、目の前に、心配そうな伯父の顔があった。
「真一、先生が、ゆっくり、からだと心を休めた方がいいとおっしゃっている。どうする、ここに入院するか？」
　伯父の声が、耳に入った。
　僕は、真理に会いたくなかった。真理との約束を破って、僕は、高校に辞表を出さなかったのだから。それに、夜中、真理のマンションのそばにまで行きながら、真理のためになることを、何もしなかったのだから。
　でも、僕は、自分のアパートにいても、伯父の家にいても、真夜中、急に、真理に会いに、真理のマンションに行きたくなるような気がした。それよりは、入院した方が、その気持ちを抑えられるのではないかと思った。
　それで、僕は、伯父に言った。
「僕は、入院して、治療に専念したいです」
「そうか。それなら、仕方がないか」

――僕は入院してしまう――

　僕は、市内の総合大学の精神神経科に入院することになった。
　伯母が、僕のアパートから、下着やパジャマ、洗面具などを持ってきてくれた。
　僕は、『これで、真理のマンションに自転車で通わなくてもよくなった』と思って、内心は、ほっとした気持ちがあったことも事実だ。
　夜になると、胸騒ぎして、真理のマンションに向かわざるを得ない。行くときはいい。しかし、真理のマンションから自転車で帰るときは、３０分も自転車を漕ぐので、ひどく疲れを覚えていたのだ。
　しかし、夜中に目が覚めると、僕は、真理のために結局、何もしてやれなかったと、相も変わらず、悔やんでは、病院のベッドでも、涙を流していた。

　僕は、昼間も、ベッドに横になりながら、いつも悔いていた。伯父や伯母にわるかった。母親にも心の中で、詫びを入れていた。しかし、心の中で、最も大きい位置を占めていたのは、真理へのおわびの気持ちだった。
　僕より年の若い女の看護師が、僕の病室にやってきて、
「どう、変わったことない？」
「何か、話したいことはない？」
「何かしたいことはない？」
　と、聞いてくれた。
　しかし、僕は、何がしたいとか、何かを話したいとかという気が起こらなかった。
　それに、僕は、成人になっていない、年端もない少女と不純な性行為をしてしまったのだ、そんな自分が恥ずかしくて、何もしゃべれないのだ。
　ましてや、教員をしていた頃の話もしたくなかった。なぜなら、そういう教員をしていた者が、みだらな性行為を繰り返していたからだ。僕は、自分のことを何も語りたくなかった。
　それでも、僕は、精神神経科に入院して１カ月も過ぎた頃、無理矢理、若い女の看護師さんに誘われて、遊戯室に行って、卓球をするようになった。
　久しぶりに、汗をかいた。気分が少し良くなったような気がした。
　そして、鉛筆を持って、スケッチとかもするようになった。
　少しずつ、食欲も出たような気がした。
　入院して２カ月が過ぎようとしていた。
　ベッドで、僕は、本が読めるようになっていた。
「牧村さん、電話ですよ」
　女の看護師さんに声を掛けられていた。
　もう時刻は、夕食が済んで、だいぶ経っていた頃だったろう。
　僕は、誰からだろう、伯父からだろうかと思いながら、看護師詰め所に行った。そして受話器を取った。
「もしもし、牧村真一といいますが」
「わたしよ、真理よ、一体、どうしたのよ」
「……」
　僕は、黙っていた、そばに、看護師さんたちがいたから。
「会いたいよ」
「今、僕は、病院に入院していて」
「場所、わかるよ。わたし、そこへ行くから、門のところまで、出ていてよ」
「だめですよ」
「いやだ、いやだ、わたし、行くからね」
　僕が、「それは、絶対だめですよ」と言う前に、すでに、電話は切れていた。
　僕は、自分の病室に一旦、戻っていた。
　しかし、ベッドに横になっても、胸がドキドキと鳴っていた。
　会いたくなかった。しかし、会って、せめて、真理にあやまらなくてはと思った。
　僕は、病室を飛び出ていた。そして、正門の前のところまで出て、立っていた。うろうろとしながら、あちこちに視線を這わせて、真理の姿を探していた。
　３０分も、そんなことをしていただろうか。タクシーがやってきた。そして、そのタクシーから人が降りてきた。真理だった。
　近づいていく。真理の目が大きく見開かれていた。しかし、真理の顔は、ひどく太っていた。前は、ほっそりとした顔立ちだったのに。からだつきも、前はスラリと痩せていたしていたのに、何か、でっぷりと肥ったような。僕は、スラリと伸びた真理の足がとても好きだったのに。僕は、少しがっかりした。
「どうしてたんだよ、ったく、連絡もせずに」
　僕は、病室から長く離れていることが気になっていた。
「ごめん、真理。僕は、入院していて。自由が効かないんだ」
　僕は、気になっていることだけを、真理に聞いていた。
「お父さんから、聖心女学院の高等部に入ること、勧められただろ？。それ、どうした？」
「わたしは、行く気ないよ」
　僕は、眉を曇らせた。
　もっとも、僕も、学校には辞表を出していなかった、真理を責める権利はなかった。しかし、今、ゆっくり真理と話す時間はない。僕の容態を観察に来る看護師さんが、僕が病室にいないことに気付くはずだ。
「真理、お願いだ、学校に復帰して欲しい」
　僕は、頭を下げていた。
　しかし、僕は、手を取られていた。顔を上げると、僕は、真理に手を引かれ、門の外に出ていて、そして、やがて、車の走っている通りに出ていた。
「真理、僕は、入院中の身なんだよ」
「馬鹿、見た目、元気そうじゃないか。それに、ちゃんと、歩けるじゃないか」
　僕は、真理が病院に電話をして来た以上、僕の病気のことは多少わかっていると思っていた。しかし、自分が、精神を病んでいる、ということを真理にはっきりとは知られたくなかった。
　僕は、黙ったまま、通りに、膝をついてしまっていた。
「ごめん、これ以上はついていけない」
「てめぇ、勝手だよ」
「わるかった」
「わるかったでは、すまされないんだよ」
　僕は、立ち上がれなかった。
　頭を歩道の地べたにくっつけたまま、あやまるしかなかった。
　と、僕は、両脇から、抱え揚げられたような。
「君は、何をやっているんだ」
　横を見ると、見覚えのある、病院の男の看護士さんの、二人だった。
「黙ったまま、病室を逃げ出すなんて！」
　僕は、ふたりの看護士さんに引きずられていた。
「待って、用事があるんだよ、わたしは、この人に！」
　真理の声が僕の耳に入った。
　しかし、僕は、両脇から看護士に、肩を取られ、腰を取られ、病院の方に連れ戻されようとしていた。
　僕は、後ろを振り向こうと、もがいた。しかし、すごい力で、ねじ戻されていた。
「おとなしくせんと、注射を打つぞ」
　僕は、ドスの効いた声におびえていた。
　僕は、恐怖心に駆られ、引きずられるように、病院に向かっていた。
「待って、待ってよ！」
　真理の声を、僕は、涙を流しながら聞いていた。
　気がつくと、僕は、独房のような部屋に入れられていた。目の前に鉄の格子があり、大きな鍵があった。あとの３面はまるで剥き出しのコンクリートの壁だった。部屋の隅には、きたない便器があった。臭い匂いがした。畳が二畳敷かれていた。そばに寝具があった。僕は、そのシーツに顔を押し付けるようにして泣いていた。
　しかし、通りで見つめられた、真理の刺すような目が、僕の脳裡にこびりついていた。もはや、真理の少し大きく肥った顔も、少し大きめになった足も、全く気にならなかった。部屋の匂いも、シーツを被せただけの毛布の臭い匂いも気にならなかった。ただただ、真理の見開かれた挑戦的なまなざしに向かい、硬く熱くなったものをしごきにしごいて、熱い粘液を勢いよく放出させていた。
　一週間ぐらい、僕は、独房のような、匂いのきつい部屋に入っていたようだ。
　涙を流しながら、握り飯をほおばり、冷えた味噌汁をノドに流し込んだような気がするが。
　ただ、なぜ、真理はあんなに肥ってきたのか、その理由のみを考えつづけていた。
　そして、考え続けて、疲れ、おとなしくなった頃、やっと、普通の病室に戻ることができた。

　伯父がやってきた。
「真一、すまん。このあいだ、職員会議があってな、おまえは、懲戒解雇になった。すまん。わしの甥とはいえ、こうも休みが続けば、わしとて、かばい切れんでな」
　僕は、さびしかった。しかし、幾分かは、ほっとしたような。
　辞表は出さなかったが、学校は辞めることになったのだ。結果的には、辞表を出したことと、ほぼ同じようなことになったのだ。多少は、真理に対して面目が立つような気がした。少なくとも、僕は、今日から、教員ではなくなったのだ。
　伯父が帰ってから、僕は、じりじりするほど、真理に会いたくなった。僕は、教員という聖職の身分ではなくなったのだ。ごく普通の人間になったのだ。
　しかし、大きな札の入った財布はなかった。看護師さんに預けているのだ。ケータイもなかった。
　僕は、地下の売店にある公衆電話に向かっていた。真理のケータイの番号は憶えていたのだ。
　繋らない。
　何度も、かけた。
　僕は、頭に血が上っていた、真理がまた、あのときのトランクス姿の少年と、みだらな性行為に夢中になっているような気がしたのだ。
　僕は、矢も立てもたまらず、お金もないのに、病院を抜け出していた。
　表門を通り、一般道路を走っていた。僕はかなり走ったような気がする。パチンコ屋の前を通った。駐車場を見ていた。すると一台の自転車が見えた。僕はその自転車のそばに近づいて行った。僕は疲れていた。タクシーを捕まえるお金も持ち合わせていなかったのだ。幸い、その自転車には鍵がしてなかった。僕はその自転車に乗り、道路に出ていた。そして、駅の方に向かっていた。駅まで行けば、その駅からは２０分ぐらいで、真理のマンションに辿りつけるはずだった。

――警察官に呼び止められてしまう――

　もう少しで駅前にたどり着こうかというときだった。僕は、後ろから誰か呼び止められたような気がした。
「君、ちょっと、待って」
　僕は、ブレーキを掛けて止まった。後ろを振り向く。警察官だった。
「無灯火で、走ったらいけんでしょうが」
　気がつくと、確かに日が暮れていた。僕は、腕時計すらしていなかったのに気がついた。
「すみません」
「ちゃんと、点けて走ってくださいよ」
　そう言いながら、警察官が、自転車に跨っている僕のそばにやって来る。
　僕はあわてていた。自分の自転車でもないので、ランプを点ける位置が即座にわからなくて。
「君、住所はどこなの？」
「えっ！？」
「住所は？」
　僕は、答えられないでいた。
「住所と名前を」
　僕は、言った。
「すみません、今、僕は、入院をしていて」
「なにっ！」
「で、ちょっと、忘れ物があって、自宅に帰ろうと思って」
「それで、病院に外出の許可はもらっているんだろうね、どこの病院？」
「そこまで、言わなくてもいいでしょ。僕は、急いでいるんだから」
　僕は、ちょっと、ムッとして、しゃべってしまっていた。
「その自転車は、どこのもの？。病院のを借りたのか？」
「……」
　僕は、あせっていて、頭が真っ白になり、警察官の質問に答えられなかった。
「ともかく、君、ちょっと、交番まで来てもらおう」
　僕は、逆らえなかった。病院に無断外出がわかれば、また、あの便器のある、臭い匂いのする部屋に入れられそうな気がしたからだ。
　おとなしくしておれば、解放してもらえると思った。早く解放されて、真理のマンションに向かいたかったのだ。
　しかし、僕は、交番に着いたとたん、警察官に、怒鳴られることになった。
「何だ、おまえは、病院の名前も言わずに。それは、つまり、入院中の病院を、黙って抜け出していることじゃないのか。しかも、おまえの乗っていた自転車は、おまえのものじゃないようだ。あの自転車の防犯登録ナンバーを調べれば、おまえのもんじゃないとすぐわかるんだぞ。そうなりゃ、おまえは、窃盗罪だ！」
　僕は、ずっと黙っていた。
　やがて、僕は、交番の人から、僕が他人の自転車を盗んだんじゃないか、ということを追及されはじめていた。
　僕は、とうとう、仕方なく、伯父の名前と、住所と、電話番号を、交番の警察官に言わざるを得なくなっていた。
　伯父がやってきた。
　僕は、立ち上がって、伯父に詫びを言った。と、そのとき、伯父に頭をゴツンと殴られていた。僕は、ヨロヨロっと、床に膝をつき、手をついていた。
「なんちゅう、やつや、おまえというやつは！」
　見上げると、伯父は顔を真っ赤にしていた。
「まぁっ、先生、そこまで、なさらなくても」
　交番の上司格らしい警察官が、伯父をとりなしていた。
　その警察の人と、伯父とが、何か親しそうに話し始めていた。警察の人は、昔、伯父の教え子だったらしい。
「先生、あの自転車は、駅前に放置されていたもので。それを誰かが、駅前からパチンコ屋まで乗っていったものでしょう。放置自転車のことで、盗難届も出ていないものですから、盗んだとも言えません。何とか、本署の方には、穏便に取り計らってもらいます」
「いや、まったく、君には迷惑をかけたね。本当にすまなかった」

　僕は、伯父とタクシーの中にいた。
「真一、さっきはすまなかったな。警察の手前、ああするより、ほかなかった」
「……」
「病院には、わしから電話を入れておいた。外泊許可が出たから、今晩は、わしの家に泊っていけ」
　僕は、伯父にすまなくて、涙を流していた。伯父にこれ以上心配をかけてはいけないと思った。そのためには、もう、二度と真理に会っていけないと思った。
　僕は、伯父の家に泊まることになった。伯母も何も言わず、やさしく僕を受け入れてくれた。
　僕は、伯母の敷いてくれた敷き布団の上に横になった。久し振りに落ち着いた気分になる。
　タクシーの中では、あれほどもう真理とは会わないでおこうと思ったのに、暖かい寝床にいると、真理のことが想われて、想われて、しかたがなかった。
　時々、激情に駆られ、掛け布団を抱き締めながら、
『真理、愛しているよ』
　と、つぶやいている始末だった。
　なぜ真理は、あんなに肥ったのだろう。なぜ真理は、高校に復帰しないのだろう。なぜ真理は、あのトランクス姿の少年と付き合っているのだろう。
　僕は、明け方近くまで、そんなことを繰り返し、繰り返し考えつづけていた。