１　幼稚園

　ひと月経ち、ふた月経っても同じ生活が続いた。麗子は抜け出れぬ不安の中を、ただ、呆然と歩いていた。

　十月のある日の夜、電話のベルが鳴った。

「はい、山下ですが・・・」
「もしもし、もみの木幼稚園の松本ですが、夜分遅く申し訳ありません。」

　麗子はドキリとした。

「いつもお世話になってます。・・・あの・・何か・・・」

　麗子は不安を感じていた。問題になるようなことは山ほどあった。

「いや、あの・・・香織ちゃんのことでちょっとご相談したいことがあるんですが、明日とか、お時間ありませんかね・・・」

　麗子は日曜日にこちらから幼稚園に出向くことを伝えて電話を切った。

　小林あたりの口から何か漏れたのかもしれない。幼稚園全体として問題になっているようなら、もうどうすることもできない。なにしろ、何一つとして言い訳できないのだから。
　もしそうだったら引っ越そうか、それとも何とか揉み消してもらおうか。麗子はまだ話も聞いていないうちから怯えていた。

　日曜日昼間、幼稚園のすみれ組の教室に麗子はいた。

「お話というか・・・ちょっとご相談したいことがございまして・・・」

　新米教諭の松本は、机を挟んで座っている麗子に話しかけた。

　松本は呆れていた。普通『お母さん』が幼稚園に来るときというのは、スーツか、或いは普段着でも砕けすぎない程度の格好をしてくるものだ。

　しかし麗子は、普通に座っていても谷間が見えるほど胸元が大きく開き、へそが見えるほど丈の短い、黒いシルクのブラウスに、ピチピチのニットの、白いミニスカート、ガラスのように透明なハイヒールのサンダルを履いた脚を組み、ケバケバしい毛皮のコートを着て松本の目の前に座っていた。

（この女、まったく、常識ってもんが無いのか・・・色気ばっかり発達しやがって、何回恥掻いてもわかんねえんだろ、バーカ・・・）

　松本は胸の奥でそう罵りながらも、目は、バックリと開いた白い胸元をチラチラと盗み見た。

　細い銀のネックレスが、ピンクがかった白い胸元をエロティックに惹き立てている。『蜂蜜でも食ったのか』と言いたくなるほどグロスを塗りたくった濃いピンクの唇、涼しげな水色のアイシャドーに、濃い紺のアイラインとマスカラが、松本を誘うように色気を滲ませる。
　いつものようにアップで纏めた栗色の髪の、いかにも『ゴージャスな若奥様』といった感じの高級感が、松本の神経を逆撫でる。

（オゲレツ女のクセしやがって・・・。）

　松本は妄想していた。今すぐにでもこの女の香水臭い淫らな服を引きちぎり、泣き叫んで逃げまどうところを捕まえて、罵声を浴びせながら、その甘美な柔肉を心ゆくまで味わってやりたかった。

「あのぅ・・・なんでしょうか・・・」

　麗子の声に松本は我に返った。

「え、ええ・・・香織ちゃんがですね、小林雅美ちゃんという子と仲が良いのはご存じですよね？」

　麗子は不安そうにコクリと頷いた。

「雅美ちゃんのうちに遊びに行ってはダメだと、ママに言われてると言うんですが・・・。それも何回も頼んでるのにいつもダメだと言われると・・・。そうなんですか？」
「は・・・はい・・・」

　麗子は自分自身のことでないことにとりあえずはホッとした。まだせっぱ詰まった状況ではないようだ。しかし、返事に困った。

（どうしよう・・・ゴマカす？適当に何か言っておけば大丈夫かしら・・・）

　松本は、麗子が答えにくそうなのを不思議に思いながら続けた。

「雅美ちゃんの家ならそんなに遠くもないですし、向こうのお母さんも専業主婦でいらっしゃるんですから、そんなに心配するようなこともないと思いますが・・・。」

　麗子は緊張が解けて、気が緩んだせいか、真面目顔で話している松本の表情がなんだか急に滑稽に見えてきた。

「ええ・・・そうなんですけどお・・・」

　麗子は自分の顔がニヤニヤしているのを何とか押さえようとした。チラリと松本を見ると、キョトンとした顔でこっちを見ている。

「うふふっ・・・あ、御免なさい・・・」

　麗子は松本の存在自体が滑稽に見えてきた。松本は唖然とした。

（この女、何が可笑しいんだ？俺をバカにしてんのか・・・）

　ついさっきの妄想が甦ってくる。松本は胃にくるストレスを何とか押さえた。

「あの・・・聞いてらっしゃいます？」
「あ・・はいっ・・。」

　松本が不快感を露わにしたので、麗子はわざとらしく急いでシャンと背を伸ばして見せた。しかし、そんな松本の表情さえも可笑しかった。麗子は過去の経験を思い出していた。

（この人みたいなタイプって、大抵みんな奇声を上げて飛びついてきて、狂った犬みたいにカクカク腰振るのよねぇ･･･。）

　麗子は、松本のその姿を想像して、笑いが込み上げてきた。それは、喫茶店のマスターや、良や西崎のように犯罪慣れした余裕のある男とは、全く別の生き物のようだった。

（まあ・・・それもそれで良かったりするんだけど・・・）

　そんなタイプの男が、目の前で真面目な顔で話してるのが、麗子にはとても可笑しかった。

　松本は腹が立ってきた。この女が今自分に向けている目は、あのとき、学生の頃、自分を嘲笑った女どもの目と同じだった。
『こいつは俺を馬鹿にし始めた』と、松本は直感で感じた。

「松本先生って彼女いるんですか？」

　脈絡のない質問である。目の前の人妻の、あからさまに男をからかうような仕草に、松本はカッとなった。

「そんなこと、今関係ないでしょう？」

　麗子はニヤニヤしたまま口を押さえた。

「ああ、御免なさい、私ったら・・・。」

　麗子は松本をからかって遊んでいた。常にのしかかる男達のプレッシャーは麗子のストレスになっていた。
　逃げ場のない毎日の中で、松本と二人だけの今のこの空間は、かなり久しぶりに自分が主導権を持てる場所のように思えた。
　麗子にとって松本は、完全に自分より『下』の人間だった。

　しかし一方、松本は松本で麗子を見下そうとしていた。夏にプールで見たあの光景は、麗子を見る度に頭に浮かんだ。

　若者達に犯され、小便を浴びせられて悶えていた麗子の表情を、松本は鮮明に記憶している。
　ただ、松本には負い目があった。それは、見下したいと思いながらも頭から離れない麗子の美貌だった。この女を犯したいという欲求だった。
　もしかしたら、自分はこの女の虜になっているのかもしれないという認めたくない感情があった。

　松本が自分の葛藤と闘っているのを見透かしたように、麗子がモジモジとしだした。

「ん・・・うん・・・」

　それはまた、異常なほどにエロティックなフェロモンをまき散らす仕草だった。
　意思とは無関係に下半身が反応するのを、松本は負けまいと押さえつけた。

「ゴホン！・・・どうかなさいましたか？」

　松本は、自分が呆れていることを相手に分からせようと、わざと頭をボールペンでポリポリと掻いて、苛立たしげに言った。

「あの・・・」

　モジモジしながら前屈みに立ち上がった麗子の胸元に、松本は一瞬釘付けになった。

「・・・おトイレ行ってきても、よろしいですか？」

　麗子の、色気たっぷりのいやらしい表情に松本はドキリとした。一瞬頭の中で、『我慢しろ、メス豚！』とか、『俺の前でして見せろや！』という欲望の怒号が響いた。
　松本は必死で平静を装った。

「・・・どーぞ」

　麗子は毛皮のコートを脱ぐと、媚びるような薄ら笑いを浮かべて教室を出ていった。