１　逃避

　松本はアパートの自分の部屋の前で目を覚ました。キョロキョロと辺りを見回し、暫く座り込んだまま記憶を反芻していた。　

（夢？・・・いや違う・・・）

　空が青かった。麗子はどうしているだろうか。香織は幼稚園に行っているのだろうか。

松本は腕時計を見た。

「九時・・・か・・。」

　園長の事を思い出すと、出勤する気にも、欠勤の電話をする気にもなれなかった。松本は、ため息をついた。

　三日間、幼稚園を無断欠勤した。それでも頭の中の空虚感は全く変わらなかった。幼稚園からも連絡はない。

　（そうだ・・・もう、あの女を犯そう・・・）

　どうでも良くなっていた。どうでもよくなった全ての中で、どうでも良くないのは麗子の身体だけだった。というよりも、この空虚感を拭うにはそれしか考えられなかった。

　松本は身支度もろくろくせずに体を引きずるように部屋を出た。

　閑静な高級住宅街。今日も空は青い。その青空の下をとぼとぼと歩いていく。

　麗子という存在が自分にとってなんなのか、松本は考えていた。天使なのか、悪魔なのか・・・。

（あの身体を犯せばその答えは出る。）

　松本の考えは、結局はそこに落ち着くしかなかった。

　麗子の家の前についた。旦那が社長なだけあって、立派な家である。
『高級住宅街のど真ん中に生活する人々』。松本は自分だけが敗者のように感じた。

　何のためらいもなく呼び鈴を鳴らす。しかし返事はなかった。松本はドアノブをガチャガチャと回してみた。鍵がかかっている。
　裏へ回った。雨戸も全部閉められている。昼の一時だ。松本はいやな予感がして、隣の家のベルを鳴らした。
　
「はい。」

　スピーカーから女の声が聞こえた。

「あの・・・お隣の山下さんちなんですが・・・」
「山下さんならお引っ越しされましたよ。昨日。」

　松本は愕然とした。頭の中が真っ白になる。山下は幼稚園に向かって走り出した。

２　男

　麗子はやっと引っ越しの荷物を片づけ終わると、部屋に座り込んだ。

（とうとう引っ越す羽目になっちゃった・・・香織ちゃんゴメンね・・・）

　香織が親友と別れることになったのが不憫だった。香織は隣の部屋ですやすやとお昼寝をしていた。

　麗子はこれを機に、大人しくするようになった。服装もなるべく地味な物にした。しかしやはり、日々欲望は襲ってくる。その板挟みのストレスが溜まるに連れて、頭痛が起こるようになった。

　引っ越して数日後のある日、麗子は電車に乗っていた。外の景色はすっかり秋模様になっていた。

　駅に停まると一人の中年男が乗ってきて麗子の正面の座席に座った。麗子は何とはなしにその男の顔に目をとめた。

（このおじさん・・・何処かで見たような・・・）

　六〇代くらいのその男は麗子をじっと見ている。

　突然、激しい頭痛と共に麗子の頭の中にある『情景』が浮かび上がった。

（何？・・・今の・・・）

　麗子は息を呑んだ。

「！！」

　それをきっかけに膨大な記憶が一気に麗子の脳に流れ込んだ。

（ああっ！！・・・・）

　それはフラッシュのように次から次へと麗子の頭の中を渦巻く。麗子は割れそうな頭を押さえた。

（・・・あの男・・・）

　『その』男が立ち上がるのが見えた。視界にもやが掛かっていく。麗子は気を失った。

３　記憶

　麗子は失った意識の中で、忘れ去っていた深い記憶を辿っていた。痛みはもうない。

　父の記憶があった。厳格な父だった。地主の家系で、代々土地を転がして稼いでいた。父はいつも庭で新聞を読んでいるだけなのに生活は何不自由無かった。

　麗子は小さな頃から日本舞踊の家元である父に礼儀作法をたたき込まれた。家元といっても、弟子はいなかった。
　二つ離れた妹がいたが、麗子が物心ついたときにはすでに母はいなかった。

　フラッシュのように視界が弾けたかと思うと、次にサングラスを掛けた中年の男が出てきた。

　６，７才だろうか。その頃、麗子はその『おじさん』に月に一回ぐらいの周期で沢山の飴を貰っていた。ずっと小さいときからだった。厳しい父しか知らない麗子にとって、そのおじさんはとても優しい人に見えた。
　ただ、そのおじさんは、『このことは絶対にお父さんに言っちゃダメだよ』と毎回念を押した。
　麗子は言わなかった。厳しい父に対して、余計なことを言うのは恐かった。
　麗子が小学五年生になると、おじさんは現れなくなった。

　だんだんと記憶が鮮明になってくる。思春期の頃だ。

　麗子は身体の発育が早かった。中学に入ったばかりでも高校生に間違われるほどだった。それと共に性への目覚めも早かった。しかし、厳格な父の目が光り、恋人どころか異性の友達さえ作ることは出来なかった。
　麗子の性への興味は、日増しに強くなっていった。このころにはもう、日課のようにオナニーに励んでいた。

（そう・・この頃はそれが唯一の愉しみだったわ・・・）

　麗子の心が自分の記憶をたどりながら呟いた。あまりに懐かしかった。麗子は味わうように自分の記憶を眺めていた。

　高校生になると、最早周りが無視できないほどの色気を、麗子は放っていた。二つ年下の妹も美人で男の子に人気があった。
　妹は父に反抗して結構好き勝手やっていたが、麗子に対しては素直ないい子だった。それだけに麗子は、両方を裏切らないように、自分の欲求を押さえ込んでいた。

「ん・・・うん・・」

　麗子の前に朧気な景色が見えた。暗い部屋に蝋燭が沢山立っている。催眠をかけるようにゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりの中に、何人かの男が麗子を取り巻いて胡坐をかいて座っている。

（現実？・・・・）

　麗子ははっきりしない意識の中で、自分が縛られて横倒しにされていることを知った。
　

４　陰謀

「ん・・・誰？・・・」

　麗子は朦朧とする意識のまま、真ん中の男に話しかけた。電車の中の男であった。

「起きたか？・・・まだ頭がはっきりしないだろう。まあ、そのまま俺の話を聞け。」

　男が落ち着いた声で言った。

「初めに言っておこうか、俺がお前を創った。お前は、俺の手によって創られたのだ。」

　男の言っていることは不可解だった。しかし麗子に反応する力はない。
　
「おっと、自己紹介がまだだったな。俺は田所という。隣の男は隆二。俺の右腕だ。」
　
　男の隣に座っているのが、いつか高校の前で、麗子に過去のことを仄めかした青年であることに、麗子は気がついた。

「俺はお前の母親を知っている。いい女だった。容姿端麗で身体も最高だった。俺達が出会ったときお前の母はすでに人妻だったが、どうしても諦めきれなかった。」

　麗子は半分夢の中で話を聞いていた。しかし不思議なことに、この田所という男が嘘を言っているとは思わなかった。ただ、その話には全く現実味がなかった。

「俺達はある『神』を信仰している。その教えの中ではいい女を犯すことが『徳』となる。神が、最高の女を求めていらっしゃるからだ。
　俺達はお前の母をさらい、祭壇の前で何度も何度も犯し、至上の快楽、つまり『幸福』を得た。しかし、いくらいい女といえども年を取る。最高の女だと言える期間は限られている。俺達はまた代わりを捜さなければならなくなった。
　その時俺は閃いた。『この女の娘を後釜にすればいいのだ』と。だがお前はまだ生まれたばかりだった。最高の女に成長するまで十七、八年はかかる。そこで俺は考えた。当時俺は三十半ばだった。十七、八年待ったとして、この娘がおそらく俺の最後の性奴隷になるだろう。ならばその娘を、この手で、人生をかけて最高の女に育ててやろうと。『ただ男の為だけに存在する完璧な性奴隷に作り上げよう』とな。」

　田所の話はキチガイじみていた。しかし男は至って冷静に話を続けた。
　
「俺は綿密な計画を練った。この計画を実行するためには、膨大な時間と労力が必要になる。仲間の中から俺の手足になりそうなやつを慎重に選んだ。その一人がお前の父親だった男だ。」

　麗子はハッとした。意味がわからないまま、しかし、雷に打たれたような衝撃を感じた。

「もちろん本当の父親ではない。由美子・・・お前の母親だが、その亭主の元から赤ん坊のお前をさらってきたのだ。二年後にはもう一人別のところから女の子をさらってきてお前の妹にした。
　妹を作ったのは布石だ。人間は守るべきものがあると自分を殺す。それが暴走の歯止めにもなり、また、我慢することによって、明るみに出ない心の闇が育ち、その行為に対して没頭し、熟練していくことにもなるかもしれないと思った。
　俺はその、日本舞踊の家元の家系だった男にお前を預けて、まず、徹底的に厳しく育てさせた。立ち居振る舞いの美しさは自然に出なければ意味がない。そのために徹底的な躾をさせた。
　そして俺はある薬を作った。それは一種の麻薬を混合したものだったが、成長過程の女子に飲ませると、女性ホルモンを刺激して早熟になる。そしてさらに、脳の中枢にも影響して、性欲に対する興奮によってアドレナリンを大量に分泌するようになる。」

　田所は、『ニヤリ』と残忍な笑いを浮かべた。

「アドレナリンというのは、その辺で売っている『危ないクスリ』の何十倍もの麻薬効果を発揮する『脳内麻薬』と言われる分泌物だ。誰でも持っていて、自分の欲望を心から満たすと分泌してその能力を格段に上げる。それをお前の場合は性行為に限られるようにする必要があった。
　俺はその薬を作り、飴玉に混ぜて定期的にお前に与えた。将来、性的興奮を経験したが最後、麻薬のように逃れられない快感に、性欲を貪り続けるしかないようになるというわけだ。それと同時に父親に内緒にするように言い聞かせることによって、暗い背徳感の中にこそ潜む本当の快楽の感覚を刷り込んだ。」

　麗子は思いだした。確かに自分は男から『飴』を貰っていた。

（あのサングラスのおじさんはこの男だったのね・・・）

　田所は麗子が徐々に話を飲み込み始めたのを確認して、続けた。

「中学生の時が一番気を使った。とびきりの美女で、中学生離れした色気を発するお前を、周りの男が放って置くわけがない。しかしそんな中でも、恋愛感情の芽生えだけは何としても避けたかった。
　恋愛感情というものは、特定の誰か一人が対象になる。俺はお前を世の中の男という男達の奴隷にしたかった。
　俺はお前の親父に更に目を光らせるように命じた。どんなに徹底的に抑圧しても暴走は起こすまいという確信があった。
　早熟な身体のせいでいつも大人扱いされていたお前は、俺の予想以上の落ち着きを持っていた。性への興味は膨らませても、決して行動には移るまいと思った。
　抑圧は想像力を高める。そこで行動さえしなければ妄想はどんどんと大きく、マニアックになる。どうだ？憶えがあるだろう。お前は毎日毎日、自分で体を慰めていたはずだ。
　俺はその抑圧のレベルを、善悪の判断のつかないところまで高めたかった。それが弾けたとき、お前は普通ではない歪んだ性欲の世界に没頭する。その本能の中に恋愛感情など入り込む余地はない。俺にはその確信があった。
　高校生になっても抑圧は続けた。そしてついに記念すべき日がやってきた。高校一年の夏・・・憶えているか？お前は神社の茂みで犯されたのだ。」

　麗子の朦朧とした頭の中で、蝉の声が鳴り響きはじめた。