第一章 麗子

　暗がりの中に、真っ白い女が一人いやらしく身体をくねらせ蠢いているのを、外灯が捉えている。
　麗子は目を開けなかった。ひたすらその快感を貪った。
　最早『これで犯されても本望だ』という思いが神経を快楽の一途に向かわせていた。脳の中がぐるぐると回っている。

（誰でもいい！・・・誰でもいいから私を犯して！！・・・）

　麗子は妖艶な仕草で玩具の強烈な責めを堪能し続けた。

　―話は、二週間前にさかのぼる―

１　麗子

「完璧だわ・・・」

　麗子は身体を左右に大きくねじりながら、つぶやいた。
　鏡の中の自分。その真っ白い裸体の滑らかな曲線の美しさに麗子は陶酔していた。ずっと理想に描いていた美しさが、そこにあった。

　ダイエットを始めて一年・・・。まさか本当にここまで出来るとは思っていなかった。執念だと思った。このダイエットにはそれだけの理由があった。

　麗子は満足そうに自分の体を見回していたが、脳裏に浮かんだその暗い渦に気がついて、視線を落とした。
　一年前・・・そして二年前・・・。何度思い返しても記憶はそこで途切れている。

（・・・いつもの事ね。）

　記憶喪失だった。麗子の記憶は二年前の、病院の真っ白い壁からしかない。

　特に気にしているわけではなかった。思い出せないならたいした記憶ではないのだろう。それにもう手は尽くした。どうにもならないことばかりに気をとられている場合ではない。
　記憶が戻ろうが戻るまいが、これからの人生を生きていかなければならないのだ。そっちのほうが何倍も重要である。

　これから先、何からどうやっていけばいいのか。それを考えなければならない。麗子は頭を振って不安を拭い去った。

「焦ること無いわ・・・。とりあえず、ゆっくり考えればいい・・・。」

２　記憶

　二年前・・・。現在二十二歳の麗子の記憶はそこからしかなかった。一番初めの記憶は、白い病室である。

　窓から外を眺めていた。そのときに自分が何を考えていたのかは憶えていない。その風景はずいぶん長く続いた。

　だんだん色んなものを見るようになった。正確に言えば、見ているものを『理解』するようになった。自分の手足、点滴のボトル、コップ、水・・・。そして、たまにくる看護婦さんが、実は自分に向かってしゃべっているのだということに気が付きはじめた。

　そこからの回復は早かった。麗子は日を追うごとに自分の置かれている境遇や、現在の世の中のことを理解した。しかし、記憶はなかった。

　カルテを見て、自分の名前や年齢は分かったし、理解できた。『山崎麗子、二十歳、交通事故による心障害』。しかし、一年前に自分の身に起きたという交通事故や、それ以前の出来事は、どうやっても思い出せなかった。

　麗子は鏡を見た。ぽっちゃりと太った自分の姿が映る。

（私、いったいどんな人生を歩いていたのかしら・・・。）

　ただ、麗子にとっては、記憶は二の次だった。まず、これからどうすればいいのか、まるで見当がつかなかった。病院代は、退院してからの生活は、どうしたらいいのか。

　しかし、それも時が立つにつれて、だんだんに見えてきた。保険会社の人が来て、父の保険金が下りるといわれ、その額から、かなりのんびり考えていられることが分かったのだ。

　麗子は退院すると自分で就職口を探し歩いた。
　家もなかった。自分が住んでいた家は、事故に遭う前に父によって売りに出されていたという。麗子はその金も受け取った。病院の院長先生が不憫がって、住居と働き口を世話してくれるといったが、麗子は断った。

（これから一人になるんだから、なんでも一人でやらなきゃ・・・）

　と思った。いわば自分は、路頭に迷って金だけはたんまり持っている『世間知らずの子羊』である。人に関われば、つけいられる可能性は十分にある。

　事故に関しては分からないことだらけだったが、両親の記憶も無いせいか、あまりショックはなかった。それよりも、社会復帰しなければという焦りのほうが強かった。

　麗子はある会社の事務の仕事に就いた。運転免許も取り、車も買った。無口で、人との関わりを嫌ったが、よく働き、気が利くので社内での評判は悪くなかった。
　生活も安定していた。女が一人で生活するのに、それほど大金は必要ない。会社の給料だけで十分補えた。持っていた大金は貯金し、必要なときにだけ使うようにした。

　やっと社会復帰ができた麗子だったが、一つだけ、病院にいたときから持ち続けている大きな不安があった。

　ある日、麗子は職場の女友達に、お茶を持っていった。
　いつもの仕事だった。コンピューター関係の仕事だったが、突出した技術の無い麗子にできることは限られている。特殊な技能を持っている人間の後押しをするのが、さして頭の良くないもの達の仕事である。

「麗子ちゃんてさあ、彼氏いるの？」

　技術者の女子社員は内緒話をするように麗子の耳元で言った。

「いないわよ。そんなの。」

　麗子は軽く笑いながら答えた。

「麗子ちゃんてさ、仕草とかすっごい女らしいっていうかさあ、いい感じじゃない？姿勢とかもすごく綺麗だし。ちょっと痩せたらすぐオトコなんてできるのに。」

　その言葉に麗子は黙り込んだ

「あ・・・ごめん・・そういうつもりで言ったんじゃないの。うらやましいなあって思ってんのよ。私、がさつだから。」

　麗子は笑顔を返して立ち去った。

『太っている』と言われたことを悪口として捉えて、気分を害したわけではなかった。
　麗子の中にある不安と疑問が顔を出していた。その伏線として、社会復帰をしてから明らかにこの身体に鈍重さを感じているということがあった。
　とっさの自分の動きのタイミングに体が順応してこない。それは、記憶の以前は痩せていて、入院によって太ったのだということを示唆しているとも考えられる。

　仕草に関してもそうだ、自分ではごく普通にしていることだが、きちっと躾けられているのを感じる。
　そして、異性・・。異性に関して異常なまでの好奇心がある。麗子はずっと以前からそれを感じていた。

　自分のその興味の度合いが異常なレベルであるのかどうかは、誰かに相談したことが無い以上分からなかったが、純粋に不安をもよおすほどのレベルであったことは確かだった。そこに、過去の自分を感じていた。

（私はいったいどんな女だったのだろうか・・・。）

　どんなふうに育てられ、どんな人生を送っていたのだろうか・・・。

　麗子はダイエットを決意した。入院する前の体に戻ってみれば、違う景色が見えるという確信のようなものがあった。

　定期的にジムに通い、食事のメニューもきっちりとこなした。
　我ながら意志が強いと思った。これも父、あるいは全く影さえ見せない母の躾のおかげなのか。それとも、記憶に対する執着なのだろうか。

　麗子はダイエットを続けながら、服やアクセサリーなども買い揃えた。好みは派手でエロティックな服ばかりだった。
　今の体型ではとても着ることができないが、逆に、自分がこのような趣味であるということは、以前はそれなりのスタイルをしていたのかもしれない。

　麗子はそれらの派手な服をレジへ持っていくのに躊躇したが、それが自分の好みであるならば、逆らうべきではないと思った。ただ、完全に目標のスタイルに変身するまでは、絶対に着ないと心に決めていた。

　かくして麗子は、目標どおりのダイエットに成功したのだ。

３　新しい世界

　麗子は今まで着れなかった露出の激しい服を着て街を悠々と歩いた。さすがに恥ずかしさはあったが、目標を達成した今、それも快感の一つだった。
　男も、女もみんなが振り返る。気分がよかった。というよりも、やっとすっきりしたという表現のほうが正しい。これが本来あるべき姿のような気がした。

　中心地を歩くとしばしばスカウトにも声をかけられた。ほとんどがアダルトビデオやキャバクラ嬢だったが、それは裏返せば麗子の魅力が男を惹きつける強い力を持っていることの証であるような気もして、悪い気はしなかった。

　会社にはいつものように地味な格好で行った。普段おとなしい麗子は、いまさらがらりとイメチェンして騒がれるのも避けたかったし、やはり恥ずかしかった。

　麗子は毎日のように自慰にふけった。それはダイエットする以前からのことではあったが、ダイエットしてからは更にエスカレートしているように感じる。
　自分を見る男達の目が、明らかに違う。その淫らに濁った視線が麗子の身体にしばしば火をつけていた。その『目』の記憶を反芻しながら自慰にふけるのが麗子の日課だった。

　自分の中に、どす黒く、いやらしい本性を感じる。それを否定するつもりは毛頭なかった。
　一人部屋で何をしようが、他人に迷惑をかけているわけではない。しかし、そのいやらしい性癖が、常に行為のエスカレートを望んでいることを、そして、いまや自他共に認める美しさを手にした麗子にとっては、それは自分が望みさえすればいくらでも現実にできてしまいそうな妄想だということを、麗子は感じていた。

　だが、当然現実にはできない。麗子の頭の中で渦巻く欲望の妄想は、あまりにも常識社会から逸脱している。
　そう思いながらも日増しに膨らんでいく欲望に、麗子は暗い不安を感じていた。