４　迫りくる欲望

　街の中、電車の中、会社の中・・・。麗子はいたるところで男の視線に反応し、前日の自分の痴態を思い出してしまう自分に苦しんだ。

　（今、この人の前であんなことしたら、いったいどうなるんだろう・・・・。）

　麗子はそのたびに頭を振って妄想を追い払った。

　『社会人』である。常識に外れた行為をすれば、一瞬にして社会から抹殺され、まともな人生を送ることは出来なくなる。しかし、沸々と沸き起こる漆黒の欲望は、日増しに強くなっていく。
　麗子はいつか爆発してしまうかもしれない、自分の計り知れない欲望に怯えた。

　麗子は毎晩のように街をうろつき、男達の視線を浴び、部屋に帰って自慰に励んだ。
　それでも物足りなくなってくる。身体が、脳が、新しい快感を求めてくる。だが、社会の常識という範囲内では、できることなど限られていた。

　麗子は追い詰められていた。このままではきっといつか、公衆の面前でとんでもない行為をしてしまいそうだと思った。
　苦しかった。なぜなのかと考えてみても空しいことだった。記憶が無い以上過去を振り返ってみることには限度があったし、たとえ何らかの原因が見つかったとしても、今現実に体の中で沸き起こっているものを止めることができるとは思えなかった。
　
「どうにかしなきゃ・・・」
　
　麗子は危険だとは思いながらも何らかの方法を考えなければならなかった。

『ばれなければいい』。その考えに達したとき、麗子の中で熱いものが一気に込み上げた。

　それは気が狂いそうなほどの感覚だった。のどから手が出るほど欲しかったものを遮二無二手に入れる快感と、その裏にある綱渡りの恐怖が、調和できないまま激しく渦巻いて、麗子の体の中をかき回しているようだった。

５　真夜中の痴態

　金曜日、麗子は会社から帰ると、そそくさと準備を始めた。緊張していた。

　麗子は襲い来る性欲に対して、『逃げ道』を作ることにした。日常以外のところに性欲を吐き出す場所を作るしか、この強力な性欲を自分の生活する場所から隠す方法がみつからなかった。

　ビニール袋に毎日少しずつ水を入れていくのと同じで、どこかに穴をあけて水を抜いてやらなければ、いつかは破裂してしまう。そのときだけでも発散すれば、きっと一時的には収まるだろう。とにかく、発散しなければ、すぐにでも破裂してしまいそうなほど、淫らな欲望は飽和状態になっていた。

　『金曜日に決行する』と決めてからの毎日はとにかく落ち着かなかった。クリスマスを指折り数える子供のような期待感と、プレゼンを控えた企画者の、胃にくるような重い緊張が麗子を襲い続けた。

　そして、とうとう『金曜日』は来た。

　午前一時。麗子は用意していたバッグを持って車に乗り込むと、駐車場を出た。

　隣町へ車を走らせる。麗子は今日の舞台に、隣町を選んだ。さすがに自分の生活圏は避けなければならない。もっとも、そのほうがよりスリリングだという魅力もあったが、とにかく『ばれてはいけない』のである。

　明かりが消え、静まり返った商店街。麗子はその、とっくに明かりが消え、店主も寝静まっているだろう酒屋の前に無造作に車を止めた。

　夜中の二時。歩いている人はおろか、車の音さえも聞こえず、静まり返りながらも定間隔で設置された街灯に照らされた商店街は、いかにも寂しげで彩が無い。

　麗子は車のルームミラーを見ながら、化粧を直し始めた。
　水色のアイシャドー、ピンクの頬紅、そして口紅・・・。まるでそれが仕事であるかのように手際よく作業を進める。
　みるみる変わっていく自分の表情に、麗子は心臓が尻上がりに高鳴っていくのを感じた。

　服を脱ぐ。街灯の光がわずかに差し込んで麗子の透き通るほどの白い肌を青白く照らす。派手な化粧をした美女が、裸体をくねらせながら狭い車内で蠢くそのさまは、エロティックなことこの上なかった。が、それを見ているものはいなかった。

　麗子はやっとこさ着替え終わると、運転席から商店街をキョロキョロと見回した。
　商店街はそんな麗子に興味を示さず、何事も無く平和に静まり返っている。
　その、慎ましいほど平和な場所の平和な時間を、自分の黒く穢れたエロスによって汚すのだと思うと、罪悪感が込み上げた。

　心臓が緊張に締め付けられる。常識人ではない、社会人としてあるまじき行為。明るみに出れば、二度と元の生活ができなくなるだろう危険行為。その葛藤は当然消えうせたわけではない。

　しかし、今から考え直して引き返すことは不可能だった。最早喉元まで沸きあがっている漆黒の欲望がそれを許さない。
　思考はもう、これから起きる未知の出来事への期待に埋め尽くされていた。

　ゆっくりとドアを開ける。初夏の生暖かい風が服の隙間から体中に流れ込み、否応なくそこが妄想ではなく現実の世界であることを麗子の意識に知らしめる。心臓が壊れそうなほどドキドキと高鳴る。

　水色のシースルーのハイヒールサンダルを地面につく。麗子はゆっくりと外へ出た。

　外気という、自分の意思の及ばないものに全身を包まれる。

　よれよれに伸びた真っ白いＴシャツからは、雪のように白い肌が、胸元も背中も無防備極まりないほど露出している。
　乳首がツンと浮き出、その点から下に向かってできている細いしわが、その布の柔らかさを示している。
　下は白い紐に十五ｃｍほどの幅の布を前と後ろにつけただけの姿である。もちろん、ノーパン、ノーブラだった。

　立っているだけでも完全に太ももは露出し、美しい脚がにょっきりといやらしいラインを顕わにする。
　そんな『真っ白なボロキレ』のような服に対して、あまりにも似つかわしくないはずの金のイヤリング、ネックレス、ブレスレット、アンクレットが、なぜか妙にマッチして麗子の色気を惹き立てる。

　その服の中で蠢く白い肌、アップでゴージャスに纏めた栗色の髪、娼婦のような化粧、テラテラとぬれた光を放つ濃いピンクの口紅、そして少し恥じらいを見せる頬が、殺風景な夜の街に最高のエロスを醸し出していた。

「最後の仕上げ・・・・。」

　麗子は緊張した声で小さくつぶやくと小瓶のふたを開けた。
　オイルを全身に塗りたくる。肌は見る見るうちにギトギトとぬめりのある卑猥な質感を出した。
　そして香水を、百メートル先でも香るのではないかというほど大量に吹き付けると、顔を上げた。

　『犯されるかもしれない』と当然考えていた。麗子はそのためにピルまで服用していた。
　超えてはならない一線を設けては、自分を捨てて未知の世界に飛び込むことは到底できない。その麗子の考え方にとって、むしろ避妊は一番初めにすることであり、最後の用意ではなかった。
　『そこまでするか』ではなく、『そこから始まる』のだ。

　麗子は小洒落たハンドバッグを抱え、ワインレッドのグラデーションがいかにも今時でケバケバしいゴーグルをかけると、意を決して薄明かりの商店街を歩き始めた。

　コツコツとヒールの音が夜の静寂を裂く。その音のあまりの大きさに、心臓の鼓動が高鳴る。歩くたびに下半身の長い布がヒラヒラと舞い、脚はもちろんのこと、恥部までも露出しそうになる。生暖かい風が服の中を通り、体中を舐める。

「ああ・・・」

　麗子は声に出して感嘆のため息をついた。なんともいえない開放感だった。あれほど葛藤し、勇気を振り絞った露出行為による欲望の解放も、誰もいなければ妄想と変わりない。麗子の恐怖は和らいでいった。

　思い切り色っぽく腰を振って歩いてみる。金のアクセサリーがチャラチャラと鳴り響く。

（どう？みなさん。エロくていい女が歩いてるわよ・・・。）

　真夜中の商店街。誰も見ていない薄暗いアスファルトの上を、美しくいやらしい女が静かに街灯から街灯へ彩を運んでいる。
　麗子はその開放感とナルシズムに陶酔していた。女王にでもなったつもりだった。誰一人、自分に逆らえないような気がした。

　『飛び込む』ことは勇気が要る。恐怖ももちろんある。しかし、飛び込んでしまえば、それまでの恐怖は『自信』へと変換する。麗子は悠々と歩いた。

　そのとき、後ろから車の音がした。

「！」

　麗子はドキリとした。一瞬にして血の気が引いていくのが分かる。
　振り向くことはできなかった。しかし、みるみるうちにライトが自分の影を道路に映し出していく。
　
（ああ！・・・）

『見られた』と思った瞬間に、麗子の妄想は一気に現実に引き戻された。職場、電車内、『常識社会』の景色が麗子の頭の中に一瞬にして蘇る。『車に乗っている『社会人』は、自分の姿を見てどう思うだろう』。

「はぁあ････」

　それを考えると気が狂いそうなほどの羞恥が全身を襲う。それまでの『自信』などは、いとも簡単に砕け散っていた。

　麗子は力の入らない足取りで、それでも何とか歩道の端まで辿り着くと、できるだけ身を隠そうとする本能から、閉まった店のシャッターにぴったりと張り付き、肩を抱いて体をすぼめた。

（どうしよう！・・・どうしよう・・）

　緊張と、自分のしている変態的な行為に対する深い後悔に悲鳴を上げそうになる。
　今まで、想像の中だけだった感覚である。人に見られているという『現実』の恐怖を、今、麗子は文字通り『肌』で思い知っていた。

（ああ！・・・ああ！・・・）

　心臓が張り裂けそうだった。

　車のスピードは、四十Ｋｍ／ｈほどだったが、麗子には信じられないほどゆっくりに感じられた。ライトが近づけば、麗子の影はより一層はっきりと、彼女の痴態を晒しだすはずである。
　
（ああ！！・・・・）

　麗子はおかしくなりそうだった。ふしだらな自分の中身までも、余すところなく照らし出されているような気がした。

「！？」

　そのとき、麗子の中に不思議な感覚が芽生えた。なにか、すーっと恐怖が抜けていく。『全てを諦め、なすがままに・・・』。麗子は意識が遠のくような気がした。

　車は何事もなく通り過ぎた。

「はあ・・・ああ・・」

　麗子はその場に座り込んだ。こんなに緊張したのは初めてだった。目の前にいやらしく露出した、オイルでギラギラと光る自分の太ももが見える。

「はっ！」

　麗子は反射的にそれを隠した。立ち上がり、周りをきょろきょろと見回す。

　誰もいなかった。車も既に、音さえも聞こえなくなっていた。元の静寂の中で、動揺しているのは麗子唯一人だった。

（何やってんのかしら・・・私は・・・）
　
　自分で好き好んでこんないやらしい格好をしていながら、情けなく縮こまった自分の姿を想像して、麗子は言い様のない後悔を感じた。
　なんと、卑屈で醜い姿だろうか。それはあれほど毎日のように想像した、完璧な美しさを誇り、妖艶に悶える自分の姿とあまりにもかけ離れていた。

（もっと・・・毅然としてないと・・・。）

　麗子は気を取り直した。気の狂いそうなほどパニックになったときに、この行為を後悔した自分はもういなかった。
　むしろ、ここまでしておきながらいまさら後悔した自分が腹立たしかった。そしてなにより、さっき得た言いようのない感覚が、麗子の脳にくっきりと残っていた。

（あの感覚は何だったのだろう・・・）

　あの、すーっと楽になる感覚。簡単に言えば、『開き直った』ということなのだろうが、気になるのはその先だった。
　開き直った先に、とてつもなく深く、想像できない感覚が潜んでいたのを麗子は感じた。それは今まで味わったことがないほど解き放たれた『快感』だったように思えた。

　『その先が見てみたい』と麗子は思っていた。