１　黒い蜜

　あれから、二週間経った。職場では企画の成功の打ち上げパーティーの話で盛り上がっていた。麗子の所属する部署のプロジェクトが大成功し、社長に表彰されたのだった。
　本来人付き合いが苦手な麗子ではあったが、今回は参加することにした。

　溜め込んで悩んでいた欲求を解放したせいで、日常に余裕ができたのかもしれない。もしくは異常行為をした事に対する無意識の罪悪感から、その分の社会性を補おうとする意識が働いたのかもしれない。
　あの日以来疼きは納まり、日常の中に妄想が顔を出すことはなくなっていた。しかし、あの感触は忘れがたいものだった。

　結果的に、犯されることもなく一人上手に終わってはしまったが、麗子にはそれでも十分満足だった。
　信じられないほどの臨場感は、新鮮な感覚であり、驚きの連続だった。実際麗子は今までに感じたことのないレベルのエクスタシーを体験したのだった。

　ただ、『一度味わってしまった』ということは大きな問題でもあった。あの極限のスリルによるエクスタシーは、家でする自慰行為とは比べものにならない。
　今後再び欲望が襲ってきたときには、次は、一日さえも我慢できないかもしれないと思った。そして、それは更にエスカレートしていく可能性を十分に含んでいるのだ。

　麗子はそこに、もっと大きく言えば、自分の将来に対して暗い不安を感じずにはいられなかった。
　
　仕事が終わると、早速みんなで夜の繁華街へ繰り出した。

　予約したバーは、なかなか洒落た感じだった。暗い店内に赤や緑の小さな光が、ぼぅっと灯っている。バーテンの居るカウンター内だけが明るく照らされ、客がウエイターを呼びやすいように配慮されていた。
　店内は、トーンの低い上品な話し声と、シャンソンが流れ、落ち着いていた。
　麗子達は八人で、ボックス席に座った。男五人、女三人だった。

　外で酒を飲むのは久しぶりだった。麗子もすぐにフワフワと微酔いになり、話に花を咲かせていた。

　男性社員の一人が、酒を取りにカウンターへ向かったまま、バーテンとなにやら楽しそうに話している。話が一段落付いたのか、こちらのボックスを振り向くと、男性社員は「山崎君」と、麗子を手招きした。
　
「あら、なにかしら。」

　麗子は席を立ち、カウンターへ向かった。

「まあ、座りなよ。」

　彼は自分の隣へ麗子を座らせた。麗子はわけも分からず、言われたとおりに座り、男の言葉を待った。

「しかし、あれだね。どう思うよ。最近の会社の態度っていうの？」

　何かと思ったが、特にどうでもいいような話だった。

　男は三〇代半ばで、麗子の部署の、いわば兄貴分的存在だった。仕事はできるが、自分を過大評価するところがある。熱い男のふりをしているが、実は計算高く、狡猾であることは、部署の誰もが知っていた。あまり麗子の好きなタイプではなかった。
　
「はあ・・・・そうですね・・・」

　麗子は視線も合わさず、適当に相づちを打っていた。突然膝に鳥肌の立つ感触を憶えた。

「きゃっ！・・・」

　麗子は驚いて脚を引いた。男はニヤニヤとしている。どうやら彼に脚を触られたようだった。男性社員はだいぶ酔っぱらっている。

「そんな顔すんなよ。ね、ちょっといいじゃん。」

　彼は再び手を伸ばしたが、麗子の手に拒絶された。

「ちょ、ちょっと、ふざけないで下さい。」

　麗子は相手に不快感を与えないよう、愛想を混じえて言った。どうでもいい相手とはいえ一応職場の先輩である。明日からも会社で顔を合わせるのだ。

　麗子は会社に行く時はなるべくおとなしい格好をして行っていた。化粧も薄くし、香水も付けなかった。それに普段あまり愛想を振りまくタイプでもなかったので、こんなことをされる隙はなかったはずだった。

（それがなぜ？・・・）

　彼は薄明かりの中に、或いは麗子の微酔いでゆるんだ表情の中に、彼女の本性の片鱗を感じ取ったのかもしれない。

　彼は、まだにやにやと、諦めきれないように、麗子を見つめている。その性欲を孕んだ目に刺激されて、麗子の中のもう一人の自分がむくむくと顔を出し、熱い緊張がこみ上げてくるのを、麗子は感じた。

（ダメよ・・・そんな目で見ないで・・・）

　ここで自分の本性を職場の人間に悟られてしまうわけにはいかなかった。それこそなし崩し的に全てをさらけ出し、異常性癖の女として坂道を転がるように一般社会から追放されてしまうことになるのは目に見えていた。

「ほんとに、怒りますよ。」

　麗子はなんとかそう言うと、彼から視線を外し、毅然と前を向いた。
　彼は暫く黙って麗子の視線が自分に戻るのを待っていたが、

　「分かったよ、悪かった。」

　そう言うと、諦めたようにボックスへ戻っていった。

　麗子は戻れなかった。発する言葉とは裏腹に黒い欲望が頭を浸食してゆく。その強力さを、身をもって知っているからこそ、じっと鎮まるのを待たなければ気を抜くことができない。酔いも手伝っているのかもしれない。

　暗がりに乗じて、局部に触れてみる。最早、下着を付けている意味など無いというほど、蜜が溢れていた。顔も紅潮しているはずだ。

　（とにかく、一刻も早くここを出なくちゃ・・・）

　これ以上職場の人間と一緒にいることは危険だった。自分自身でありながら、何をやり始めるか分からない。麗子はボックスへ戻ると、バッグを取った。

「すみません、私、そろそろ帰ります。」

　みんなが一斉に麗子を見た。

「え？もう？終電ならまだ大丈夫だよ。」

　男達が残念そうな顔をする。

「ちょっと、用事を思い出したので・・」

　麗子は何としてでも外へ出たかった。今、この欲望を自らの意志でコントロールできる自信がなかった。麗子は自分自身の欲望に、心底恐怖を感じている。

「そうか、それじゃしょうがないな、じゃ、お疲れ。また明日。」
「お疲れさまです。」

　麗子は丁寧に挨拶をすると、足早に店を出た。

２　獲物

　道路に出ると、一つ大きく深呼吸した。

　外の風に当たると少し落ち着いた。やはり、『恥じらう』ことは、それがどんな状況であっても麗子にとって危険なスイッチだった。

　地下鉄に乗りこむ。麗子が住んでいる街までは、二駅だったが、職場の人には誰にも教えていない。

　初めは他人に対する不信感からだったが、今になってみれば、そのおかげで家の周りを知っている人間に彷徨かれず、好きな格好で街へ出かけられる。

　麗子は帰ってから街へ繰り出すつもりだった。オナニーがしたかった。その前に、たっぷりと視姦されたい。それを思うと、結果的に自分の痴態を知り合いに目撃される可能性が低いことは、好都合だった。

　電車を降り、だだっ広い地下通路を横切る。コツコツと急ぎ足の麗子の視界に、浮浪者がちらほらと映った。

（こんなに、いたんだ･･･）

　いつもは時間が早いので気づかなかった。四、五十代の男達が汚らしい格好で地べたに座り、うつむいている。二〇人くらいいるだろうか。

　麗子は、自分の微酔いの心臓の音が、やけに大きくなっていることに気づいた。一度気にすると、どんどん大きくなる。
　この鼓動は、酒のせいだろうか。それは欲望の高鳴りなのではないかと思った途端、更に鼓動は速くなる。恥じらう。恥じらいの中に浮浪者達の影が見える。

（・・・この人達から会社に噂が広まるなんてことは無さそうね・・・）

　一気に身体が熱くなる。黒い性欲が凄い速さで脳を浸食していく。

（私ったら、何考えてんのかしら・・・）

　地元である。知り合いというほどの人間はいないにしても、隣近所の住人とは少なからず顔をあわせるのである。しかし、一回沸き起こった欲望を抑えることは、不可能と言っていいほど困難なことに思えた。頭の中では、すでに段取りが進み始めている。

　麗子は足早に地下通路を抜け、マンションへ向かった。麗子の住んでいるマンションは、駅から歩いて十分ほどである。

　一時間で準備を終えると、急かされるように部屋を出た。さっきとはうって変わった派手な出で立ちで駅へ向かう。

　化粧を変えると人格も変わっていくような気がした。ちょうど、サングラスをかけると気が大きくなるような感覚に似ている。

　最早迷いはなかった。不安を感じれば感じるほど、それと同等の淫靡な期待が膨らんでしまうのである。リスクと快感は比例する。欲望が確実に、そして格段にエスカレートしていることに、麗子は今更気づいた。

（きっと、今度こそ犯される・・・）

　淫らな期待と、背徳への不安に胸が高鳴り、ぞくぞくと鳥肌が立つ。

（・・・ショーの始まりよ・・・）