３　誘惑

　男はふと、階段の方に目を向けた。男の座り込んでいるところから、二〇メートル程の距離にある地上への階段から、駅の中に降りてくる靴音がする。女のヒールの音だ。

　電車など、もう随分乗ってはいないが、あと終電を残すのみの時間であることは、毎日ここで寝泊まりをしている身なら分かる。その終電も、降りてくるものは四、五人いないではないが、乗るものは殆どいない。この時間、構内に人が入ってくることは珍しかった。

　女の足音は、外から構内に降りてくる。コンクリートの支柱や壁などにまばらに散り、それぞれの寝床でくつろいでいる他の仲間達も、階段をじっと見据えている。

　皆、警戒していた。近頃、浮浪者殺しが多発している。例え色気のあるヒールの音であっても、油断はできない。
　　『注意はしてしすぎることはない』。それが安全な場所を持たずに生活するものの、軽んじることの許されないルールだった。

　浮浪者達が見守る中、階段から女が姿を現した。

　身体にピッタリと貼り付き、その美しいラインを浮きだたせる白いニットの長袖は、銀の二重のネックレスをぶら下げた胸元がバックリと空き、丈は短く、程よく鍛えられた腹が見えている。袖にレースのフリルが付いていて、美しい手の甲を上品に隠している。

　スカートは、真っ黒なシルクで、ウエストが緩く、痴毛まで見えるのではないかというほど垂れ下がってはいるが、張り出した腰骨に辛うじて引っかかって、その役目を果たしている。
　それでいて丈は大人が手を広げた親指から中指くらいの幅しかなく、裾に付いた真っ黒なレースのフリルからにょっきりと伸びた白く美しい脚が太ももから完全に露出して、例えがたい色気を醸し出していた。

　男は息をのんだ。ブラウンのグラデーションがケバケバしい縁なしのゴーグル。パーマがかかった栗色のロングヘアーは、ワックスでピッタリとアップに纏められていて、濡れたような質感を出すと共に、大きな細い輪のイヤリングを際立たせている。
　そして男達に緊張を走らせた足下は、薄くシンプルだがヒールのべらぼうに高い漆黒のサンダルだった。そのサンダルの黒を、ピンクのマニキュアと金のチェーンが上品に飾っている。

　頭の天辺からつま先まで、非の打ち所の無い完璧なエロチズムだった。

　水商売の女だと、男は思った。しかし、その辺の『ギャル』に比べると、立ち居振る舞いがモデルのように美しい。きっと、高い女だろう。政治家や企業の会長クラスのジジイの、普通の女じゃ勃起しなくなったモノを、色気とテクニックで昇天させ、生活を潤わせている女だと思った。何にしても、自分には一生拘わることのないレベルの女だ。

　女はその色気を隠そうともせずそこいらを歩き回っている。エロティックな香水の匂いが構内に充満する。終電に乗る様子はない。こんなところで男とでも待ち合わせているのだろうか。

　男は、いや、この構内の全ての男達は、女の不可解な行動から目が離せなかった。

　座り込み、寝転がる汚らしい男達の間を、女は誘惑するかのようにゆっくりと縫って歩いている。嫌味なほど高飛車な歩き方である。
　異様に静まり返った地下の空気は、高飛車女の鋭く、高圧的なヒールの音に緊迫していた。

　ふと、その色香にあてられたように、スキンヘッドの男が一人立ち上がった。昔、作業中事故に遭い脳に障害を持った、よしおという三十前後の男だった。

４　視姦の渦

　麗子は階段から構内に入った瞬間、一斉に男達の視線が自分に突き刺さるのを感じた。

　構内に陰妖な空気が流れている。家を持たない男達は、ざっと見回しても二〇人はいた。

（・・・さすがにちょっと、恐いわね・・・）

　『スタート』が切られたことにバクバクと心臓が脈打つ。しかし引き返そうとは思わなかった。

　（毅然とするのよ・・・高飛車に・・・）

　すねに傷のある者達である。普通に社会に暮らす人間に対して少なからず劣等感を持っているはずだった。毅然としていればいきなり襲ってくるようなことはないだろうと踏んでいた。

　麗子は気を取り直すと、男達の間を悠々と進んだ。

　自分が歩く度にエロスを、フェロモンを振りまいているのを感じる。二度目である。初めての時よりは遥かに気持ちに余裕があった。
　心の中で、社会不適合者である彼らを見下しているということも、緊張を押さえる要因になっていた。しかし、これだけあからさまに男達の前へ出るのが初めてであるのは確かだ。そこに、程よい緊張が生まれている。麗子は男達にわざと誘惑の視線を送った。

　男達は麗子が振り向くと目を逸らした。麗子は自分が優位にいることを確信した。背を向けると、再び尻や脚に凶暴な、突き刺さるような熱い視線が集まるのを感じる。

（ああ・・・私ってホントに色っぽいのね・・・みんな見てるわ・・・）

　淫らな優越感とナルシズムによる胸の高鳴りに身体が心地よい緊張を覚える。しかしそれを悟られてはいけない。毅然とした態度で相手に『劣等感』という歯止めを与え続けるところが境界線である。それを保っている限りはこの『ゲーム』の主導権は麗子の手の中にあるのだ。

（・・・どう？なかなか見れないでしょ、こんないい女・・・）

　麗子は自分に酔った。汚らしい男たちが美しい自分の体を羨望のまなざしで見ている。その光景を客観的に見ることに、喜びを感じていた。ナンセンスな快感が麗子の性欲を増幅させる。

　麗子は場慣れしてきたせいもあって、自分の美しい肢体をひけらかすように調子に乗って歩き回った。

　ふと、一人の男に目が止まった。頭をつるつるに剃ったその男は、麗子と目があっても視線を逸らさなかった。麗子が、淫欲に潤んだ瞳でじっと見つめてあげると、男はよだれを垂らしながらぼうっと立ち上がった。

　麗子はドキリとした。新しい展開に緊張が走る。もちろんその動揺は顔には出さない。

　背は、百八十センチぐらいだろうか、痩せているせいか『ぬう』っと大きく見えた。男は千鳥足で、まるでゾンビのようにゆっくりと近づいてくる。どうやら、知能障害者らしかった。

　麗子は気を取り直すと、平静を装って、かわすように、しかし挑発するようにカツカツとヒールの音を響かせながら、男の横をするりとすり抜けて歩き出した。

　ギリギリまで焦らしたかった。犯される心の覚悟は始めから出来ている。しかし、犯されてしまえば、そこでこのゲームは終わる。
　どこまでこの空気と自分自身の性欲をコントロールし、いかに長く愉しむことができるか、試してみようと思っていた。

　身をかわされて、男はどうしていいか分からないのか、滑稽にウロウロとしながら麗子を見ている。

「うふふ･･･」

　麗子は挑発的に笑った。座っている男達も、歩く度にレースのフリルが揺らめき、甘い匂いを撒き散らす麗子の真っ白い太股を、ただじっと見つめている。

　この張りつめた緊迫感はなかなかに心地よかった。前の時と違って、すでに相手が目の前にいる。一瞬も気の抜けないスリル。
　
（・・・ここで前みたいにオナニーしたらどうなるかしら・・・）

　男達のいやらしい欲望が徐々に膨らんでいくのが手に取るように分かる。
　『この女を犯すとしたら、どれだけ徹底的に惨めに、汚らわしく陵辱してやろうか』。それが分かるからこそ、麗子のテンションも上がった。

　なにしろ、記憶の上では処女なのである。『犯されたとき』といっても、それはあまりにも漠然としたイメージで、具体的な感覚は全く未知数だった。

　もし犯されたとしたら、そこから先は彼らの領域であって、麗子はただ身をゆだねるしかない。つまり、犯されたとき、そこから先の主導権はこの男たちが握るのだ。その先の見えないスリルが、麗子をたまらなく興奮させていた。

　麗子は高まっていく緊張にめまいがしそうだった。客観的に自分を見る。あまりにも非現実的である。自分が自分でない別の人間で、目の前の景色が夢の中のもののような錯覚に陥る。

　現時点ですでに、この前と比べても、格段に行為はエスカレートしている。それを、ある程度の余裕を持って愉しめてしまっている自分のあまりの無防備さに、そしてその無謀を自らの脳に強要する異常な性欲に、麗子は恐ろしさを感じていた。

　男はまたふらふらと近づいてはきたが、触れはしなかった。他の男達も麗子を見たまま動かなかった。麗子の行動に対し、判断が付き兼ねているようだった。

　麗子の頭の中で二つの何かが自分に話しかけていた。一つの声は、『もっとイっちゃえ、イっちゃえ』と言い、もう一つの声は、『こんなバカなことはやめて帰りなさい』と言っていた。
　二つの声は、相反しているようでそうではないことに麗子は気づき始めていた。バカなことをしている自分自身の姿に、麗子は感じているのである。『帰りたい』と思うほど恥ずかしく危険な行為に、性欲が反応してしまうのである。麗子は意を決した。

（もうダメ・・・どうにでもなればいいわ・・・）

　性欲に身体が火照る。しかし、だからと言ってここで痴態を披露すれば、一気に餌食になるだけだった。それでは芸がない。スリルがない。

　麗子は尻を挑発的に振りながら、カツカツとトイレへ向かって歩き出した。男達の舐めるような視線を感じる。そして婦人用のトイレへ入ると、個室へ入って鍵を閉めた。

（ああ・・・もうダメ・・・我慢できない・・・）

　白いパンティーを片足だけ脱ぐと、和式のトイレにドアのほうを向いてしゃがみ込んだ。自分の行動に興奮が鮮度を増す。

　二〇人はいた男達はみんな自分を見ていた。自分がトイレに入って何をするつもりなのか、今まさに、各々の頭の中で想像を膨らませているはずである。
　そう思うと堪らなかった。なぜなら、これから麗子は男達の期待通りの行為をしようとしていたからだ。男達の妄想の中の自分。それはどれほど美しく淫らなのであろうか。

　麗子はバッグから愛用の玩具を取り出し、一度卑猥にしゃぶると、蜜肉に宛がい、スイッチを入れた。
　凶暴なモーター音が響き、緊張で堅くなった身体が、鳥肌と共に走る電撃のような快感に、軟らかくとろけだした。

「ああ！・・あは・・ん！」