今度の客は岩木という老人だった。七十を優に越え痩せている。写真もビデオも撮らない。ただ見るだけだからマスクを使わずに顔を見せてほしいということだった。美紀は承諾した。岩木の前で美紀とセックスをする男性の写真をママはあらかじめ見せてくれた。相手をこちらから選ぶことはもちろん出来なかったが拒否することは出来た。男性は橘（たちばな）といい若かった。写真を見せられたとき、二五歳ぐらいに見えた。ママは言った。
「この子、初めてなのよ」

　実際の橘は写真よりもまだ若かった。涼しげな目元がさわやかな印象を与えた。彼は美紀と目を合わそうとしない。一目で緊張しているのが判る。
「こんな好青年が何でこんなところにいるのだろう」
　美紀はそう思ったが、自分のことを棚に上げている自分がおかしかった。
「頑張ってね」
　ママは橘の肩をポンと叩くと部屋を出て行った。
　椅子から立ち上がると夫より大きかった。一メートル八十近くあるだろう。着やせするタイプなのか、裸になると意外とがっしりと引き締まった体が現れた。

　橘は焦っている。硬くならないのだ。
「口でやってくれんかのー。お礼は十分するで」
　岩木の声がした。
　美紀は迷った。このままでも報酬はもらえる。何より自分から積極的に行動するのに抵抗があった。美紀はこれまでこの”仕事”で相手をする男性を当然好きになれなかった、いや軽蔑していた。しかし、この若い橘には好印象を持った。本当に橘は初めてなのかもしれない。このまま終わっては橘がかわいそうだ。美紀は決心した。目をつむったまま手探りで探し顔を近づけると石鹸の香りがした。ゆっくりと口に含んだ。夫以外のモノを初めて舌と唇で愛撫した。やがて変化が出てきた。いざ変化するとその大きさと硬さが美紀を驚かせた。
「避妊具なしでお願いできるかのー」
　岩木の申し出を美紀はＯＫした。これも初めてのことだ。承諾した自分に美紀は驚いている。

　橘にテクニックはなかった。若さに任せて突くだけだった。美紀はその突きに子宮の奥がうずいてきたが、まだ余裕があった。しかし乳房を鷲づかみにされ、乳首を吸われ始めると余裕が焦りに変わった。男は赤子のように乳首を吸った。こういう時にこれまでの男がしたように舐めたり舌で転がしたりしない。ただチュウチュウと吸った。そして又突いてきた。それが単純に繰り返された。

「どうしよう、感じてる！」
　美紀は必死で自分に言い聞かせた。
「駄目よ、歯を食い縛って。もうすぐよ、もうすぐ終わるわ」
　さっきから男のモノが一番奥にズンズン当たっていたがそのリズムが乱れてきた。
「来るわ」
　男の前後の動きが止まり、ぐっ、ぐっと腰を捻らせながら押し付けてきた。子宮が脈動とザーメンの放出を感じ悦びにうごめいている。美紀は声が出そうになる口を両手で必死に押さえた。
　美紀の胸は激しく波打っている。その豊かな胸に男の顔が埋もれている。その圧迫感が心地よかった。男が上半身を起した。

「終わった……。えッ！嘘よ」
　美紀の上から降りると思った男が再び腰を動かし始めたのだ。美紀はこれまで”仕事中”に目を開けたことがなかった。
「決して開けまい」
　固く心に決めていた。それがこの時、思わず目を開けてしまった。その時、美紀の顔は横を向いていた。目の前に椅子に座っているお客がいる。老人らしからぬギラギラした目で唇をきつく結び上半身を乗り出していた。
　美紀は自分の上に乗っている男の顔を見た。

「いや、止めて！」
　美紀は男の胸を押し腰をくねらせ男から逃げようとしたが反って逆効果だった。男の腰の動きが激しくなった。美紀の中のザーメンを男の肉棒がかき回わす。男の動きにグチョッ、グチョッとイヤらしい音を立てザーメンは逆流してあふれ出しアヌスを伝わった。
「オー、オー」
　いつの間にか足の方にまわり二人の繋がりを見ていた老人は声を上げた。
「イヤーー」
　一度ゆるんだ緊張は取り戻せない。限界だった。美紀は両手を横に広げシーツを鷲づかみにして、首を激しく振っている。
　男は構わず突き立てた。そして胸を大きく掴むと乳首を吸い始めた。
「これ！これでペースが狂ったんだわ」
　
　男が腰を動かすのを止めた。美紀は腰を自分で動かしている。男は目を輝かせると美紀の乳首を吸い始めた。
　二人はクライマックスを感じた。美紀の唇に男の唇が重なり舌が入ってくる。美紀も自分から舌を絡ませた。男の手が美紀の髪をまさぐっている。強く突き続けていた男の腰が止まりケイレンすると美紀の手が男の頭に強く抱きついた。
　しばらくして男の身体が離れたが美紀の身体はまだガクッ、ガクッとケイレンをしていた。

　美紀はベランダで花の手入れをしている。軍手をはめた手は動いていなかった。大きなため息をつくと美紀は立ち上がった。マンションの五階からは何時もと変わらない住宅地の風景が広がっている。今日、ひさしぶりに駅のトイレで泣いた。

　男と女が出会い、心のふれあいがあり、愛が芽生えて、お互いの身体を求め合う。美紀のセックスに対する考え方だ。ましてや、セックスは人に見せるものではないし、見るものでもなかった。事実、愛情のない相手とのセックスは美紀に何の快感ももたらさなかったし、ましてやそれを人に見られることは苦痛以外の何ものでもなかった。こんなことに大金を出す男達が馬鹿に思えた。
　そういえば、夫の俊雅もセックスの最中に”奥さん”と私の耳元でささやいたり、ほかの男に犯されたくないかと聞くことがあった。まったく男という生き物は理解できない。その思いが今日崩れてしまった。自分はなんて軽蔑すべき人間なんだと自分を攻めた。
「こんな時は、美代子しかいない。あのイケイケの明るさで元気を貰うしかない」
　美紀は受話器を取った。

　俊雅は受話器をおくと椅子の背にもたれた。頭に手をやり天井を見上げている。
「よし」
　立ち上がり、部長の席に行くとさっきの電話の件を報告し指示を仰いだ。
「判った。しかし金は経理から出ないぞ」
　課でプールしている裏金で処理しろ、何かあっても会社とは関係ないという意味だった。席に戻りアドレス帳を出し同業の高田に電話した。受話器を置くと高田に紹介された電話番号にまた電話する。そのメモを元に銀行の出金伝票を起し印鑑を押すと部下に銀行に行かせた。メモの内容を自分の手帳に写すと俊雅は不愉快そうにため息を突いた。

　電車のドアが開く。お昼過ぎの電車は空いていたが、美紀は座らずにドアのところに立ち窓の外の流れる景色を眺めていた。
「何であの時」
　この言葉を今までに何度呟いたことだろう。あの時から半年近くが経っていた。
　半年前のその日、夫の俊雅は関西への出張が入っていた。家から直接向かうのでゆっくりしていた。テレビでは朝のワイドショーをやっている。アナウンサーの昨今の世相についての問いに陰険な目つきの男性が答えている。

「現在、白蟻は人間に敵視されている。白蟻は植物の遺体であるセルロースを主食とする昆虫で、本来の生息域は森林やサバンナであり自然界の貴重な掃除屋さんである。ヒトは誕生してからの大部分を、他の動物と同様に自然界の生態系の中で狩猟採取の時代を過ごした。その時代白蟻はヒトの敵ではなかった。
　しかし、ムギやイネが発見され農耕が始まるとヒトは定住するようになる。ヒトは白蟻のテリトリーにその主食であるセルロースで出来た木材で家を建てた。いったん白蟻が住み着くと気づかぬうちに被害は拡大し、気づいた時には土台から崩れ落ちる。かくして人は白蟻を害虫と呼び恐れるようになった」

　評論家はコップの水を飲むと続けた。
「そして農耕社会は田畑の開墾、管理、収穫のために多くの人が協力する必要があった。また種を植えてから収穫までは長い時間が掛かる。農耕社会は動物の世界、狩猟採取の時代とは違った複雑で忍耐を要求する人間社会というものを創った。
　それは本音を隠す建前の社会であり、明日の為に今日を耐えることを要求した。それを善といい、そうすることを人間らしいと尊んだ。
　その社会に楯突き、本能や欲望の赴くままに生きることを人間社会は悪と呼び、そのように行動する人間を軽蔑した」

　彼は皮肉な笑みを浮かべ続けた。
「しかしそれは何億年もの歴史を他の生き物から本能として引き継ぎ、ヒトとなってからも何百万年もかけて身につけたものである。
　たかだか五千年、どう長く見ても一万年の歴史しかない人間社会がそれを悪と呼び、人間が善と呼ぶものでコントロールしようとするのは傲慢であり、所詮無理なことである。それは幾多の歴史が証明している」

　彼は意味深な笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を上げ視聴者に向け指を差した。
「本能と欲望という名の白蟻がまさに今、あなたの幸せな家庭の上に舞い降り、羽を落としてソッと潜り込んだかもしれませんよ」

美紀は顔をしかめた。
「大嫌い、この人。まるで、本能のままに生きろって扇動しているみたい。益々世の中が乱れちゃうわよね。なんでこんな評論家が人気あるのかしら」
「へー、人気あるのかい」
　俊雅は初めて見る顔だった。
「あっちの局、こっちの局。朝も昼もこういう番組で引っ張りだこよ」
　美紀は不愉快そうにチャンネルを変えた。俊雅は過激ではあるが一つの真理を突いていると思ったが口には出さず、コーヒーを飲むと立ち上がった。

　夫を送り出してしばらくすると電話が鳴った。先物取引の勧誘だ。何時もは上手に断る美紀だったが、話しだけ聞いてみようという気になった。セールスの感じも良かったのだが、考えるところがあった。
　毎月の家計の中で遣り繰りしたお金を積立ていたのが満期になっていた。この低金利のご時世、これからの運用方法に迷いとりあえず普通預金に入れてある。美紀が自由に使えるお金で八十万円を越えていた。

　お昼を食べ終わるとセールスが飛んできた。話しだけと思ったが、五十万円で灯油の契約をしていた。自分にもこんな大胆なところがあったのかと驚いた。半月もすると十五万円の利益が出たと連絡があった。あれから毎日、新聞を見て上がっているのは判っていたがそんなに儲かっているとは思わなかった。うれしかったが怖くもあり解約しようとしたがさせてくれない。
「奥さん、何を言ってるんですか。ここは勝負、勝負ですよ」
　セールスの言うまま、とうもろこし、大豆と手を広げていく。後はお定まりの追証、追証であっというまにヘソクリは消え、二百五十万円を超える損が出ていた。
契約書を持って市の法律相談所に駆け込んだ。担当者は言った。
「非常にあなたに不利な契約になっています。訴えられません。即刻解約することを進めます」

　契約してから三ヶ月も経っていなかった。自分名義の貯金はもちろん、息子が生まれた時から始めた学資積立保険が消え、サラ金二社に六十万の借入が残った。
　自分の分は諦めがつく。サラ金の分をすぐに何とかしなければ。かえすがえすも悔しいのが学資保険のお金だ。涙が出て止まらない。息子は高校受験が迫っている。毎週の塾だけでなく、今度の休みには合宿形式の講習にも参加させたい。
　夫には話せなかった。夜遅くまで働いてくれている。職場結婚だから美紀にはその苦労がよくわかる。このご時世、リストラ、賃金カット、苦しい家庭の多い中、私は専業主婦でやらせてもらっている。夫は私をしっかり者の姉さん女房と思っている。自分で何とかせねば。
　職安、新聞、雑誌と仕事を探したが、結婚以来ズーッと専業主婦、しかも四五歳の美紀に条件のいい仕事がある訳がなかった。

　美紀には美代子という二十年来の友達がいる。明るく活動的な性格でファッションも派手だった。何から何まで自分と正反対の喜美子だが不思議と馬が合った。世間の裏表も知っていそうな気がしたが、問題が大きすぎたし、口の軽いところも心配だった。夫同士も何回か会っている。
　迷ったが嘉代に相談した。美紀と同い年でバツイチで再婚、今の夫との間に中学生になる子供がひとりいる。美代子に比べると無口で穏やかな性格で相手の話しをよく聞き茶化したりしない。性格は自分に似ていると美紀は思っている。口は堅いが専業主婦なのであまり期待は出来ない。その嘉代が相談して数日後に訪ねてきた。

「悪いわねー、嘉代」
　紅茶と嘉代の好きなケーキを出しながら美紀は言った。
「いいのよ、私だって何回も相談に乗ってもらってるじゃない。でもご期待に添えなくて。せっかく相談してくれたのに申し訳ないわ。あちこち頼んだり、調べたんだけど、全部駄目」
「無理なのよね、初めから。もう、主人に正直に話しちゃうわ」
「ごめんね、お役に立てなくて」
「私のほうこそとんでもない相談持ちかけて悪かったわ」

　しばらくの世間話の後、嘉代が思い出したように言った。
「もうだいぶ前の話だし、又聞きの話で確かな話じゃないんだけど、いい？
　私が友達とスナックへ行ってそこから出た後、その友達が言うのよ。あそこのママ、お金持ちのお客さんのためにモデルを世話してるんだって」
「モデル？」
「私も聞いたのよ。何のモデルって。そしたらね写真とかのモデルそれも素人の方がいいんだって。ヌード？て聞いたらそれには答えないで一時間で万単位のお金くれるらしいわよって」
「若い子でしょ」
「ねー、聞くわよねー。友達も聞いたんだって。そしたらねそのママ、”蓼食う虫も好き好きよ”て。友達があなた紹介するわよと言うから”その節は”って言っといたわ」
「へー」
「この間、友達に聞いたらまだ募集してるんだって」
「そう］
「美紀が俊雅さんに話す覚悟が出来たんだったらその方がいいわよ。そのママもどういう人か私知らないし、よしんばこの話が本当であってもなんか危ない気がするわよね］
「そうねー」

　数日後、迷った末に嘉代が置いていったメモの番号に電話をした。とにかく会いましょうということになり、喫茶店で会うことになった。今まで美紀にとって喫茶店は気のおけない友達と楽しく語らうところだった。こんな緊張した気持ちで相手を待つのは初めてだ。
　時間通りママは来た。チョッと崩れた感じはしたが悪い印象ではない。服装のセンスも悪くない。ママは単刀直入に”仕事”の話しに入った。
　やはりモデルの仕事だ。場所は家から電車を使い三十分位の所だった。写真を撮るお客が多いがデッサンを描く人もいるそうだ。一時間単位で一万円からだった。着衣、下着、ヌードになるごとに金額はアップした。顔を隠すマスクの有り無しでも金額は変わった。ママがその三割を取る。時間は昼間だけでよかった。

　マスクをせずに顔を見せる場合、契約の前にお客の写真を見せてくれるとのことだった。万が一お客が知り合いだったらの配慮だ。どのコースを選ぶかはモデルの自由だし、お客を選ぶのも自由だった。ただ約束を破った場合は契約した金額の三倍を払わされ即クビということだった。
「あの、こんなおばさんでいいんですか。それに…」
　美紀は四五歳、若い頃は容姿にも少しは自信もあったが今はふくよかと言うにはちょっと苦しかった。ママは答えた。
「構いません」
　
　いろんなお客がいた。第一、自分の身体にまだこういう方面で商品価値があるのに美紀は驚いた。着衣から下着そしてヌードそれぞれの段階で抵抗感があったが何とか頑張った。オナニーを見せてくれと言う客がいたがこれだけは断った。ほとんどしたこともなかったし、演技でも出来なかった。
　”頑張った”甲斐あって、サラ金の分は返し終え少し気分は軽くなっていた。しかし、二百万円近い学資保険の分が残っていた。
　それを見透かしたようにママから十日ほど前に話があった。
”お客の前で男とセックスをしてそれを写真に撮られる。マスクをしてもいい”というものだったが、美紀はさすがに断った。ママは三日前にまた誘った。
「売春じゃないのよ、お金は写真を撮るお客さんが出すんだから。ただ寝てるだけでいいのよ。ああしろこうしろって嫌なポーズをとらされるヌードよりかえって楽じゃない。それで十万単位のお金が入るのよ。こんなことはチョッと辛くてもさっさと貯めて早く終わらすことよ」

　美紀は雑居ビルの一つに入った。入るとすぐの所にエレベーターがある。美紀はいつもこのエレベーターの前で心の中で自分に言い聞かせる。
「ここからはいつもの私とは別の女になるんだ］
　美紀は閉じた目を開けるとエレベーターのボタンを押した。重力の変化と古びたエレベーターの出す機械音が本当に別世界へ移って行くように感じた。ドアが開いた。ここからその部屋の入口まではわずかの距離だったがいつも足が重かった。今日は特に重い。

　ドアを開けると美紀は小さな声で挨拶をした。
「おはようございます」
　ママが奥から出てきた。
「皆さんお待ちよ。さー着替えて」
　ママは美紀を手前の部屋に入れると、いくつかあるロッカーの一つを開け着物を出し、それに着替える美紀を手伝った。最後に美紀の目にマスクをかけるとその紐を頭の後ろできつく縛った。和服にマスク、そのアンバランスが卑猥な感じを醸し出した。
「さー、行きましょ、白百合さん」
　美紀の背を押して進むと奥の部屋のドアを開けた。殺風景なスタジオのような感じの部屋だった。いや、プロ用ではないがスタジオに間違いなかった。二十畳ほどある部屋のコーナーを利用して今日は和風のセットが置かれている。畳を敷き壁には障子が立てられ、その前に屏風と衣桁が置かれ生け花もあった。そのセットを照明器具が囲んでいた。何時もと違うのは畳の上に布団が敷かれていた。お客のほかに着流しの男が一人いる。

「ママ、やっぱり私できない」
　すがるように美紀はママの腕を掴んだ。緊張した沈黙が部屋をつつむ。
「そう、いいわよ。あなたとはこれっきりね。三十万円置いてすぐに出てって頂戴」
　初めて見るママの顔だった。声はドスが効いている。
「すべて承知していることよね。今日お客様から頂く十万円の三倍よ。初めからの約束でしょ。あなたがやりますと言うからお客様にも男優さんにも来て頂いているのよ。あなたどう思ってるか知れないけれどもこのお仕事信用だけが財産なのよ」
　一呼吸置いてママの声が急に優しくなり美紀の顔を覗き込んだ。
「ただ目をつぶってればいいのよ。演技してくれって言ってるんじゃないんだから。顔も隠しているしお客様にも男優さんにもあなたが誰だか判らないんだから。あなたの希望どうり男優さんも手荒なことはしないわよ。ネー」
ママは男優のほうに顔を向けた。そして美紀の耳元でささやいた。
「チョッと我慢すれば七万よ」

　布団の上に美紀と男優がいて、その二人をお客が写真に撮っている。ママはいない。三人の間で会話は一切なかった。美紀の荒い息使いと衣擦れの音、そしてシャッターの音以外にその部屋で音は聞こえない。
　美紀は自分に触ってくる男の手に抵抗している。着物が乱れ段々と肌が露出してくる。男は手荒なことはせず、愛撫は手慣れていたが硬直した美紀の身体は変化しない。あそこに手が入ってくる。指には油のようなものが付けられていた。ももを固く閉じていたがコジ入れられた。
　男の指が秘部に触れると美紀は気を失いそうになったが、挿入だけはなんとしても避けようと男の足が股の間に入るのを必死で防いだ。男は諦め乳房を愛撫し、キスをしてきた。舌が入ってくるのを防いでいると下半身の防御がおろそかになり一瞬股が開いた。男はそのスキを見逃さなかった。男の身体は跳ねるようにして美紀の足の間に入り、塗ってあった油の効果でアッという間に挿入されてしまった。しばらく抵抗したが諦めた。ただ、ただ早く終わるのを願った。挿入されても感ずるのは恐怖心と不快感だけだった。

　男優は桜木ちゃんと呼ばれている。がっしりとしたマッチョタイプだった。歳は三五歳ぐらいに見える。事前のママの言いつけを忠実に守っていた。
「いい、桜木ちゃん、相手は初体験だから感じるなんて余裕ある訳ないの。相手の反応は気にしなくていいの成り行きで。挿入までいければ御の字よ。体位の変化もなくていいわ。ただ、肌に跡がつき易いから気をつけてよ。とにかく初体験だからね」
　客は丹沢と呼ばれていた。協力的でない美紀に文句も言わず、懸命にシャッターを押している。

　美紀はビルを出ると駅前の銀行のキャッシュコーナーに入り七万円を入金した。そして、まっすぐ駅に向かいトイレに入った。涙があふれ嗚咽が漏れた。少し落ち着くと一刻も早くシャワーを浴びたくなった。化粧を整えると鏡を睨み深呼吸をしてトイレを出た。

　ママと丹沢はさっきの部屋でお茶を飲んでいる。桜木はいない。
「いいネー、あの人妻さん。旦那以外は本当に初めてだね。それにあの豊満な身体、なんとも言えないね。あと何回か他に回さないでよ、ママ」
「丹沢さん、無理言わないでよー。人気あるのよ、白百合さん」
「たのむよー、ママ。お礼弾むから。この通り」
　丹沢は大げさに手を合わせた。
「丹沢さんの頼みじゃしょうがないわねー」
　ママはそう言いながらそろばんを弾く顔になっていた。

　美紀はリビングのソファーで濡れた髪をタオルで乾かしている。突然頭を激しく振った。また夫の顔が浮かんだ。嘉代が家に来たあの時から二月が経っていた。
　精神的ショックは想像以上だったが、ママの言うこともあながち外れていなかった。怖いという気持ちは強く感じたが、ことはあっけなく終わった。抵抗をやめると寝ているだけでよかった。むしろ丹沢さんにも桜木ちゃんにも勝ったと言う思いがあった。快感など何も感じなかったからだ。
　さすがにその晩は夫の顔をまともには見られなかった。

　美紀は余裕とまではいかないが少しずつ ”仕事に”慣れていった。丹沢と三回ほど、その後二人の客にはビデオでやはり三回づつ映された。相手の男性は三十代と四十代で四十代の男はねちっこかった。
　コンドームの有り無しが料金表に加わっていた。ピルを飲み始めていたがコンドームは必ず装着してもらった。もしもということがあったし病気も怖かった。
　マスクも外すとずいぶん報酬は増えたが外さなかった。美紀はＰＴＡ活動などで普通の主婦より顔が知られている。

　そして先日、岩木という老人の前で、マスクを取りコンドームもせずに若い橘という男優と交わった。美紀は”仕事”で初めて感じてしまった。

　美紀は我に返った。電車のアナウンスが降りる駅を告げていた。
　美紀は美代子のマンションの近くのしゃれたパーラーにいる。
　派手な服装の美代子の口から友達の噂、芸能ネタがまるで機関銃のように飛び出してくる。そのリズムが美紀の沈んだ気分に心地良かった。その声が小声になった。
「ネー、あの子どう」
　美代子が目で指した方を見ると、若い男がぶ厚い本を読んでいる。その男性が顔を上げ美紀と目が合った。胃のあたりが殴られたように「グーン」と痛くなった。
「橘だ！」
　一瞬の間を置いて、彼は何事もなかったようにまた本に目を落とした。
「どう」
　美代子が意見を促した。
「さー」
　美紀は動揺を抑え気のなさそうな返事をした。

　彼は席を立つとこちらに歩いて来る。美紀たちの隣の席に賑やかな三人の女の子達が座っていたが、彼が近付くと急にだまってお互いの顔を見合わせた。彼にはそれだけ女性を意識させる存在感があった。美紀は近付く彼に焦ったが、彼は美紀を無視するように横を通ると会計を済ませ出て行った。
「食べちゃいたい」
　美代子はいたずらっぽく笑った。
「彼は私に気を使ってすぐにここから出てくれたのだろうか」
　とにかく美紀は胸を撫で下ろした。

　美紀は次の日から二日間、息子が通う学校で行うイベントの準備のために飛び回った。ＰＴＡの副会長をしている。
　次の日、美紀は何かの力に引き付けられるようにあのパーラーに向かった。店に入るとこの前の席に彼はいた。美紀もこの前美代子と座った椅子に座り後悔していた。この後どうすればいいんだろう。彼は席を立つとこちらに向かって来た。横に来てしゃがむと手帳の一ページほどの紙切れをテーブルの上に置いて言った。
「落ちましたよ」
　彼はトイレに入ってしばらくして出ると自分の席に戻った。美紀は彼の置いていった紙切れに書かれた携帯の番号に自分の携帯から電話した。橘の声がした。
「そちらの席に行ってもいいですか」
　この店は美代子と何回も来ている。駅前の喫茶店の名前をあげると彼はすぐに店を出た。美紀もしばらくしてこの店を出ると足早に駅の方に向かった。

　向き合って座ったがお互いに言葉が出ない。気まずい雰囲気が流れた。
「白百合さんのお陰でクビにならずに済みました」
　彼がボソッと言った。
「えっ」
「俺、あの前に二回全然立たなかったんです。あの時駄目だったらクビだって言われていたんです」
　初めての会話にそれはないだろう。美紀は真っ赤になってうつむいた。
　それを見て橘は慌てて、
「あ、すみません。まずいっスよね。話題が見つからなくて、つい」
　その慌て振りがおかしくて思わず美紀は「クスッ」と笑った。いっきに二人は打ち解けた。

　本名を”安部秀幸”といい大学院生、二三歳。家業を継げという親の反対を押し切り大学院へ進んだので仕送りをカットされていた。行きつけのスナックのママの紹介であるビルの守衛室に移りあの”バイト”を始めた。昨日も一昨日もあのパーラーに通い詰めたと言った。
　美紀も自分の本名を告げた。傍目には二人は仲のいい親子に見えたろうか。

　一時間後美紀は守衛室の台所に立っていた。秀幸が後ろから美紀に抱きつく。
「いいよ、料理なんて」
「駄目よ栄養つけなきゃ、どうせろくなもん食べてないんでしょう。おとなしく待ってなさい」
　美紀の口から鼻歌が出た。
　美紀はここに来る途中のスーパーで買った材料で手早く作った料理を秀幸は「美味い、美味い」と言いながら食べている。惚れ惚れする食べっぷりだ。
　食べ終わると秀幸は美紀をベットに押し倒した。
　美紀の太股がもう十分に硬くなっている彼を感じた。
「だめよ、よして。いけないわ。私、夫がいるのよ」

つづく