１章 老い……

　高田信一はめぐみとのセックスを終え、ベッドから起き上がるとテーブルの上に置いてあったライターでタバコに火を点けた。
　めぐみは化粧台で化粧を直している。信一42歳、めぐみ37歳、２人の子持ちだ。下は今年小学校にあがる男の子。下は幼稚園の年少組の女の子だ。ふたりの経済力からいってあとひとり作ることもできるが、積極的に子作りの話はしていない。
　結婚したときに購入した２LDKのマンションで月７万５千円のローンを払い、近隣の人達とも慣れてきて何の不自由もなく暮らしている。
　紫煙が複雑な円弧を描きながら空中に拡散してゆく様子を見ながら、信一の背で一生懸命化粧を直しているめぐみに向かって言い放った。
「最近、お前……老けたな」
　化粧を直す手が止まり、数秒間の沈黙があった。信一はタバコを灰皿にもみ込むと、もう一本箱の下をトントン叩きながら出すと、シュボッと火を点け、プーと若いお兄さんが格好つけるように上に向かってくじらのように吹きだした。
「どういうこと……」
　めぐみの手が緊張で震えている。顔は青ざめ、髪がひらりと額にかかっているのを払いもせず、鏡越しに背を向けてじっと夫の返答を待っている。赤い魅力的な唇はかすかに震え、頬の筋肉は負の方向に働き目玉ごと下へ落としてしまいそうだ。
「つまり歳を取ったということだ。たるんだ腹、しわの目立つ顔、汚らしい染み、おれは性欲処理のためだけにお前とやっていたが、やればやるほどムカつきが抑えられねえんだよ」
「そんなの当たり前じゃない。わたしは子どもを２人も生んだのよ。それを、それを……」
　夫の所業には今までかなり我慢してきた。生活費をギャンブルに使いこんだこともあったし、不倫の匂いを感じたことも１度や２度じゃなかった。そのたびに自分が我慢すれば事は収まり、子どもが大きくなれば離婚も考えることもできるが、今は我慢し子どもの教育に全力を傾けるしかないと思っていた。
　しかし、今の言葉で我慢の限界を一気に通り越した。夫と付き合う前にも数回の恋はあったが、容姿を直接的に責められたことはなかった。めぐみはかわいいよ、きれいだよ、そう言われ本気になり、恋人の愛には100％で答えてきた。結婚してからも美容には神経を使い、どうしても肌が老化してくるのを年齢化粧品やエステなどでできるだけ防いできた。それでも老化は年齢を重ねるたびに実感し、鏡に映るしわを見つめると悲しみとあきらめを女のプライドで封じ込め、色気という素敵な言葉に変えて、10代や20代の女性をある種軽蔑の眼差しで見ていた。
　初めて味わう敗北感、夫のような子どもの教育もろくにできない男に言われると余計腹立たしいこともあるが、自分のすべてを否定された感じがし、さすがに感情を封じ込めることができなくなり、化粧台にあった道具を手に持つを思い切り夫の背に向かって放った。
「チキショー、あんたなんかにそんなこと……、悔しい、すごく悔しい！」
　夫の背中を手で叩くが、夫の方は表情を変えず、めぐみの手を掴むと冷酷な顔で見つめると、いきなり張り手を食らわせた。１回、２回、ひどく強い力で叩かれたため、めぐみは床に落ちると思わず幼児のように大声をあげて泣き始めた。
　信一は床で泣き叫ぶめぐみに向かい、みっともないからやめろ、と言い放ち、ベッドに座るとまたタバコを取り出し、火を点けた。
「女ね、女ができたのね。どうなのよ、はっきりおっしゃいよ！」
「……」
「どこの女よ、隠れてこそこそと、あんたったら」
「……お前よりずっと若くてきれいだ」
　信一の声には羨望の裏返ったトーンが満ち、明らかに情事の匂いが漂い、緊迫した空気が周囲を押し包んだ。めぐみは呆れて声も出なかったが、なんとか気を取り直し、夫にしがみついた。
「そいつと何回寝たの、えっ、嫌らしい、この色魔、浮気男」
　思いっきり背中を叩き、怒りをぶちまけるが、信一は至って落ち着いた表情を固持し、めぐみの拳の力が衰えたのを見て立ち上がると冷たく言い放った。
「歳を取るってのは嫌だな。お前よりずっといい身体だし、いい声で泣くし、あいつの味を知ったおれにはお前など犬以下に見えるぜ」
「…………」
　さすがにめぐみにも今の言葉はショックが強かった。当たり前のことを言われたのだが、禁句に近い言葉をこうも真正面に言われると忍耐の壁を打ち割り、夫に尽くし、子どもに尽くしてきた自分が愚かな猿に思え、さんざん利用してきた夫の姿はおろか、存在さえ感じることに嫌悪感を覚えた。
「いやっ！」
　適当に衣服を着ると荷物も持たずに外へ出た。胸がズキズキと痛み、長い間騙されたことに対する恨みと失意は正常な思考能力を奪い、今すぐ命を絶つ方法があるのなら迷わずそれを選択するところだった。

　高台の別荘で夏彦は弟の冬彦と大理石のテーブルを挟んで、小粋に足組みして対面していた。灰皿にはすでにタバコが山積みされ、次のバージニア・スリムをデュポンでカチリと火を点けるところだった。
「兄貴、いったい何本吸うんだね」
「……」
　目をジロッと冬彦に向けると、タバコをケースに戻し、視線を窓の外にあるポプラの木に向ける。冬彦はがっちりとした身体をのそっと起こし、スーツの襟を引っ張って伸ばすと太い眉を引きつけて夏彦を自信たっぷりの面持ちで正面から見据えた。
「だいたい、兄貴、いつまで浮わついた生活を続けてゆくんだ。おれは今回グループの命運を背負って中国事業の執行役員となった。今、グループは大変な苦境に立たされている。慢性的な不況がグループの財政をむしばんでいる。それを親父もおれも全力で打開しようとがんばっているのに、兄貴だけ好き放題な人生を送るというのは夢野家の一員として恥ずかしいと思わないのか？」
「おれの生き方を親父も了承してくれた。だから、今の生活を続けてきた……」
「今まではな。しかし、今は状況が変わった。政治や経済の流れは恐ろしく速い。ぼやぼやしていると負け組として抹殺される。だから、兄貴、分かるだろ、兄貴の力を借りたいんだ。おれが貴重な時間を割いてここまで出向いている意図を察してくれ」
　そういうと冬彦は胸ポケットから年代物のジッポを出すとショートホープに火を点ける。すべてにおいて夏彦と対極な生き方をしていると夏彦は弟の意志の強い唇を見て思った。
「……おれは今のままがいい」
「この分からず屋！」
　冬彦は机の上に放り出してあったタバコの箱を手に取ると、夏彦に向かって投げつける。額に当たり、当たったところが赤く腫れあがるが、夏彦は表情を変えず潤んだ瞳を冬彦の胸元の当たりにじっと向けていた。
「女だろ。知ってんだぜ、兄貴がこの屋敷で淫行を繰り返しているってことを。え、いい歳して女のケツ追いかけんなよな、恥ずかしい限りだぜ。今でも財界パーティにゆくと決まって言われるんだ、お宅のお兄さんはモテて羨ましいって。この意味分かるか、女にうつつ抜かしてるバカって意味なんだよ。女なんてヤリたいときに万札数枚握らせりゃケツの穴まで舐めてくれるんだ、そんなことより重要なことがあるだろ」
「お前は全然分かってない。女をそういう見方でしか見れない奴におれの生き方をとやかく言われたくない。帰ってくれ」
「なんだと！」
　冬彦の顔が歪み、タバコを灰皿にフィルターがばらけてしまうほど押し込む。否定を絶対許さない状態で否定されたときに出る空間が歪むほどの緊張が２人の周囲を包み込んだ。
「女とは美しい生き物なんだ」
「バカバカしい。聞いて耳が痛くなってくるぜ。……もういい。貴重な時間を大いにロスした。親父の嘆く顔を見るのが辛いぜ」
　冬彦は立ち上がると、椅子を出したまま玄関のドアを乱暴に開けた。お付きの運転手が開いたリムジンのリアシートにドカッと身体を入れると腕を組んで目をつむる。
　リムジンが高台の別荘から静かな音をたて、立ち去ってゆく。それを窓から確認すると夏彦はバージニアスリムに火を点けるが、あまりのまずさに一口でもみ消した。