SCENE 40

「どしたんだよ？」
「なんでもないの。三上くんに会いたくって‥‥」
「だって、午後には一緒に勉強できるじゃん」
「うん。でも二人っきりじゃないし‥‥」
「ヘンなの」
　卓也が笑う。
　場所は駅前のマクドナルド。遅めの朝食をとっている客がまばらにいるくらいで、二人は隅の静かな席に座っている。
　今朝、起きたとき、もう妙子は起きていてベッドは卓也だけだった。ちょっと失敗したかも、なんて思っているとき携帯が鳴った。
　恵美子だった。用があるから、どうしても来て欲しいというのだ。9時半にマクドナルドで会うことになった。
　卓也は友達に会ってくると言って家を出た。妙子に隠すつもりはなかったが、午後に来るはずなので説明しにくかっただけだ。
　卓也がコーラを注文して店内を見渡すと、奥に見慣れたTシャツにミニスカート姿の恵美子がいた。シェイクのカップの中身は半分以上なくなっている。けっこう待っていたらしい。
「三上くん、約束忘れてないよね？」
「なんの？」
「もう‥‥江ノ島水族館、連れてってくれるって言ったじゃない」
「ああ、あれか。忘れてないよ」
「ねえ、いつにする？」
「いつでもいいけど、安藤はどうしたいの？」
「早く行きたい。けど、勉強会もあるし、どうしようって相談なの」
「だったら、俺ん家で妙子おばさんと相談すればいいじゃん」
「三上くんのいじわる‥‥」
　恵美子が上目遣いで睨む。ちょっと色っぽいな、などと卓也は思った。
「ごめん、ごめん。俺もさ、なんか久しぶりに外に出たんで気持ちいいよ。ちょっと歩かないか？」
「うん。行く」
「でもさ、こんなとこ学校の誰かに見られたら恥ずかしいな」
「わたし、あんまり気にしないけど」
「安藤と噂が立ったら、ちょっとな‥‥」
　どんな冷やかされ方をするか分からないと卓也は思った。
「いっそのこと渋谷行かね？」
　それなら電車で10分もかからない。
　すぐに各駅停車がやってきた。空いているのに隣に座った恵美子は不必要なくらい身体を押しつけてきた。汗ばんだ腕が密着する。
「お前さ、そんなスカートはいてると前の人に見えちゃうぞ」
「ハンカチ置いとくから大丈夫だもん。三上くん、こういう格好きらい？」
「そうじゃないけどさ、他のヤツに見られたらやだなって思って」
　卓也は手で声が漏れないようにガードして耳元に口を近づけて言う。
「うん‥‥」
　恵美子が赤くなった。
　言葉の内容もうれしかったし、耳元で言われるとジンッと甘い感覚がある。
　恵美子は宙を浮いているような気持ちで卓也と渋谷の街を歩いた。
「やばい」
　センター街を歩いているとき、卓也はそう言って、恵美子の方を抱くようにして路地に連れ込む。
「どうしたの？」
「クラスの奴らがあそこのゲーセンから出てきた。渋谷に来たの裏目に出ちゃったな」
　卓也はそう言って身を潜める。肩を抱いたまま、恵美子をビル側へ隠すようにした。
　卓也の身体が密着している。恵美子はこの機会を逃したくなかった。少し上半身をずらして身体を密着させた。結果、バストが背中に触れる。すごい冒険をしているような気分になって恵美子はドキドキした。このまま時間が止まってしまえばいいのにと思った。
　背中にバストの柔らかさを感じた卓也は思わず恵美子の顔を見た。
「ごめん」
　そう言って身体を離そうとすると、恵美子は顔を伏せて身体を押しつけてきた。反射的に卓也は肩を抱いている手に力を込める。恵美子の気持ちに反応して自然に身体が動いてしまったのだ。妙子との経験がなかったら、こんなことはできなかったろう。
　男としての自信みたいなものがそうさせたのかもしれない。卓也はこんな状況でも精神的に余裕があった。
　恵美子は甘い幸福感に浸っていた。強く抱き寄せられ肌が触れあっているのが気持ちいい。卓也の行為は理想的だった。もし、いきなりバストを触られたりしたら、いくら卓也が相手だったとしても嫌だったに違いない。逆に、卓也に嫌がられたら立ち直れなかったかもしれない。
「なあ」
「ん？」
「こんなとこで、くっついてるの見られたらヤバイよ。どっか行こう」
「うん‥‥もうちょっと、このままでいたい‥‥」
「不純異性交遊で捕まっちゃうぞ」
「‥‥ばか‥‥」
　なぜ卓也が、こんなに余裕たっぷりなのか恵美子には理解できない。でも、なんとなく頼もしく感じるのは事実だ。ちょっとだけ付き合った先輩なんかより百倍大人に見える。
「行こう」
　卓也が肩を押してうながす。
「うん」
　仕方なく卓也の言う通りにした。
　卓也が携帯電話を取り出す。
「あ、もしもし、妙子おばさん‥‥そう‥‥あのさ、昼ご飯、友達と食べてくから‥‥うん、その時間には帰る‥‥じゃね」
　こんどは恵美子に言う。
「安藤、お前、昼飯付き合うだろ？　俺、今月、小遣いぜんぜん使ってないからさ。おごってやるよ」
　恵美子は胸が切なくなるくらいうれしかった。これから、ずっと卓也といられるのだ。おまけに、肩だけだけどギュッと抱いてもらった。ただ会いたい気持ちだけで発作的に呼び出してしまったのに、卓也はそれに応え、結果的に理想的なデートになった。勇気を出して電話をして良かったと思った。
「マックじゃつまんないしなぁ‥‥安藤、どっか行きたいとこある？」
「三上くんと一緒ならどこでもいい」
「じゃ、吉野家に決まり！」
「え〜っ、女の子が行くとこじゃないよ」
「冗談だよ。前、母さんとよく行ったところがあるんだ。スープのお店なんだけど、そこでいい？」
「いいの？」
「なにが？」
「お母さんの思い出の場所なんでしょ」
「誰とでも行くわけじゃないよ。それとも別の店にする？」
「ううん。行きたい‥‥」
「じゃ、決定」
　卓也はハンズの方へ歩き出す。追いついた恵美子は卓也の手を握った。
　ビルの半地下にその店はあった。まだ昼前なので空いている。ふたりは外から見えない席に座った。
「聞きたいんだけど‥‥」
「なに？」
「お前、なんで俺なんかがいいわけ？」
「‥‥」
「言いたくなきゃいいよ。でもさ、なんか信じられなくってさ。お前、モテるし、俺なんか、そんなに目立つ方じゃないし‥‥」
「そこがいいのかも」
「なんだ、それ」
「去年の文化祭のとき、黙って助けてくれたでしょ。なんとなく、あのときからかなぁ‥‥」
　クラスで文化祭の責任者だった恵美子は忙しさに紛れて入り口の飾り付けの指示を忘れてしまった。翌日までに間に合わせなければならなかったのに、気がついたのは皆が帰った後だった。途方に暮れる恵美子。それでもひとりで黙々と飾り付けをはじめた。そのとき、別の用で学校に残っていた卓也が通りかかった。卓也は何も言わずに手伝いはじめた。暗くなっても二人で口もきかず、作業が続いた。卓也は手先が器用でセンスも抜群だった。翌日、出来上がりを見て、さすがは恵美子だと、皆が褒めた。恵美子が、卓也のおかげだと言っても誰も信じなかった。卓也も恩に着せるようなことはせず、いつもと同じに振る舞っていた。そのときから、恵美子は卓也を意識しはじめたのだ。
「そんなことあったっけ？」
「飾り付け、手伝ってくれたじゃない。三上くんがいなかったら、どうなっていたか分からないわ」
「ああ、あれか。お前が一人でやってたやつ‥‥」
「うん‥‥」
「たまたま通りがかっただけなのに？」
　卓也が笑う。
　恵美子は人気がある。自分でもそれを意識している。容姿だって学校で一番と噂されているのを知っている。いつも周りが気を遣って特別扱いしているのが分かっていた。でも、卓也だけはごく普通に接してくれる。さりげなくて、暖かくて、気が休まる相手だった。いつしか、恵美子の心の中に卓也が住んでいた。
「おいしい‥‥」
　出されたランチメニューを口にして恵美子が言った。
「だろ？」
「お母さんとよく来たの？」
「う〜ん、四、五回かなぁ‥‥買い物の荷物持ち要員だったけどね」
「なんか、わるいみたい」
「なにが？」
「だって‥‥」
「つまらないこと気にすんなよ。知ってる店がここしかなかっただけ。親とメシ食うより、安藤と一緒の方が楽しいよ」
「ありがと‥‥」
　卓也が特別なところへ自分を連れて来てくれた、そう思うと恵美子は胸がいっぱいになってしまった。
　卓也の方は、妙子と一緒だったらどうなんだろうと考えていた。
　食後のコーヒーが出てきたときには店が混み始めていた。
「そろそろ行かないと、二人揃って遅刻したら妙子おばさんにヘンに思われちゃう」
「そうね」
　恵美子が「クスッ」と笑う。
　なんだか共犯者みたいな心境になってうれしかった。

SCENE 41

「今日の朝、どこ行ってたの？」
　夕食のとき妙子が聞いてきた。
「友達と渋谷」
「安藤さんと一緒？」
「えっ‥‥どうして？」
「なんとなく、そんな気がしたの」
「違うよ。男友達。なんか外に出るのが久しぶりだったから‥‥つい‥‥」
　卓也は妙子の鋭さに冷や汗をかいていた。何を根拠に恵美子と一緒だと分かったのだろう。隠すつもりはないのだが、説明するのが面倒だったので嘘をついてしまった。
「そう。お昼ご飯は何食べたの？」
「マック」
「ちゃんと野菜も食べた？」
「どしたんだよ、妙子おばさん。なんか、今日はヘンだよ」
「ごめんね。生理のせいかしら。今日が一番辛いのよ」
　険しかった妙子の顔が一変した。別人のようだった妙子の表情が普段の優しさを取り戻す。
「生理ってツライの？」
「うん。男の人には分からないわよね。お腹や頭が痛いし、すぐにイライラしちゃうし‥‥」
「大丈夫？　俺にできることある？」
「うん。ごめんね、心配かけて」
　ごまかしたのではなく、卓也は本当に心配だった。
「俺、食器洗い全部やるからさ、妙子おばさんは早めに寝なよ」
「ありがとう」
「それから‥‥」
「なに？」
「今日は自分の部屋で寝るよ。その方がいいでしょ？　他にできること思いつかないんだ」
「一緒に寝るのいや？」
「そうじゃなくって‥‥俺がいたら迷惑かなって‥‥」
　卓也は語尾を濁す。
「俺は、いつだって妙子おばさんと一緒にいたいんだ。でも、そんなの無理だって分かってる。それに具合が悪いときに隣にいたら‥‥」
「卓也君。こっち来て」
「えっ？」
「早く」
　卓也が妙子の隣に行くと、妙子が椅子に座ったまま腰を抱きしめてきた。
「ちょっとだけ、こうしてていい？」
　妙子が頬をすり寄せるようにして言う。
「うん。ずっとでもいいよ」
　何かに耐えているような感じが妙子から伝わってくる。
「妙子おばさん‥‥」
「なに？」
「病院で寝てるとき、ずっと妙子おばさんがいてくれたの、すっごくうれしかった。もし、俺がこうしてて気持ちいいなら、朝までしててもいいよ」
　妙子の目に涙が溢れてきた。ただでさえ、生理のときは感情の抑制がきかないのだ。理不尽なイライラをぶつけてしまったのに、卓也は優しくしてくれる。失意のどん底にいた卓也が友達と出かけるのも、本来なら喜ぶべきことなのだ。調子が悪くても母親の代わりである自分が我慢しなきゃならないのに、そう思うと余計に心が乱れた。
「卓也君‥‥こうして、一緒に寝てくれる？」
「うん。先に休んでなよ。俺、洗い物してシャワー浴びてから行くから」
　今日は立場が逆転したみたいだった。
「ごめんね。今日は卓也君の甘えてそうさせてもらうわ」
　妙子はシャワーを浴びてベッドに入った。
　しばらくして卓也が来て無言のまま隣へ横たわる。かなり遠慮している感じだ。妙子が身を寄せると背中に手があてられた。その手はピクリとも動かない。手のひらから体温が伝わってくる。心地良い暖かさに妙子の心がほぐれていく。気分を重くしている下腹部の鈍痛まで和らいでいくようだ。
（卓也君、ごめんね。生理が終わったら、なんでも好きなことしてあげる）
　きっと卓也は我慢しているに違いない。何が卓也を自制させているのかまで思い至ったとき、卓也の望みなら何でもかなえてあげたいと考えるようになった。教えてあげたい、させてあげたいは、されたいとイコールだった。
　夢うつつでそんなことを考えながら、なぜか妙子はとても安らかな気分になって眠りについた。