| １２ 涙の向こう側 璃緋都を連れて病院から戻ってきたころには、すでに夜九時を回ろうとしていた。 誠吾も璃緋都も、血の気が失せた表情だった。そして、二人とも疲れきっていた。 燈子は意識不明だった。誠吾は連絡を受けてすぐ、取引先から病院へ直行し、璃緋都は執事の戸塚に病院を聞いてすぐに家の車で駆けつけ合流した。 二人が着いたころ、燈子はすでに集中治療室に運び込まれており、緊急手術を受けていた。 そして、数時間かけての手術後、医師は璃緋都らに『命に別条はない。銃弾がたまたま貫通していたので助かった』と告げた。 燈子の声を聞くことはできなかったが、意識が回復すれば大丈夫だ、という話を聞くことができ、誠吾はようやく安心したような表情を浮かべた。 しかし、彼の胸のうちには一つの疑問が回っている。不可解な点があるのだ。 『燈子が若返っている』ところである。これについては、担当した医師たちも首をかしげたものである。 何しろ、そんなに燈子と年が離れていないように見える璃緋都が、『母さん』と呼んだのだから、無理もないことだ。 「…さて、お疲れのところ申し訳ないのですが、お三方に詳しい話をお聞きしたいのですが」 璃緋都の家には、通報者である内藤菜月…美月の母と、刑事二人が同行した。事情聴取に璃緋都の家を使おうというのだ。 璃緋都の家ならば広いし、これ以上誰かが狙われる心配もないだろう、と踏んだのである。 無論、意識がない燈子の病室にも護衛の刑事が何人かついている。 璃緋都の方は正直、『もう帰ってください』といいたかった。しかし、人が…それも実の母が巻き込まれた以上、そういうわけにもいかない。 「…璃緋都、お前はもう寝なさい。いろいろあって疲れただろう？」 璃緋都が口を開く前に、誠吾がそう言った。父親ゆえの配慮でもあるし、『娘には何も答えられないだろう』という考えでもあっただろう。 誠吾が刑事のほうを向く。無言で『構いませんね？』と聞いたのだ。刑事のほうも無言でうなずいた。確かに、家にいたこの少女には今回の事件について答えられることはないだろう。必要なことは父親に聞けばいいし、聞きたいことができたら後で聞くこともできる。 璃緋都が退室したあと、部屋には誠吾と菜月が残され、刑事の質問が始まった。 まずは事件のあらましが菜月によって説明される。待ち合わせをした二人が『どこへ行こうか』と話をしていたら、隣で歩いていた燈子がいきなり血を吐いた、と菜月は語った。銃弾は背中側から胸を貫通していた、と刑事は語る。 「あの時間だったからか、人はあまりいませんでした。犯人はやはり、燈子さんを狙ったのでしょうか？」 『奥様』といわず、『燈子さん』と呼んだのは、少しの間話しただけで二人が打ち解けた証拠だろう。 「…残念ながら、そう考えるのが妥当だと思われます。もちろん、まだ目的は不明ですが…」 その後は、誠吾に質問が向けられた。燈子が狙われる理由、誠吾自身が恨まれたことはないか、という質問である。 これについて、誠吾のほうはありふれた、当たり障りのない回答をするしかなかった。 すなわち、『仕事上うらまれる可能性はいくらでもある』、ということである。刑事のほうもそれは予想済みであったようで、あまり突っ込んだ質問をしなかった。 刑事が帰ったころには、すでに夜十一時に近かった。 「妻のことで、ご迷惑をおかけしました。この時間になってしまったことですし、差し支えなければ今日はこの家の部屋をお使いください」 妻の友人となった内藤菜月に、誠吾はそう言った。この時間に家に帰らせるのも気が引けるのだ。 菜月はというと、すっかり恐縮してしまっていた。先ほどまでは神経が張り詰めていたため気に留めている余裕がなかったものの、この家は異常に広い。部屋の数も半端ではない上、一部屋がこれまた広いのだ。 （こんなホテルみたいな部屋に泊まるって、かえって落ち着かない気がするけど…） 「いえ、わたしのほうももっと気をつけていれば、こんなことにはならなかったのかもしれません」 実際、気をつけようもなかっただろう、と誠吾も菜月も思った。一瞬の出来事だったのである。 結局、菜月は言葉に甘えることにした。執事の戸塚鉄彦に案内された部屋は、やはりホテルのように広かった。 その一時間後…璃緋都も菜月もすでに寝静まったころ、誠吾は自室に人を集めていた。 人数は誠吾を除いて三人である。 「…大変、申し訳のないことになりました」 その人物のうち、真っ先に誠吾に向けて頭を下げたのは、以前に璃緋都たちを尾行していた男である。 以前と変わらぬスーツ姿をしているが、相変わらず顔にどこか幼さが残っているため、雰囲気自体は柔らかい。 「まさか、奥方様が狙われるとは思いませんでした。われわれの失態です」 「…いや、今回のことに関しては、誰の責任でもないといえます。私自身もまさか妻が狙われているとは思っていませんでした。 狙われているのは、璃緋都だけ…そう考えたところに落ち度があるのでしょう」 男の言葉に、今度は誠吾が返す。冷静を装ってはいるが、妻が狙われたという事件は、確実に誠吾の心を蝕んでいた。 その表情はやはり憔悴しており、ここにいる人間すべてが、彼の動揺を悟っていた。 「…そのことですが、おそらく、奥様が狙われたのではなく、やはり璃緋都…お嬢様が狙われたのだと思います」 …部屋に集まった二人目…雪村風花が言った。 「どういう理由かは分かりませんが、奥様の姿はお嬢様にそっくりでした。おそらく、『誤射』だったのではないかと」 （理由か…あの本が原因に決まっているが、ここにいる人間はそれを知らないからな…） 「…ともあれ、犯人が『誤射だった』と気づくまで、そんなに時間はかかりません。よりいっそうお嬢様の護衛を厳しくしたほうが…」 「言われるまでもありません。娘は嫌がるかもしれませんが、仕方のないことでしょう」 誠吾が言った。その言葉が、解散の合図となった。誰もが、誠吾の体を、心を休ませてやりたかったのである。 「…お初にお目にかかります。雪村風花さんですね？」 誠吾の部屋を出たところで、スーツ姿の男の傍にいた女性が声をかけてきた。美女ではあるがやはり幼さを残しており、こちらもスーツ姿ではあるがどちらかというと女子高生のような雰囲気を見せている。胸のほうは璃緋都と同じか、少し小さいくらいだろうか。 「…はい。あなたは？」 年下に見えるとはいえ、誠吾が呼びつけるほどの人間なので、風花はとっさに敬語を使っていた。 「…八坂真夜（やさか・まや）と申します。こっちは夫の八坂修平です」 「…八坂…あぁ、氷室のところの」 （こんな年齢で結婚しているのか。ふぅ、意識はしていないつもりなんだが、現実を見るといつまでも結婚できない自分が劣等種に思えてくるな…少し羨ましいかもしれない） 「えぇ、所長がお世話になっております」 真夜が丁寧におじぎをするので、風花はつい微笑をこぼしていた。 「いや、世話になった覚えはたくさんあるが、わたしからはほとんど世話をしたことがないと思うが…」 過去のことを思い出した風花は、頬を掻いてしまった。 「…で、氷室探偵事務所の調査員がわたしに何か？」 「単刀直入ですが、今回の事件…特に璃緋都お嬢様がかかわった事件について、どの程度ご存知なのかをお聞きしたかったのです」 そう聞いてきたのは、修平のほうだった。見かけは少年だが、頭は切れるらしい。 「…ならば、わたしのほうも聞きたいことがいくつかある。ここは、情報交換といこうか」 「…貴女の仕事に関わるからですね？」 そう聞かれた風花は、一瞬だけ眉をひそめた。が、これ以上の動揺はせず、口を開いた。 「…今日はもう遅い。また明日に」 「…そうですね。我々もこの屋敷に部屋をお借りしたので、今日はひとまず休むとします」 風花は食い下がってくるか、と思ったが、修平も真夜も素直にうなずくのだった。二人とももう休みたいのだ。 真っ暗な部屋の中、菜月は目を覚ました。眠い目で時計を見ると、まだ夜中の一時を過ぎたところだった。 この時間ならば、さすがに璃緋都も誠吾も寝ているだろう。二人とも今日（もう昨日になってしまったが）の件で疲れきっているはずだ。 菜月自身も、もう眠ってしまいたかった。しかし、妙に目がさえてしまった彼女は、冷蔵庫の飲み物を飲もうと、寝室を出て自分に与えられた客室に入る。 （なんだか、違う世界に来たみたいね。わたしたち凡人の生活とはやっぱり違うんだなぁ…） 菜月は感心していいのかねたんでいいのかよく分からなくなってしまった。 コップに入れたウーロン茶を手に椅子に腰掛け、中身を飲み干したところで、部屋の外から何か音がした。 （…誰？） それが『足音』だと判断した菜月は、何も考えずにドアに手をかけていた。 菜月がドアを開けると、廊下に人影があった。背丈は高くない。少女のものだ。相手のほうも、菜月が扉をあけて顔を覗かせたのに気づいたようで、背中を向けたままぴたりと停止していた。 「…璃緋都ちゃん、どうしたの？」 それが璃緋都だと分かった菜月は、思わず声をかけていた。妙によろよろしていたからだ。 そこでようやく、璃緋都が振り向いた。 「…『美月』…」 しかし、その言葉は自分の名前ではなく、美月…娘の名前を呼んでいた。 こんな夜中に、璃緋都は一体何をしに廊下に出たのだろうか？菜月はまずそれが気になっていた。 しかし、今の璃緋都はどこか頼りなくすぐに倒れてしまいそうだったため、まずは自分の部屋で落ち着かせなければ、と彼女は判断していた。 「…っ」 ところが、菜月が二つ目の声を掛ける前に、璃緋都のほうから彼女に抱きついてくるのだった。 「…璃緋都…ちゃん？」 びっくりした菜月は、胸に顔をうずめてしまった璃緋都を見下ろす。その肩は小刻みに震えている。泣いているのだ。 「…かあ…さんが…母さんが、死んじゃう…わたしのせいで、死ぬ…」 「…えっ？」 璃緋都の言葉に、菜月は耳を疑った。燈子は、菜月と並ぶようにして歩いていたところをいきなり撃たれた。そこに璃緋都が介入できる要素はない。 一体何の目的で燈子が撃たれたのかは分からないが、少なくとも自分には璃緋都は関係ないように思えた。 （それを自分のせいって…璃緋都ちゃん、何か知っているのかしら？） 「美月、助けて、怖い…」 （この子、恐怖と孤独のあまりに、わたしと美月の区別がつかないんだわ） 菜月は即座にそう思った。実際のところ、今の菜月と美月はあまり外見的な違いがない。とはいえ、璃緋都は菜月の名前を知っているし、先ほどの刑事の質問のときにも同席しているのだ。いくらなんでも先ほどまでいた相手を間違えたりはしないだろう。 「…大丈夫よ。璃緋都ちゃん、あなたはわたしが守る」 菜月も、璃緋都を抱きしめていた。 雪村風花は、まだ眠ることができずにいた。考えるべきことが多すぎるからだ。 璃緋都のこと、あの本のこと、そして今回の事件のこと…。 （すべての鍵は璃緋都が握っている…。璃緋都がすべてを受け入れない限り、彼女は死ぬまで誰かに守られなければ生きなければならない。だが、璃緋都にすべてを受け入れろというのは…酷な話だ…） ベッドに仰向けに寝転がり、天井を見つめたまま、頭に考えをめぐらせる。 （氷室の助手…八坂という探偵夫婦。あの二人はどこまで知っているのだろうか？わたしの過去のことも知っているようだが…） あの幼さを残した二つの顔が浮かぶ。今のところ味方のようである。しかし、側近の知り合いとはいえ、得体の知れない存在であることは間違いない。 （なんにせよ、今はわたしも璃緋都を守ってやろう。あらゆる手段で、だ） そこで、風花はようやく目を閉じた。いい加減眠くなったのだ。 （…ん？そういえば、着替えていないな。まぁ、いいか…） 自分がまだスーツ姿のままなのを思い出したものの、風花はもう眠気に勝つことができなかった。 「…ごめんなさい」 菜月の部屋（といっても璃緋都の家だが）に招かれた璃緋都は、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻すと、まもなく、自分の前にいるのが美月ではなくその母親である、ということを思い出し、菜月に向かって謝るのだった。 「わたし…もう、何がなんだか」 「…無理もないわ。あんなことがあったんですもの。でも、お母さんは命に別状はないらしいから、すぐにまた元気になる。だから、璃緋都ちゃんが落ち込んでちゃダメよ」 とりあえず暖かいものを、と思ってコーヒーを淹れたものの、こんな時間にコーヒーというのはどんなものであろうか。 ちょうど紅茶が切れていたのもあるし、この夜中に家の人間を起こすのは気が引ける。菜月は結局、仕方なくコーヒーを出すしかなかったのである。 「…はい」 璃緋都はひどく落ち込んでいた。自分の母親が襲われ、さらに意識不明だというのだから当然の話だ。 しかし、菜月はそれ以上に何か不自然なものを感じていた。先ほどの『わたしのせいで』という発言である。 （そういえば、わたしもそうだけど、燈子さんは璃緋都さんと同じような容姿になっていた…。まさか、犯人は璃緋都ちゃんを撃つつもりでいた、ということなの？そして、璃緋都ちゃんは自分が狙われる理由を知っている…？） それならばなぜ、先ほど警察に対して何も言わなかったのだろう？父親である誠吾にしたってそうだ。 菜月はしばらく考えをめぐらせていたものの、やがて頭を横に大きく振った。 （…わたしが関わる問題じゃない、というのもあるけど…今は、璃緋都ちゃんのことを心配してあげたい。病院にいる燈子さんの分まで） 菜月は椅子から立ち上がると、再び璃緋都を抱きしめていた。まるで自分の娘に接するかのようだった。 「…今夜は、傍にいてあげるわ。だから、安心して眠りなさい」 その言葉に、璃緋都は素直にうなずいていた。 （うちの美月と違ってあまり言葉で伝えるのは得意じゃない性格みたいね。素直じゃない、っていうのかしら。 本当に追い詰められないと、他人に甘えることができないのね。この分だと、この子、自分から信頼している友達はいないのかも。 ううん、うちの美月は少なくとも『親友』といえる存在ね。この家に泊めてもらったくらいだし） 自分に与えられた寝室のベッドの上で、璃緋都を抱きしめる。女子高生にしては大きめの胸の感触が、自分にも心地いい。 （…この人、やっぱり美月の母親だ…でも、どこかうちの母さんにも似てる…） 自分の母親ではない女性に抱かれ、そのぬくもりに優しく包まれながら、璃緋都はそう思った。 あからさまに自分が子ども扱いされているのは少し気に入らないけれども、自分から弱さをさらけ出してしまったのだから、それは仕方がない。 （何でだろう…なんで、こんなに怖いんだろう？撃たれたのは母さんなのに、何でわたしが怖いんだろう？ わたしは一体、何を知ってるんだろう？何を忘れているんだろう…？） 先ほど菜月に言った言葉…『わたしのせいで』。璃緋都自身にも、なぜそんな言葉が出たのかよく分からなかった。 （…あったかい…） おそらく、美月の母親も先ほどの璃緋都の言葉を聞いて、内心不思議に思っているだろう。けれども、目の前の菜月はそれを口に出さず抱きしめてくれる。何かに（自分にも何にかは分からないが）怯えている自分を癒し、暖めようとしてくれている。 （もしかすると、美月もこういう人なのかな…） 自分を『好きだ』といった美月、そして澄江。二人の顔が頭の中をめぐった。そうしていると、なぜか涙が頬を伝っていくのが分かった。 怖いからでも怯えているからでもない、嬉しいから流れる涙。 （…っ！？） そうしていると、突然璃緋都は何かの違和感を感じた。同時に、菜月のほうも『えっ？』という顔をしていた。 （…なっ、ま、まさか…いまごろっ！？） （えっ！？り、璃緋都ちゃん、下半身が何か膨らんできたような…っ！？） 璃緋都が体を離すよりも、菜月が璃緋都の体に手を回すほうが少しだけ早かった。 『むぎゅっ』という感触が、菜月の手に伝わり、同時に璃緋都が『うっ』と声を上げていた。 （…な、な、ななな、何コレっ！？…り、璃緋都ちゃんて男の子だったの！？ …でも考えてみれば胸あるわね。しかも同年代からすればかなり大きめの。とすると、どっちもある女の子！？） （わ、わわわ、なんで今頃よりによってこんなときに生えてくるのッ！？ど、どうしよう、いきなり握られちゃった、握られちゃったぁ〜〜！） 二人の時間が停止する中、無言のまま交錯する驚愕と焦燥。しかし…。 （…あっ、ど、どうしよう…よく分からないけど、ぬ、濡れてきちゃった…。年甲斐もなく、年下の、しかも女の子相手に興奮しちゃってる…！？） 停止した時間を切り裂いたのは菜月のほうだった。彼女はすばやく明かりを消すと、璃緋都を部屋の床に押し倒してしまうのだった。 「あ痛ッ！」 背中が床に追突し、璃緋都は思わず声を上げた。目の前には自分を押し倒した菜月がいる。美月のときは自分から挿入したが、今度は璃緋都が下にいる。完全に逆の立場だった。 （…や、やだ…わたし、美月のお母さんにまで犯されるの…っ！？なんで、わたし勃ってるの！？） ありえない興奮の中、璃緋都の精神は半ば錯乱してしまっているのだった。 |
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| 2008.12.20掲載 |
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