| ２２ 波紋は広がる 「…璃緋都、大丈夫？」 顔を伏せていた璃緋都に声をかけたのは、美月だった。大切な人の死と、自分の体に起こった悲劇。 璃緋都は、唐突にそれらを思い出したことになる。今まで何もかも忘れていたのに…。 「…当時のわたしは、風花さんが言ったように廃人のようになっていた…自分を襲った出来事に立ち向かうことも、逃げることもできなかった。だけど、今は違う」 そう言いながら、ゆっくりと顔を上げる璃緋都。その胸には、いつの間にかあの本が抱かれている。 「…彦にいがわたしを守ってくれる。わたしはすべてを受け入れようと思っている。そして何よりも、美月も澄江も風花さんたちも…みんなが傍にいてくれる。だから、大丈夫」 その目じりには涙を溜めていたものの、璃緋都のまなざしは強かった。 「…でも、これからどうしよう？明らかに璃緋都が狙われると分かった以上、ここを動くのは危険かもしれないし、かといってここでじっとしていても何も進展しないだろうし」 「犯人については、全力で捜索している。しかし、手がかりが多いにも関わらず、いまだ網に引っかかっていない」 そう言ったのは風花である。 （そう、手がかりは多いんだ…。神楽都志彦によって抉られ隻眼となっているし、彼が壊した犯人のカメラからは指紋も出た。何よりも、璃緋都を散々陵辱したんだ。ＤＮＡだって出ている…） 風花は拳を握り締めていた。これまで、自身の情報網にかからなかった相手はほとんどいない。 どんな件でも、大抵は一週間、長くても数ヶ月で情報が入ってくるものである。しかし、今回は数年にわたって何の情報もないのだ。 そして、現在でも犯人は生きている。悠々と暮らしているように見えて、殺害し損ねた璃緋都に怯えている。 だからこそ、彼女の命を狙っているのだろう。 （風花さんって、何者なんだろう…？） 怒りに声を震わせる風花の言葉を聞きながら、璃緋都はそんなことをふと思った。 確かに会社の社長であり、普通の女性とはちょっとかけ離れた環境にいるだろうが、貿易会社の社長が『全力で捜索している』という言葉を吐けるものだろうか？ （…ううん） そこまで考えて、璃緋都は首を横に振った。 （何があったって、どんな人だって…風花さんは風花さんよね。わたしがわたしであるように） （…とりあえず、璃緋都に関しては、もう大丈夫みたいね） 自分が陵辱されたという事実を受け止めた璃緋都を見つめつつ、美月はそんなことを考えていた。 （あの本、確かに奇妙だけど…でも、璃緋都の体も心も救ったんだわ） 璃緋都の胸に抱かれた分厚い本。どこの国の言葉で書かれているのかすら分からない。 この本を読んだ者たちが悉く性欲を刺激され、人によっては若返ったり処女を取り戻してしまったりしている。 （非現実的の嵐だけど…でも、あの本には感謝しなくちゃならないのね。だって、わたしの処女は璃緋都が奪ったんですもの！） 「…璃緋都のお母さんが撃たれたということは、璃緋都が狙われている、と考えていいんですよね」 美月が眼を輝かせている隣で、澄江が言った。 「そうだな。当時の犯人が璃緋都の命を狙っている可能性は高い。こういった事件は、被害者側が表ざたに出さない場合もあるそうだが、あの事件は、璃緋都のことは表に出されず、『神楽都志彦』が殺害された殺人事件として表ざたになった。人が一人死んでいるんだから当然といえば当然だ」 風花の言葉一つ一つがとても重く感じられる。年月が経過しているとはいえ、璃緋都にとってはまだ最近の出来事だ。 犯人が璃緋都の『始末』を考えるのは当然なのかもしれない。 （おそらく、璃緋都自身は犯人の顔を覚えてはいないだろう。隻眼ではあるが、義眼を入れている可能性もあるし、整形してしまっている可能性すらある…だが、犯人は未だに璃緋都を狙っている…） 「…でも、犯人が今でもわたしを狙う理由は…。わたしは、相手の顔なんて覚えていないし、覚えていたくもない」 風花と同じ疑問を呟いたのは、璃緋都自身だった。 「実際、わたしや口縄家の人間が護衛している間、璃緋都が襲われたこともあった。そういうこともあって、登下校に防弾ガラス張りの車を使うようになったんだ。犯人をあぶりだすために、わざと目立つ車を使って」 （そういう経緯だったのね） 璃緋都は、妙に納得してしまっていた。あの豪華な車での送迎は、そういう理由があったのである。 「…ちなみに、あの車の運転手は、お前に頭が上がらないようだが、柔道三段、空手二段、合気道初段のつわものだぞ？」 「…はっ！？」 風花に言われた璃緋都が思わず声を上げた。あの運転手は若いし体も大きいが、どこか間の抜けた印象があるのだ。 「…でも、なんで今の今まで璃緋都さんが狙われるのかな？もう年月が経っているし、眼が片方ないっていっても、璃緋都さんを狙う理由がないと思うんだけど。整形手術でもして一般人に紛れ込むには、十分な年月だと思う」 「…例えば、容易に立場を替えられない地位にいる人間が犯人だとか…？」 澄江の質問に答えたのは、今まで黙っていた弓華である。 「そして、璃緋都さんも知らないような、犯人に直結する証拠を璃緋都さんが握っている、とか…」 （殺害を企てていることからも、璃緋都さんに味を占めてもう一度手をかけるために狙っているわけじゃないみたいだし） 「…弓華、その考え、間違っていないかもしれない」 何気なく言った弓華の言葉に、風花が反応した。 「えっ？」 「…世間一般で有名な人間や社会的立場がある人間がが、突然整形したり行方をくらませたり隻眼になったりしたら、誰もが疑問に思うだろう。軍人、政治家、芸能人…そういった人間かもしれない。またそういう人間だったら、自分から手を下さずに、狙撃できる人間を金で雇うのも不可能ではない…」 風花の言葉に、弓華が唾を飲んだ。 （…そう、わたしは肝心の犯人の顔をよく覚えていない…） 風花に真相を聞かされた璃緋都は、最初は驚いたものの、時間を置くにつれて冷静になっていった。 それは、自分でも驚くほどのものだった。先ほど自分も言ったように、陵辱されたことよりも、自分の大切な人が殺害されたことに憤っている。 風花も真夜も、彼を殺害し…そして今も尚璃緋都を付けねらう犯人を追っているのだ。 （…彦にい、わたしは…） 胸元に抱いた本を見下ろした璃緋都は、その中になぜか、都志彦の遺志を感じていた。 「璃緋都」 物思いに耽っていた璃緋都に声をかけたのは、風花だった。他の面々も、心配そうに顔を覗きこんでいた。 その雰囲気は、先ほどまでこの部屋が女性だらけの淫行会場になっていたとは思えないものである。 「…お前に、あってほしい人間がいる。その人間ならば、お前の記憶を完全に取り戻すこともできると思う」 「…それはひょっとして、わたしの記憶を消した人ですか？」 璃緋都の返答に、風花は無言のままでうなずいた。彼女は、自分の記憶を消した人間を知っている。 そして、その人間ならば、いまだ奥底に眠っているであろう記憶を呼び覚ませる、というのだ。 「…分かりました。美月、澄江。支度して」 返答と同時にソファを立った璃緋都が二人に言った。それを聞いた美月、澄江は思わずソファから飛び上がった。 「え？わ、わたしたちも行くの！？」 「…当たり前でしょ。わたしは、それが一番自分のためになると思ってる。だから一緒に来てほしいのよ」 璃緋都の言葉は素っ気無かったものの、その傍らで風花がどこか嬉しそうにうなずいていた。 「では、明朝にしよう。この部屋が酔っ払いの巣窟になってしまったからな」 自分のせいなのを棚に上げた風花がそう言った。 翌日早朝、お付きの執事兼運転手である島田光次郎が呼ばれ、例の車が車庫から出された。 璃緋都の父、口縄誠吾はその日、帰宅しなかった。 豪邸の玄関前に出されると、閉ざされた門の前に報道陣が集まっていた。 事件から数日しか経っていない今、撃たれた燈子の肉親である璃緋都の意見を聞きたくて仕方ないのだ。 （昨日の銃撃は、気づかれていないらしいな） 消音装置がつけてあったのだろうか。銃声が響けば、先日の事件に敏感になっている報道陣が騒がないはずがない。 璃緋都は、堂々と玄関から姿を晒していた。燈子が銃撃され、入院して以来の外出なのだ。 それまでは、神奈川が出す仕入れの車や執事が質問攻めにあっていたようだが、璃緋都自身が受け答えをしたことは一度もなかったのである。 「…真夜さん、美月と澄江と弓華を頼んでもいいですか？」 「ええ」 風花の言葉に、真夜が二つ返事でうなずいた。 「後部座席は、わたしと聖架で璃緋都の左右を固めよう。後部座席に人を詰め込むのは危険かもしれない」 （あははは…聖架さんの車に乗らなくて済むのは助かったわ、本気で、冗談じゃなくって…） 真夜に連れられて裏口に歩き出した美月と澄江が顔を見合わせて苦笑するのだった。 「…いえ、わたしは助手席に乗ります。風花さんたちは、後部座席に乗ってください」 そんな中、璃緋都が思わぬ一言を告げた。 「外の報道陣は、わたしの話を聞きたがっているでしょうし、父さんも母さんもいない今、わたしがしっかり受け答えないと…」 「…いいのか？」 さすがに、風花も驚いたような表情だった。 「過去の事件については、もちろん話したりしないですけど、でも…何があっても、わたしはわたしです」 璃緋都は、強い口調でそう言った。 「…それを気づかせてくれたのは、あの二人、そして…この本にいる彦にいなんです」 璃緋都は、大事そうにあの本を抱きつつ、裏口を目指す美月と澄江の背を見送った。 大きく開いた門に、報道の人間が殺到していた。それでも、璃緋都は緊張する心を抑えつつ、胸を張っていた。 窓を開けると、思ったとおりの質問が飛び込んでくる。どれもこれも、璃緋都の心情を省みない質問ばかりである。 これからどこに行くのか、会社の方針はどうなるのか。父も母も生きているというのに、無神経な連中だ、と思う。 璃緋都が当たり障りのない答えを返していると、いたたまれなくなったのか、運転手が窓を閉めてしまった。 『もう答える必要はない』の意思表示だ。 「島田さん、助かります」 ゆっくりと門を通り過ぎたあとで、璃緋都はそう言った。 「えっ？あ、はい、どうも」 素直に礼を言われた島田が、大いに慌てふためいていた。 （なんだか、お嬢様の印象が前と変わったような…？） 自分が運転手をするようになってからまだ数年ではあるものの、島田はそんなことを思っていた。 運転手として勤務するときに、『いざとなったら君が璃緋都を守ってくれ』と当主の口縄に言われ、首をかしげたものだった。 当時の璃緋都は、よほど送迎の車がつくのが嫌だったのか、あからさまに不機嫌な顔をすることが多かった。 口数が多くない島田は、璃緋都にあれこれ話しかけて気持ちを解きほぐそうとしたものだが、反対に睨まれることが多く、辟易したものである。 しかし今はどうだろうか。緊張した面持ちではあるが、不機嫌そうな表情ではない。 （…以前お連れしたこの女社長さんが、璃緋都お嬢様を変えた、ということなのかな？） この運転手も、真に璃緋都を案じていた一人なのだ。もっとも、彼女に何があったかまでは知らないのだが。 『…先ほど、銃撃された口縄財閥の夫人の長女『璃緋都』さんが、車で屋敷を出発しました』 「…え？」 テレビから流れてきたその声に、内藤菜月は思わずそちらを向いていた。 目に飛び込んできたのは、大勢の報道陣に質問攻めに合う璃緋都の姿だった。 （璃緋都ちゃん…） 菜月は胸を痛めたものの、テレビの中に映る璃緋都は、緊張しつつも記者の質問一つ一つに答えていた。 あのとき菜月に見せた、不安そうな顔、恐怖に満ちた顔はどこにもない。むしろ強い決意のようなものを伺わせる表情である。 （…璃緋都ちゃんは、割と人嫌いなところがあると思ったけど…でも、今のあの娘は、いたって堂々としていた…） あの夜、自身と交わったときの璃緋都とは、まるで別人のようだった。質問に対する受け答え自体は、当たり障りのないものだったが、以前の璃緋都ならば、家に閉じこもったまま出ようとは思わなかっただろう。 「…あの娘は、自分で強くなろうと…変わろうとしてるんだわ」 菜月が呟いたとき、電話が鳴り響いた。 「…はい」 『…内藤さんですね。貴方に会って頂きたい方がいます』 電話に出た菜月を、聞きなれない男の声が迎えた。 「え？あなたは誰で…」 突然浴びせられた言葉に、菜月は当惑しつつ言葉を返す。『会って頂きたい方』といわれてもピンとこない。 『…貴方は、璃緋都さんの味方ですね？』 「璃緋都ちゃんの…？」 つい先日まで、美月から名前を聞いたことがあるだけの存在である璃緋都。菜月も、よくあるお嬢様だと思っていた。 しかし、先日見せた怯えの表情にはただならぬものがあった。自分の知らない何かに怯えている。そんな彼女。 「…はい。わたしは、あの娘を守ってあげたい」 なぜかは分からなかったが、菜月はそう答えていた。先日の、燈子が撃たれた件にも菜月は関わっている。そのこともあり、より強く『璃緋都を守ってやりたい』という想いがあったのかもしれなかった。 そして、ひょっとしたら『璃緋都に会えるかもしれない』という期待感もあったのだ。 先ほどのニュース速報によると、璃緋都は車でどこかに出かけたらしい。もしかしたら、自身が呼ばれる場所と同じ場所かもしれない。 『…では、迎えをやりますので、こちらの指定する場所にご足労ください』 相手の声に、菜月はすぐさまペンを取った。 |
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| 2009.8.19掲載 |
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