| ２３ 事件再び 久瀬鎌足（くぜ かまたり）は、仏頂面のまま机の上に新聞を広げていた。 今日の新聞ではない。かなり前の新聞である。その紙面の一つの記事には、よく分かるように赤い枠で囲ってあるものがあった。 『Ｓ市少年殺人事件・現場に犯人の眼球』 当時、この事件を担当したのはこの男である。 久瀬鎌足、四十歳。現職の警部。『足で探す』を体現したような人物であり、よく古臭いといわれるが部下の信頼は篤い。 彼が足で探した事件のほとんどが解決していることを、周りも評価しているからだ。 彼が扱った事件の中でも、今見ている記事の事件は特異なものだった。 殺害された少年は『神楽都志彦』。近隣の中学校に通っていた。 神楽都志彦は、暴漢ともみ合った際に犯人の片目を無我夢中のうちに抉り取り、激昂した犯人に殺害されたと見られている。 抉られた眼球は現場ですぐに見つかり、ＤＮＡ鑑定を含めた重要な証拠として保管されている。しかし、一向に犯人が網にかからない。 最初、久瀬はこの事件を軽く見ていたところはあった。ＤＮＡは出ているし、何よりも犯人は片目を失っているからだ。 しかし、片目の男の目撃情報も出ないまま、時が経ってしまっていた。 そして、不自然な点がまだある。この少年が殺害された現場に誰かが暴行を受けた形跡があったのである。 女性の体液と、男の精液。男のほうのＤＮＡは、眼球のＤＮＡと一致している。 そのため、捜査本部では、 『犯人が女性を暴行していた際に、神楽都志彦が助けに入り、反対に殺害されてしまった』という意見が支配的になった。 ところが、その女性が名乗り出なかったのである。 さて、この女性については、久瀬はすでに見当がついている。 いくら男とはいえ、ただの中学生が見ず知らずの女性を助けに入るか、と考えたのだ。そこで、久瀬とその部下たちは、神楽都志彦の身辺を調査した。その結果、彼と仲がよかった少女を見つけたのである。 その名前は口縄璃緋都。なんと、近隣にある大財閥の当主の一人娘だった。 警察は何度も当主の口縄誠吾に掛け合ったが、『親友だった都志彦が亡くなったため意気消沈している』と、璃緋都にあわせてはくれなかった。 （…この事件、絶対にあの財閥の娘が関係しているはずなのだ） そう思った久瀬は、今度は捜査の焦点を璃緋都に向けていた。 高校に通い始めた璃緋都は、物々しいとも思える車で送迎されていた。これを見た彼は『やはり』と思ったものである。 （…口縄璃緋都は、間違いなく犯人を知っている。見ている…） 財閥の当主ともなれば、世間体を気にするのは当然である。また、ましてや強姦されたとなれば、本人だって名乗り出づらいに決まっている。 （そして、先日の奥方の狙撃事件だ…） あの時、何故自分が事情聴取に行かなかったのか、と悔やまれた。璃緋都本人に話を聞けるいい機会だったというのに。 「だが、これで確定したようなものだ…犯人はまた必ず、あの璃緋都という少女を狙うはずだ」 外出の護衛は口縄の人間がやってくれる。口縄家としても、できれば警察を間に挟みたくはないだろう。 娘に起こった事件を表に出したくないからだ。 「…警部、警部」 考え事をしていた久瀬を、部下の刑事が呼んだ。 「警部にお電話です」 「…俺に？…はい、お電話代わりました」 受話器を取った久瀬の耳に、聞いたことがない男の声が聞こえた。 『…久瀬警部ですね。あなたに是非会って頂きたい人がおります』 「…何？あんたは一体誰だね？」 『…『神楽都志彦』、と名乗ればお分かりいただけると思います』 「何だって！？」 名前を聞いた久瀬は、思わず椅子から立ち上がっていた。神楽都志彦は、すでに死んだ人間である。 『…お出でいただけますね？貴方が知りたいことがいくつかご理解いただけると思います。私は、私を殺した犯人を憎んでいます。是非に、探し出していただき、法の下に裁いて頂きたい』 「…よし、いいでしょう。場所は…？」 『神楽都志彦』を名乗る誰かからの電話に、久瀬の心は躍った。勿論、神楽都志彦の名前をかたっているだけであろう。 そうすれば、久瀬がこの電話に興味を持つと踏んだからに違いない。相手の意図に乗ることに若干腹を立てつつも、久瀬は身支度を始めた。 久瀬鎌足がこの事件に足踏みしているのには、もう一つ理由がある。 数ヶ月前、突然に捜査本部が解体されてしまったのである。上司から捜査陣の解体を言い渡されたとき、彼は部下と共に必死になって食い下がったが、聞き届けてもらえなかったのである。 （…あの時、確かに別の大きな事件があって、俺はそちらに回された。だが、何もこの事件から手を引かせる必要はなかったはずだ） そういう経緯もあって、神楽都志彦の事件については、捜査本部解体をもって迷宮入りになってしまっている状態なのである。 しかし、この男は事件の解決を諦めてはいなかった。 大切な女性を守るべく、相手の眼球を抉るほどに抵抗した少年の正義に応えたかったのだ。 そして、捜査本部が解体された直後、彼ら捜査陣は当然のように一つの仮説を立てた。 『何らかの圧力がかけられたのではないか』ということである。 警察に圧力をかけられる人間はそうはいない。久瀬は、国会議員や閣僚といった人間、あるいはその身内に眼球を失った人間がいないかどうか探し回った。 しかし、何しろもう時間を経てしまったことである。義眼を作るだけの時間は過ぎてしまい、未だ発見には至っていない。頼れるのは璃緋都という少女だけなのだが、これもまた会うことができない。 電話でアポを取ろうとしても、両親や執事が断るし、璃緋都の外出は車で、接触ができないのだ。 事件に関わったという確定的な証拠がない以上、任意同行を求めるわけにもいかない。 そして、捜査本部が解体された事件にいつまでも関わっていることはできないし、他の事件も起こる。 そういうわけで、八方塞だった状況にこの話だったのである。 （…鬼が出るか蛇が出るか、か。何の企てがあるかは分からないが、『神楽都志彦』を名乗るからにはそれなりの理由があるはずだ） すぐさま覆面パトカーに乗り込んだ久瀬は、指定された場所へと急いだ。 「…って、ここはＹＴＣじゃないですか」 車を降りた璃緋都の目に飛び込んだのは、以前にも何度か来た事がある風花の会社、ＹＴＣだった。 璃緋都は若干緊張した面持ちだったものの、普段よりむしろ落ち着いた印象すらあった。その胸には、あの本が強く抱かれている。 真夜が言った『この本には神楽都志彦の魂が宿っている』の言葉が、そうさせているのだ。 「ここの社長室に、呼んである。もう来ているはずだ」 「…分かりました」 「お待ちしておりましたよ、社長。それに…久しぶりですね、璃緋都お嬢様」 社長室に入った璃緋都を迎えたのは、三十代くらいと思われる男だった。 （…あれ？この人、わたし前に…会ったことがある） その顔立ちに、璃緋都は確かに覚えがあった。いつどこで会ったのかは分からないが…。 いや、男のほうは『久しぶり』と言ったのだから、実際にあったことがあるのだろう。そして、風花が言ったことが正しければ、この男こそが璃緋都の記憶を消した本人なのだ。 「私は『氷室』と申します。もともとはここの社員でしたが、今は探偵事務所を開いて細々とやっている身です。後から来る八坂君は、うちの探偵事務所の所員なのですよ」 （そういうことだったんだ） 先日の宴会騒ぎでうやむやになっていたが、璃緋都たち三人は真夜のことをまったく知らない（同じく弓華のこともだが）。 気がついたら『いた』程度のレベルなのだが、事件についてはやけに詳しかったし、璃緋都を守ろうとしている感もあった。 もし彼女がこちら側…璃緋都の記憶を消した側サイドにいたとすれば、それは納得がいくことである。 「…失礼します」 氷室の話の直後、遠慮がちにドアが開かれ、真夜と弓華、そして美月に澄江が姿を現した。 「…ここに呼んであるのはあと二人。それまでに、大体のことをお話しましょうか」 氷室の言葉に、璃緋都はうなずいていた。 ふと両手を誰かが握ったのを感じて、璃緋都は左右を見回した。彼女の左右には美月と澄江がいつのまにか立っていた。 二人とも、璃緋都の手を握っている。璃緋都はそれを拒もうとはせず、むしろ握り返す。 正直、氷室の話を聞くのは怖い。すでにほとんどの記憶は蘇っているものの、改めて確認するのが怖いのだ。 自分の体に起こったこと。散々に陵辱され犯されたこと、大切な人を殺められたこと、廃人同様となった自分…。 （…この二人の前で、みっともない姿を見せることはできないもの） 頭の中を様々なことがめぐるのを、璃緋都は軽く頭を振って振り払った。 「…とはいえ、私自身が貴女にかけた記憶消去は、ほかならぬ貴女自身がほとんど解除してしまったようですね」 「…はい」 璃緋都は、氷室の言葉にうなずいた。彼女の頭の中には、あのときの恐怖の記憶が渦巻いている。 まず顔をはたかれ、体の自由を奪われてから服を脱がされ…そして、自分の体が汚されていく一部始終が蘇ってきている。 「でも…今になってまだわたしが狙われている理由も含めて、わたしは何かをまだ忘れているんだと思います」 璃緋都は、強い口調でそう言った。 「それが、彦にいを…殺めた犯人の記憶なのかどうかは、わたしにも分かりません。あるいは、今思い出したよりも、もっと酷い目にあったことを忘れているだけなのかもしれない…」 「怖くはないのですか？」 氷室の質問は、とても優しかった。 「…怖いです。怖くないわけがないんです。でも…わたしが忘れている限り、わたしは誰かに狙われる。犯人はわたし以外の誰かを狙うかもしれない。わたしと同じ苦しみを持った人間を、これ以上増やしたくありません」 「…璃緋都ちゃん、強くなったわね」 璃緋都の言葉の直後、社長室の扉が再び開いた。 「お母さん、何でここに！？」 振り返った美月が飛び上がって驚いた。そこにいたのは、美月の母菜月、そして中年の精悍な顔つきをした男であった。 「…貴方は？」 そう質問したのは、聖架である。その言葉に、男はスーツのポケットから黒い手帳を取り出した。 警察手帳である。 「県警の久瀬警部です。以前、『神楽都志彦氏殺害事件』の担当をしておりました。社長、お久しぶりです」 「お久しぶりです。久瀬警部」 自己紹介の途中で風花に気づいた久瀬が、彼女に頭を下げた。どうやら、顔見知りであるらしい。 「貴方は、誰に呼ばれて来たのですか？」 風花のその質問に、璃緋都たちは素直に驚いていた。てっきり風花か、でなければここにいる氷室が呼んだのだと思ったのだ。 菜月が久瀬を呼ぶ理由はないし、真夜もきょとんとしている。 「それがどうも…信じられない話なのですが」 風花の質問に、久瀬が頭を掻いた。 「…『神楽都志彦』を名乗る少年に、ここに来るように、と場所を指定されたもので」 「…『彦にい』に…！？」 その言葉に、今度は璃緋都が声を上げた。 （…『彦にい』、か。やはり、このお嬢様は事件にかかわりがあったようだな…） 璃緋都の言葉を、久瀬警部は聞き逃してはいなかった。思ったとおり、璃緋都と神楽都志彦は親密な仲であったらしい。 （口縄璃緋都をはじめ、なぜこの場所にこんな人数が集まったのかは分からないが、彼女に話を聞ける機会は、今を除けばもうないだろう。ここで聞けるだけ聞いておかなければ） 自分をＹＴＣに呼んだ少年が何者なのかは分からない。しかし、風花の身元は信頼できる。 「貴方は、現職の刑事さんでしたか」 目の前の氷室裕が言った。久瀬は内心苦笑した。この男のことはよく知っている。昔ひと悶着あったからだ。 無論、氷室も自分のことはよく知っているのだが、その気配を一切見せていないのは『さすが』だと思ったものである。 「ええ。何故これだけの人数がここに集まったのかを含めて、話を聞かせていただこうと思います。…『神楽都志彦』氏を殺害した犯人を逮捕するためにも。そして、神楽都志彦氏の正義に応えるためにも」 （…彦にいは、わたしを助けるために命を落とした。この刑事さんは、その彦にいの勇気に応えようとしているんだ） 璃緋都は、刑事の言葉を受けて強くうなずいていた。顔は知らなくても、こんなところにも味方がいたのである。 「…璃緋都さん、私が貴女の記憶を消したのには、二つ理由がありました」 静寂の中、氷室が口を開いた。 「一つは、大切な人を失い廃人同様になっていた貴女を、事件の記憶を消すことで救うためです」 「…今なら、思い出せます。わたしはあの後…何日も泣きはらし、父さんの目の前で自殺を図り、彦にいの写真を見るたびに発狂したように叫んで…最後には、飲まず喰わずで一言も喋らず、動かずに…死んだようになっていました。 もし、あなたがわたしの記憶を消してくれなかったら…わたしは、それから数日も持たずに死んでいたんだと思います」 璃緋都の瞳から涙が溢れた。彼女はそれを拭おうとはしなかった。 「…もう一つの意味を、教えてもらえますか？」 璃緋都の言葉に、氷室がうなずいた。 「もう一つの意味は、『神楽都志彦』さんの記憶そのものを消してしまうことで、二度と事件を思い出さないようにするためでした」 「…二度と…？」 現時点で、自分はこうしてほぼ全てを思い出し、そして目の前には氷室がいる。 「ええ。勿論、貴女の命を守るため、というのもありましたが、貴女にあった事件のことを、貴女自身が誰かに話すのを防ぐため…そういう意味合いも強かったんだと思います」 （…それはうなずける話ね…。当時のわたしが誰かに話すことはまずなかったと思うけど、誰かに強く聞かれたら答えてしまったかもしれない。そうなれば、父さんや母さん、この財閥に傷がつくかもしれない…） おそらくは、その要望は両親が出したものなのだろうが、璃緋都は両親を憎む気持ちにはならなかった。 自分たちが築き上げたものを崩されるのを恐れただけではなく、将来璃緋都が背負うべきものを守った形でもあるのだ。 「結果的に、貴女は『神楽都志彦』という人物そのもの…彼が存在していた、という事実すら忘れていた、といことになります」 「…はい。わたしは…とても大切な人の名前も姿も…何もかもを忘れていたんです」 ここではじめて、璃緋都は涙を拭いた。彼女にとって何よりも辛かったのは、『神楽都志彦』のことを忘れていた、ということなのだ。 （…なるほどな。つまり、このお嬢様を捕まえて話を聞くことに成功したとしても、ヤツに記憶を消されていた、ということか。こういう事件は、後々まで禍根を残す…犯人が味を占める場合も多いからな） 久瀬は、何も言わなかったがすべてを理解できていた。目の前の璃緋都は、事件についてすべてを忘れていたのだ。 自分が陵辱されたことも、神楽都志彦が殺害されたことも。周りの人間も、彼女にそれを思い出させないように骨を折ったことだろう。 （…そして、それらに加えて犯人がまたお嬢様を狙うことを危惧し、登下校には車を使うようになった、ということか） 氷室が今、久瀬の目の前で話をするということは、『貴方の推測は正しかったですよ』と暗に示しているということでもある。 璃緋都本人の目の前で『この少女は自分が陵辱された事件を忘れていました』と話したり、あるいは璃緋都本人に話させたり、というのを避けたのは、氷室なりの優しさなのだろう。久瀬もそれを汲み取った上で、何も言わなかったのである。 「貴女の記憶はもう、ほとんど戻っていると思います。聞いた話では、社長の言葉ですぐに彼のことを思い出したそうですね。貴女は、それだけ彼のことを…神楽都志彦さんのことを気にかけていた…」 「…わたしの、『初めての人』ですから」 璃緋都のその言葉を聞いた美月と澄江が、再び手を握りなおす。神楽都志彦に嫉妬したのではなく、純粋に璃緋都を支えようと努力した結果である。 その時、久瀬は、自分の携帯電話が震えているのに気づいて、ポケットから取り出した。 「…失礼…久瀬だ。何かあったのか？」 受信ボタンを押して、耳に押し付けると、部下の声が響いた。酷くあわてている様子だった。 『警部、殺しです！』 その言葉を聞いた久瀬は、内心で苦笑した。殺された人間には悪いが、いつものことだ。 「…一体、誰が殺されたんだ？」 しかし、彼は部下のあわて方を不思議に思ったため、静かにそう聞き返していた。 『…国会議員の秘書の男が被害者ですが…彼が秘書を務める国会議員が、義眼であることが分かったんです』 「…なんだと！？」 部下の報告を受けた久瀬は、場所をわきまえずに怒鳴っていた。もちろん、国会議員が義眼だからといって璃緋都の事件に直接結びつくわけではない。たまたま、ということもありうる。 「その国会議員に話は聞けたんだろうな？」 『…それが、行方不明なのです。国会議員が秘書を殺して逃げたのでは、という意見がもう出ていますが…ひょっとしたら、この件は『例の事件』と関わっているのではないかと』 部下も部下で、璃緋都…いや、『神楽都志彦』の事件を気にしていたのである。 「…よし、至急その国会議員の毛髪でも何でも回収して、DNA鑑定に回すんだ！俺もすぐに行く！」 殺害されたのは国会議員の秘書だった。しかし、彼が仕える国会議員が義眼だという。 もちろん、義眼だというだけで神楽都志彦殺害と結びつけるわけにはいかなかった。 しかし、国会議員のDNAが現場にあった義眼や、璃緋都を陵辱した際の精液からのDNAと一致すれば、動かぬ証拠となるのだ。 「何か起こったのですか？」 そう聞いてきたのは、雪村風花だった。 「…神楽都志彦さん殺害の犯人に関する手がかりになるかもしれない事件が起こりました」 「…えっ！？」 さすがに、このタイミングでのその言葉は、風花をも驚かせていた。 「私は、今からそちらのほうに回ります。…お嬢さん、貴女に刑事の護衛をつけます。構いませんね？」 『刑事の護衛』という言葉に、璃緋都は一瞬たじろいだ。しかし、璃緋都はうなずいていた。 「…あの、わたしたちは…」 「…遠慮しろ」 頬を膨らませた美月と澄江に、風花がそう言った。 |
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| 2009.9.2掲載 |
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