| ３２ 二つの消滅 その視線の先には、璃緋都があった。かつての事件の被害者。自分が凌辱した少女である。 もちろん、『彼』はこれまでに数多くの女性たちを手にかけてきた。ここには璃緋都を含めて女性が多数いる。 その中から璃緋都を選んだのは、彼の記憶の中に…あるいは徳永の記憶のなかに璃緋都という存在があったからなのだろうか？ 「…駄目だ、逃げろ！」 はっ、として修平が叫んだものの、徳永…いや、つい先ほどまで『徳永だった誰か』は猛然と璃緋都に向かって走り、その腕をわしづかみにしてねじり上げた。 「きゃああっ！？」 悲鳴を上げる璃緋都、もう片方の腕はすでに璃緋都の胸元にまで伸びている。 「まだ生きていたというの！？」 続いて真夜が声を上げた。 「貴様、やめろ！」 現状は飲み込めてはいないが、ただ事ではないと感じた久瀬警部が飛び掛る。しかし、『血塗れの男』は久瀬警部の豪腕すら問題ともせず、邪魔そうに振り払ってしまった。 「嫌！やめて！」 『お前を…お前を犯せば…お前の体を犯せば、まだ生きていられる…』 そんな言葉が、璃緋都に聞こえた。 （駄目…わたし、また犯される…！彦にい…） 信じられない力に、璃緋都の服が今にも引き裂かれようとしていた。その後に何をされるのかは、璃緋都は…過去に身をもって体験している。 「おっらああぁぁぁぁ！！」 璃緋都が眼を閉じた瞬間、怪鳥のような声、そして『ごいん』というすごい音が響いた。 同時に、自分を締め上げていた腕の力が緩んだ。 「璃緋都っ！」 すかさず、美月と風花が璃緋都の体を引き戻す。 男は再び、血だまりとなった床に倒れこんだ。 「す…澄江…っ！」 風花に抱き締められた璃緋都が振り返ると、そこには、どこから持ってきたのか、花瓶を片手に立つ澄江がいた。 声を上げた直後、璃緋都は強い力で引っ張られた。同時に風花が自分の体を離す。 「璃緋都…！わたしの、わたしの璃緋都…っ！」 「お、お母さん…」 燈子だった。神楽都志彦の助言によってここを割り出した燈子と澄江は、間一髪間に合ったのである。 燈子は、澄江に殴られて床に倒れた男を一瞥した。その瞳には軽蔑の念が篭っているのが、誰の眼にもわかった。 いや、軽蔑だけではない。憎しみ…そして殺意までもが篭っていた。 「…お前が…！お前が、わたしの璃緋都を…璃緋都の人生を…っ！」 そう言いながら一歩踏み出した、その時、再び男が起き上がった。 「えっ！？」 死んだと思って油断していた燈子は、男の動きに反応できなかった。そしてその右腕は、燈子の胸にむかいまっすぐ奔った。 「お母さん！」 「燈子さん！」 璃緋都と菜月が同時に悲鳴を上げた。 何かが鋭いものに貫かれる音がした。燈子は顔を覆ったまま床に座り込んでいた。血は出ていない。苦痛もない。 一瞬、自分が死んだのかと思った。璃緋都のために死ぬならばそれもいいかな、と思ったくらいだった。 しかし、現実は違った。 「…ひ…彦にい…」 男の腕には、あの分厚い本があった。璃緋都も燈子も久瀬警部も風花も、その場にいた誰もが目を疑った。 凶器となった腕は、燈子を庇うように飛び出した本を…『神楽都志彦』が宿る本を貫いたのである。 「修平、今よ！」 「分かってる！」 真夜に促された修平が、異形の男に走った。その拳が力強く振り上げられた…。 「…ば、化け物…」 菜月が、美月が床にへたりこんだ。修平の拳に止めを刺された徳永の体は、動かなくなった直後、灰のようになり、そして消えてしまったのである。 「一体何が起こったんだ？」 現役の警部である久瀬は、目の前で起こった非科学的かつ非現実的なことを未だに信じることができなかった。 瀕死の男が起き上がり、本が自分から飛び込んで燈子を庇い、そして人間が灰となって消えていったのである。 「…何故、わたくしを…庇ったのですか？わたしはあなたを…憎んでいたというのに」 開いたまま床に落ちた本を手にすると、燈子は語りかけていた。 『本』には大穴が開いていたが、飛び掛った際に開いたのか、数ページ分は無事に残っている。 「彦にい…！」 璃緋都が本を覗き込んだ。大穴の周りには血がついている。もちろん徳永の血であろうが、穴の大きさからしても、まるで本が流した血のように見える。 『璃緋都…俺、璃緋都が好きだ。だから…同じく、璃緋都が愛する人がいなくなったら…璃緋都が、悲しむから』 どことなく、弱弱しく感じられる都志彦の声。 「これは…あのときの…あの電話の声だ…まさか、この本から聞こえてくるのか？」 久瀬警部もようやく状況を理解したようだ。いや、理解できない状況ではある。この声は、かつて自分に『神楽都志彦』名義で電話をしてきた声だ。 「それでは、あの電話は本当に神楽都志彦がかけてきたものだったのか…！」 『これで、璃緋都は…安心して生きていける。もう過去に怯えることもなく生きていける…』 璃緋都には、都志彦が笑ったような気がした。おそらく、都志彦は最初からこうなるつもりだったのではないだろうか？ 璃緋都の未来を開いておいて、自分は消え去るつもりだったのではないだろうか…？ 「彦にい…また、わたしを守って…」 『気にしなくてもいいよ。俺はどの道、死んでいたんだから。璃緋都がいつまでも危なっかしいから、俺が近くにいなきゃいけないって思っていただけだから』 「…うっ…ううっ、ごめんなさい、ごめん…なさい…。彦にいは、わたしをこんなに心配していたのに、幽霊になって本の中に入ってまで会いにきてくれたのに、わたしはずっと…彦にいのことさえ忘れていて、また…また守られて…！」 『でも、璃緋都は…大切なものを得たと思うんだ。俺と一緒にいたころにはなかったものを、確実に掴んだと思う。俺の存在は無駄にならなかった。璃緋都にとってプラスになったんだ。それだけでも…俺は、嬉しい』 「…あなたもまた、璃緋都の幸せを願っていたんですね…わたしは、ずっと…あなたそのものを、死ぬことで璃緋都を傷つけた忌まわしい存在だとしか認識していなかった…。でも、あなたはそんなわたしまで助けて…」 『俺は…そんなに立派な存在じゃありませんよ…璃緋都、会えて嬉しかった』 その声が小さくなっていく。誰もが固唾を呑んでその光景を見守っていた。 璃緋都は、弱っていく都志彦の声を聞きながらもなすすべがなかった。 （これでは、あの時と同じだ。わたしは、また彦にいを失うことになるんだ…また、どうしようもないんだ、あの時と変わらないんだ…！） 髪を振り乱して泣きじゃくる。しかしそれで現実が変わるわけではない。 「…！そうだ！」 璃緋都の後ろで、澄江が声を上げた。 「璃緋都！穴が開いてないページがあるでしょ…早くそのページを破って！」 えっ？と振り向いた璃緋都は、澄江に当惑の表情を向けた。 「で、でも…」 そんなことをしても意味がないんじゃ、という目をしている璃緋都の頬を、澄江は軽くはたきつつこう言った。 「もたもたしてないで早く！運がよければ都志彦くん助かるかもしれないわ！」 こうなると、頬に残る痛みを気にしているわけにはいかなかった。 （・・・そうだ、わたしは…今までのわたしじゃない。過去に怯えて自分を押さえ込んで…未来にも鍵を掛けている自分じゃない。 昔と違ってわたしは…支えてくれる人がいることも、頼れる人や守ってくれる人がいることも…自分が支えられる人がいることも、そして…自分自身を変えることが出来ることだって知っている…！） 璃緋都が過去の事件の後、記憶を消され、若干無気力ながらも生きていけたのは、両親や使用人、執事の人々、そして風花のお陰だし、記憶を取り戻した自分を支えたのは、雪村三姉妹や八坂夫妻、そして美月と澄江、菜月たちだ。 そして、自分の事件を解決すべく動いていた久瀬警部、さらには自分を生かすべく記憶を消した氷室。 彼女はこの事件で関わった人々に感謝していた。 そして璃緋都は、残ったページ数枚に手をかけた。まっすぐ破くべく、慎重に力をこめる。 「…でもまだ、わたしが完全に強くなるためには時間がかかりそうだから…それまでは…」 璃緋都の手が、音を立ててページを破り裂いた。 「それまでは、わたしの傍にいて…彦にい…っ！」 |
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| 2012.5.5掲載 |
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