９．

　麻里子は天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
　身に起こったことが、悪い夢としか思えない。しかし、現実であることの証しのように体の中心が鈍く疼き、麻里子を悲観させた。
（何てことをしてしまったのだろう……ああ、明彦さん、ごめんなさい）
　山根は何事もなかったように、身支度をしている。
「奥さん、そろそろ起きて下さいよ。社長のご帰還前に帰らないと」
　けだるく重い体でやっと起き上がりベッドから降りたが、とたんによろけてベッド脇に座り込んでしまった。
「おっと危ない。大丈夫ですか？」山根が駆け寄って、手を貸す。
「ええ…」差し出された山根の手を借りずになんとか立ち上がり、ふらつく足でバスルームに向かった。
　その背中に山根が声を掛けた。
「いやあ、腰を使い過ぎたんじゃないですか？　あの振りようじゃ、足腰に来ちゃいますよ。ははは」
　重苦しい気分で、麻里子はシャワーを浴び、身を整えた。着衣のまま抱かれたので、服がしわくちゃだった。乱暴に脱がされたストッキングは、大きく伝線しているので穿けそうもない。
「こりゃ、すまなかったですね。会社には何か理由をつけて、直接お宅にお送りしますから」
　出てきた麻里子の身なりを見て、バツが悪そうに山根が言った。
「ええ、そうして下さい」これで会社に帰ったら、変に思われるだろう。
「じゃあ、出ましょうか」山根が麻里子を促した。

　ラブホテル街をゆっくり転がす１台の車があった。車内には、高利貸しの佐々原と、ブランドで着飾った若い女が乗っている。
「へえ、かわいいカンジじゃん。ねっ、ここにする〜」
「わがままを聞いて、こんな遠くまで来たんだし、ホテルも選ばせてやるんだから。部屋に入って気に入らないなんて言うなよ」
「だって、近場じゃやばいんだもん。社長には返済待ってもらっちゃってるからね〜。文句なんて言いませ〜ん。社長、ありがと！」
　苦笑しながら女を見る。
（あっけらかんとしたもんだ。まあ、それでおいしい思いができるんだがな）
　前方に目を向けると、社用車らしい白の小型車とすれ違うところだった。
（営業車で昼間っからか。いい気なもんだな……ん？）
　すれ違いざまに、助手席の俯く女を見た。
（この前の女房に似てる。おとなしい良妻って感じだったが…まさか、な。それに、あんな爺さんと浮気なんてないか）
　車体の文字を見ようと振り向いたが、小型車はスピードを上げて走り去ってしまった。
（確かあの女房、麻里子って言ったよな）
　佐々原の記憶が甦る。この前は、姿態を拝んだだけで追い帰されてしまい、それさえも倉橋に咎められた。
（白くてそそられる体だった）
　恥じらいながらも、体を上気させて官能に浸っている様子を思い浮かべた。
（女好きの倉橋が驚いていたのだ。かなりの上物なのだろう。あれで帰されるなんて生殺しもいいとこだぜ）
　佐々原は、返済の滞るＯＬや女子大生を利息代わりに抱くことがある。１人の男の公然とした所有物である人妻は、好みではなかったのだが。
（人妻らしくない、小娘みたいなあそこしてたっけ。美人であの体で、人妻ってのが却って色っぽいか。ポヤっとした旦那にゃ、もったいない女だな）
「ちょっと社長、どうしちゃったの？　早く車入れてよ」
「え？　あ、ああ…」
　女の声に我に返り、空いている駐車スペースに止め、車を降りた。
（麻里子か…くそっ、倉橋に話を持っていく前に抱いておくんだった。十分楽しめただろうに）
「ねえ、あたしとエッチするってのに、別のこと考えてるんじゃな〜い？」
　駐車場からホテルの入り口へと、佐々原に腕をからめて歩く女が、すねるように聞いた。
「何言ってるんだ。今日は、たっぷり可愛がってやるよ」そう言いながら、女の尻を撫でる。
「やっだぁ、社長！　利息分だけに決まってるじゃん。社長、おっきいから結構大変なんだからね」

　麻里子は家に着くなり、急いで着替えた。
　しわになった服にいらいらし、乱暴に洗濯カゴに投げ入れた。
　気を紛らわそうとの思いから、じっとしていられずに、早めに夕食の支度にとりかかった。人と顔を合わせたくなかったので買い物はやめ、あり合わせでメニューを考えた。
　材料を手にした麻里子に、帰りの車内での山根の言葉が浮かぶ。
「こう言っちゃ悪いけど、社長…かなり短小なんでしょ？　それじゃ、奥さんを満足させられないよねぇ。バイブ使ってなんとかしてるけど、やっぱり本物は良かったでしょう？……おっと、聞くまでもないか。あの乱れっぷりじゃねぇ。いや〜奥さん、正直すごかったですよ。ははは」
　無言でうつむく麻里子に気を遣ったのか、山根はこう続けた。
「ああ、心配しなくていいですよ。勿論秘密にしておきますから。これでも、社長の家庭を守ってるつもりなんですよ。よその男と浮気なんてされたら、きっと社長、どうにかなっちまう。でも、私なら安全ですからね。だから、また欲しくなったら声をかけて下さい。いつでもお相手させていただきますよ」
　憂う麻里子とは対照的に、山根は上機嫌だった……
　苛立たしい思いでそれを振り払い、材料を刻み始めた。

　電話が鳴った。明彦からだった。
「会社に電話したら、気分が悪くなって早退したって。大丈夫なのか？　ああ、あのさ、○○さんのスコアが良かったんだよ。すごいご機嫌でね、飲むことになっちゃったんだ。早く帰るって言ってたけど、ごめん、遅くなるからね」
　受話器を置きながら、麻里子はほっと息をつき、手近な椅子にストンと腰を下ろした。
（良かった、酔って帰ってくる。なんとか気持ちを切り替えなくちゃ。こんなでは、明彦さんに気付かれちゃう）

　しかし、何も手につかずボーっと椅子に座る麻里子は、今日の出来事を思い返してしまう。
　専務の山根……（山根と関係してしまったなんて）
　しつこくねちっこいセックスに、抵抗しきれなかった自分を後悔した。本物がいいんだろう、そう言われて、熱いペニスを受け入れてしまった。
　欲望をコントロールした老練のセックスは、翻弄し続け、何度も何度も深い絶頂に押し上げて行った…
　バイブで得られるものとは違った、全身を突き抜けるような快感は、理性を黙り込ませ、自身に潜む“女”を魅了した。
　山根が言っていた、明彦では与えられない快感……無意識に、欲しがってしまっていたのだろうか。
　答えはわかっていた。自分の体が変わってしまったと。明彦では不可能なのだと。
　山根にもわかってしまっていたのだろう。温厚な人柄が少しも悪びれることなく、充実感さえ見せながら、嬉しそうに抱いていた。「満足させてあげたい」と再三言われた。こんなことになってしまったのは、自分に隙があったのだろう。
　隙…満たされない体。明彦の代役のバイブ。それを熱心に操る夫。自分が満足を見せれば、それが明彦の満足になっている……
　深いため息をついた。
　倉橋に「おめでとう」と言われた、女の扉…
　女に目覚めた体を、今は恨めしく思った。

　あの出来事から２週間が経った。山根は言葉通り平常の態度をとり、ひとまず麻里子を安心させたが、山根とまともに目を合わせられない麻里子は、さりげなく山根を避けていた。

　そんな、ある日。会社に、倉橋のスタッフから連絡が来た。
　何度かのやり取りを済ませてある。翌週にはコンサルタントの経営分析が出来上がり、スタッフが来社して再構築の指示があるとのことだった。
　そのことは、明彦から社員に告知された。気になるのは人員整理だったが、解雇はしない約束をとりつけてあると説明され、皆の最大の不安を解消させた。

　明彦も含め営業社員が出払った社内には、麻里子と事務の夏美、それに外出を予定している山根がいた。
「あ、そうそう。夏美ちゃん、５年前の売り上げ表ってどこかしら？」麻里子が夏美に聞いた。
「え〜、そんな古い資料ですかぁ。私の入社前のですから、え〜っと、確か地下倉庫の右奥のほうだったと思いますけど。乱雑になっちゃってるから時間かかるかも…あ、奥さん、もしかして例の資料ですか？」
「多分そうだと思うけど、何も聞かされてないのよ。昨日の夕食の時に、揃えとけって言われただけなの」
「そうですかぁ…はい、これ倉庫の鍵です。書類箱は重いから、無理なようだったら手伝いますよ。遠慮なく言って下さいね」
「ありがと。なるべく夏美ちゃんを煩わせないように、がんばってみるわね」
　鍵を受け取り、麻里子は地下倉庫への階段へ向かった。

「奥さんの細腕じゃ、あの重い箱を持てんだろう。さて、ちょっと手を貸してくるかな」程なくして、山根が席を立った。
「重いし見つけにくいでしょうから、助けてあげて下さい。専務って奥さんにはやさしいんだからぁ。私の時も手伝って下さいよね」
　夏美の笑い混じりの声に、軽く片手を上げて答え、山根は地下へと向かって行った。