１１．

　数日が経ち、倉橋の会社のスタッフが来社した。応接室で明彦と打ち合わせをしている。
　内勤者のみならず営業社員も外出を控え、全社員が内部の様子を気にしていた。

「…以上で借入金の対処はよろしいですね」明彦と同年代の男が説明する。隣には、それより年上と思われる女性が記録を取っていた。どちらも倉橋の会社の人間だ。
　同席する明彦は時々口を挟むだけで、テキパキとした進行にあっけに取られていた。
「さて、最後に人事ですが。手を入れないお約束でしたが、専務さんもあと数年で定年ですし、いい機会ですので内勤事務を改変する方向で進めさせていただきたいのですが」
「か、改変と言いますと…」
「いえ、大きな変動ではありません。奥様の麻里子さんの代わりに、新たに１人採用すると言う案なのです。２ヶ月ほど当社の教育担当を置きまして、営業管理から経理まで事務要員２人でできるように教育致します。そうしますと先の専務さんの退職も問題なく迎えられると思います」
「それは、麻里子を辞めさせるってことですか？　あの、小遣い程度の給料しか出してないんですが…」小遣い程度とは言ったが、実際は大きく引き下げざるをえなかった明彦の給料の足しに廻されていた。
「ええ、確かに人件費は増加となりますが、このような場合、処理能力の高い人員が望ましいのです。残念ですが麻里子さんでは不適格だと判断されました。申し訳ありませんがご理解いただけませんでしょうか」
「は、はあ…」
　不安そうな明彦に、スタッフが続ける。「分析通りにいけば、減額された給与は半年で元に戻せる予想が立っています。どうでしょう、是非おまかせいただけませんか？」
（前のような生活に戻れるのか…麻里子にも苦労させたし、手伝い程度とはいえ会社勤めと主婦業は麻里子にはきつかった。弱音を吐かずにがんばってくれていたが、半年だけ我慢すれば楽をさせてやれるのか）
「ええ、異議はありません。その案でお願いします」

　会議を終えた２名のスタッフは応接室を出て各デスクを廻り、営業社員に質問、指導をしている。明彦もその中にいた。事務の夏美もいろいろと指示されていた。
　一人その輪からはみ出している麻里子は、所在なげに時折かかってくる電話の取次ぎをしていた。
「失礼します」低いがよく通る声が響いた。
　麻里子が顔を上げると、それは倉橋だった。とたんに胸がざわめく。
　倉橋は明彦を見つけ、歩み寄って力強い握手をする。「打ち合わせに同席すべきところでしたが、所用で遅くなってしまい申し訳ありません。松本さん、案件はご賛同頂けましたでしょうか？」
（倉橋…来るなんて聞いてなかった）明彦は複雑な思いで握手を返した。「あ、ええ、なかなか素晴らしいものだと…」
「それは安心しました。ああ、山田君、会議の記録を見たいんだけど」握手の手を離しながら、社員に話しかけている男性スタッフに言った。
「社長、いらっしゃれないかと思ってました。記録はそちらの応接室にあります」説明に同室しようとするスタッフに「いいから、そのまま作業を続けて」と言い、一人で応接室に入って行った。
　倉橋の姿が視界から消えた。無意識に倉橋を目で追っていた麻里子は、ふっと我に返り瞬きをした。「あのぉ奥さん、応接にコーヒーをお願いします。今、手が離せないので」机に就いたままの麻里子に夏美が声を掛けた。
　確かに指示された作業に追われているようだったが、そう言われるまでもなく、雑事は麻里子の担当である。夏美の言葉は、ぼーっとしていた麻里子を促すものだった。

「はい」ノックに答える声が聞こえた。麻里子が盆に載せたコーヒーを持って応接室に入って来た。
「ああ、どうぞおかまいなく、客じゃないんですから。でも、う〜ん、いい香りだ」書類から顔を上げた倉橋は、笑顔で麻里子に言った。
「まあ。高級なコーヒー豆じゃないんですよ」麻里子は遠慮がちにカップを置く。
「淹れ方がお上手だからかな」一口すする。「うん、うまい」いたずらっぽく笑った。つられて麻里子の口元もほころぶ。
「お元気でしたか？」書類を閉じ、じっと麻里子を見つめながら倉橋が言った。「お会いしたかった」
「……え？」それは思ってもみない言葉だった。（会いたかっただなんて…私のことなど忘れているものと思ってたのに）
　相手の欲望のままに抱かれ、虚しい快楽しかなかった麻里子は、あの夜のようにやさしく抱かれたい望みを持っていたが、叶わないことと諦めていた。嫌っていたバイブだったが、火をつけられてしまった身体を鎮めてくれる唯一の手段と認め、嫌悪感を持つまいと努力しつつさえあった。
「またお会いできたら嬉しいのですが。無理なお願いでしょうか？」黙ったまま考え込むような表情の麻里子に言う。
　女であることを謳歌した夜がたちまち甦る。何度、あの夜に憧れたことか。体の奥がジーンと応えるのを感じた。でも前とは事情が違う。２人だけで会ったり、よもや抱かれたりしたら、今度は夫への裏切りになってしまう。
　身体はそんな迷いをよそに潤みだし、思いがけない倉橋の誘いを歓迎していた。（また抱かれたい…あの時のように）
　盆を胸に抱えて立ちすくんでいる麻里子に、倉橋のまっすぐな視線が注がれている。はっとその視線に気付き、邪まな想像を振り払った。（何考えてるのよ、ばか…断りなさい、きっぱりと…ほら早く）
　しかし、断る言葉は出て来ない。今はとにかくその場から逃げ出したかった。「あの……す、すみません。お仕事の邪魔でしたね」慌ててドアへと歩きかけた麻里子に、倉橋が声をかけた。
「これ、僕の名刺です」麻里子に名刺を手渡した。「よろしかったら連絡を下さい」
　突き返すべきなのはわかっていたが、渡された名刺がとても大事なもののように感じられ、隠すように手の中に収めた。無言で会釈をして麻里子は急いで応接室を後にした。
　上気した頬で給湯室に向かう妻を、明彦が苦い目で見ていた。

　夕食を済ませたテーブルで、片付けをしようと立ち上がった麻里子に、話があると明彦が言った。
「どうしたの？　改まって」椅子に座り直した妻に、決定した人事のことを告げた。
　麻里子の表情が曇った。
「……って説明だったんだけどさ、あ、あの…社内の雰囲気かなんかだと思うんだけど。麻里子はどっちかって言うと、キビキビした方じゃないから…」傷つけまいとの夫の気遣いは麻里子に伝わった。
　あれから山根のことが心の重石となり、地下倉庫の件があってからは常に気を張っていた。不要な人員と判断されたことは残念に思うが、会社を辞めればその山根とも顔を合わせずに済む。麻里子は僅かに笑顔になった。
「収入のほうは苦労させちゃうけど、半年で元に戻せるらしいんだ。だから少しの間だけ我慢してくれ」
「我慢だなんて。専門の方がおっしゃるのだから、それでいいと思う。お役に立てなくてごめんなさい。でも会社が順調になって、前のように旅行やコンサートに行けるようになると嬉しいわ」説明に四苦八苦している夫に明るく言った。
「そうだな、結婚記念日には旅行に行っていたね。うん、きっとうまくいくさ」
「ええ、楽しみにしてるわ」やさしく微笑む妻に、明彦は安堵した。
　この雰囲気を壊したくなかったが、どうしても聞きたいことがあった。明彦は言葉にするのを迷ったように何回か口を開き、やっと声にした。「…麻里子、あのさぁ……」
「え？　なあに？」微笑みながら軽く首をかしげ、まっすぐに夫の目を覗き込む妻に気後れして、明彦は思ったことを口にできない。
「え〜っと…あ、そうだ、頂き物のワインがあったよね？　あれ１本開けようよ」
「うん、いいわね。今、用意しますね」

　和やかにワインがすすんでいる。ボトルが空いてしまっていた。
「ねえ、もう１本開けようよ」酔った声で、明彦が言う。
「あなた、ほとんど１人で飲んじゃったのに、まだ飲むの？　はいはい、今持ってきまーす」すねた表情の夫にクスっと笑い、麻里子はワインを持って来た。
「麻里子ももっと飲んで」２本目のワインを開けて、妻のグラスに注ぎ足した。
「いただくけど…今、ワイン取りに行って足がふらついちゃった。先に洗い物を片付けちゃうわね」
「そんなの明日でいいじゃないか」明彦は不満を表したが、麻里子はキッチンに向かった。「だって、残しておくと気分良くないんだもの」

　酔いのせいで緩慢になりながらも、食器を洗い終えようとしていた。
　背後から明彦の声がした。「ねえ…」
「なあに？　おつまみかしら。何か作る？」洗い物の手を休めずに、聞き返す。
　明彦が後ろから麻里子に抱きついた。頬に寄せられた明彦の口元がアルコール臭い。
「も〜、じゃましないで」笑いを含んだ声で言い、洗い続ける。麻里子の前で交差された明彦の手が、服の上から両胸を包んだ。
「後で何か作ってあげるから。リビングで待ってて、ね」
「あのさぁ…今日さぁ…」胸を包んだ手を揉むように動かした。「ぅ…」麻里子の手が止まった。
「…今日さ……倉橋と会って…どうだった？」
（えっ！　倉橋さん？）唐突な言葉に驚いた。「…どうって……」
「応接室で、なに話したの？」夫の倉橋へのわだかまりを感じ取った。
「べ、別に何も。ああそうそう、コーヒーがおいしいって言ってらしたわ。安い豆なのにね」努めて何気なく言った。
「ふ〜ん……それだけ？」　「そ、そうよ。すぐに失礼したわ」
　胸においた手の片方が下がり、スカートをくぐって股間を覆う。「ぁん……」
「だって、嬉しそうだったじゃないか」酒臭い息で明彦が聞く。
「夏美ちゃんに頼まれてコーヒーをお出ししただけよ。変なこと言わないで」水洗いで濡れた手だったが、かまわずに明彦の手を掴み、自分から引き離す。手はあっさりと外れた。
　ゆっくりと振り向き、明彦に言った。「ワインを飲んでて。これが終わったら、おつまみ作るから、ね」ぎこちない笑顔の麻里子をキッチンに残し、明彦は無言でリビングへと戻って行った。
　その後姿を見届け、流し台に向き直りため息をついた。（嬉しそうだなんて…そんな顔しちゃってたのかしら。ご機嫌悪くならなければいいけど）
　再び洗い物に取り掛かかる。しかし、すぐに手が止まってしまった。
　またお会いできたら…誘いの言葉が頭に浮かぶ。記憶は先日のホテルへと移っていった。麻里子をやさしく高めようと働く手、キス、言葉、そして逞しい男性自身。倉橋の汗さえも憶えている。諦めていた、あの甘美な体験……
　酔いで火照る麻里子だったが、体の芯は別の熱をもってきた。